昨夜は、辻堂海岸で焚き火を囲んでの対話会だった。
今年の夏はいつもにまして猛暑だし、海岸へのアクセスが悪いこともあって、近隣の旧友の集いみたいになったのだが、思いがけなく小田原から密かに憧れている人の飛び入り参加があって気分があがった。
時間と駐車料金をかけてわざわざ来てくれるってただただ光栄だ。
私は、その人に会うといつも妙に緊張してむずむずして、足元がふわっとおぼつかなくなる。
彼女は、飛び抜けて目鼻立ちが美しいとかそういうわかりやすいことではないのだが、女っぽくないのにどこかセクシーで、自分に似合う装いをよく知っていて、声が低めでいつも落ち着いている。そして一見とっつきにくいが喋るとめちゃくちゃ繊細で優しいという意外性。
うわー色っぽいなあ、素敵だなあ、と思って、話せて嬉しいくせに身構えてしまう。
思い返すと、そういう女性は中学生くらいから折々身近にいたような気もする。
私が若い頃は、昨今のようにジェンダーに関する知識はずっと少なかったから、私は当然のように自分を異性愛者だと思ってきたけれど、そんなきっぱりしたもんでもないのかも、と今更ながら思ったり。
いざ会ってみれば、月明かりと焚き火の炎に照らされるだけの暗がりの中ではあんまり誰の顔もはっきりとは分からず、誰に対しても緊張することなく過ごせた。
強い南風、月明かりに照らされた夜の海、生きているみたいに燃える焚き火。
太古から人間が憩ってきたその組み合わせは、留保なく人をリラックスさせてくれる。
対話じゃなくても、家族とも、もっとしょっちゅう焚き火やってきたい。
そのためには、薪を安くゲットする方法を見つけなくてはなあ。
昨夜は、「安全に狂う方法」の中で紹介されていた、アルコホリークス・アノニマス(アルコール依存症者の自助グループ)で用いられるインクワイアリーという対話の手法をちょっと試してみたいんですけど、とお願いしてやらせてもらった。
それは、「言いっぱなし聞きっぱなし」というルールで、誰かがまとまった時間、話し切るまで、誰も口を挟まず、相槌も共感もうなずきもせず、ただしっかり聞くということをお互いにやるという手法。
日常の会話の中では不自然なことであり、人は普通はこういう話し方はしない。
相槌や適切な呼び水や共感といったものに励まされて人は自分の思いを語ることができるのだ、と思われている。
相槌もうなずきさえも封じたら、どれだけ張り合いがなく居心地が悪いことだろうと一見思いがちだが、私自身、対話を重ねるほどに、共感や誘導やあらゆる反応が鼻につくなあ、邪魔だなと思うようになってきていた。
「安全に狂う方法」の中で、著者の赤坂さんはこんな風に書いている。
自分の言うことも全部聞いてもらえる。相手も口を挟まない。
裁くものが一切ない場で受け取ってもらえて、相手を受け取る。
このことだけでも心というのはずいぶん安心し、滋養を得る。
ならばぜひやってみたい、と思った次第。
で、どうだったか。
私はやってみてなるほどと思ったし、「これいい」と言ってくれる人も何人かいた。(反応しないのは話しにくいという人もいた)
やっぱり一人で話し切るというのは、周囲の注目をひしひしと感じてよりぎこちなくなるものだから、リラックスできるシチュエーションが確保されてこそだとは思う。
それでも一番ぎこちなかったのは他でもない私で、皆、ゆったりと自分の話したいことをある程度話し切れているように見受けられた。
(私は改まった話を筋道立てて話すのがまじで下手で、毎回とっさには何も思い浮かばない。)
人は、さあ何でも話してくださいって言われても、話の最初の口火を切る人以外は、前に話していた人の話を受けずにいきなり全然違う自分の話を始めたりすることには躊躇があるものだ。
前の発言をスルーしては失礼に思えるし、自分勝手で空気の読めない人だって思われたくなくて。
その場のトーン(明るさや深刻さ)に沿った話題を話そうともする。
気まずい思いをさせたり、引かれたりするのが怖いから、適切な話題を探る。
だから、自分の話したいことと、場の話の流れが合致しない限りは、なかなか自分の話は口に出せず、そのまま会話が終わるってことはしょっちゅうあることだろうと思う。
私自身も複数人の場ではわりと黙ったまま終わるってことが多い。
大丈夫?って心配されるレベルで黙っていることもよくある。
でも頭の中は少しも退屈していない。
話さないのはひとえに自分の反応が鈍いからで、何を見聞きしてもその場では自分の中からぴったりとくる考えが湧き上がってくるということがまずなく、タイムラグが大きいからだ。
むしろ、無理にその場で話そうとすると、びっくりするくらいとんちんかんで思いとかけ離れたことしか口から出てこなくて、あとで恥ずかしさにわーっと叫びたくなってしまう。
そんな私だが、相手が誰であれ、私は人の話を聞くことが全く苦にならないし、普段から家族とかなり話すことである程度満足できているし、何より自分にとってのアウトプットは書くことだから、その場で話せないことへのフラストレーションはさほどない。
でも、対話をやっていると、自分の思いを日頃から言語化して認識できている人ばかりではないのだなあと感じる。
とにかくほとんど誰もが忙しくて余白がないなあと思う。
身近な人や家族やパートナーと会話があんまり成り立っていないような人もいる。
昨夜も、とにかく毎日が起きてから寝るまでノンストップで、座ることもあんまりなく、落ち着いてものを考えたり、ボーッとする暇なんて皆無って人がいた。
そういう人に、ささやかでも他にはない一定の満足を感じてもらえたら嬉しいなと思う。
それにしても、一人ひとりの話がただじっくり聞かれて完結し、また次の人が新たな口火を切る、という話し方をすると、人間てこんなにも全員ばらばらなことを考えているものだなあとちょっとびっくりするほどだった。
そして、誰もが自分に自信がなく、平凡でとるに足らないと思っている。
誰もが「そんなことを思ってたとは思いもしなかった」という話をそれぞれにする。
この人はきっとこんな風な人なのかな、という私の漠然とした先入観は外れまくる。
もちろん、考えてみれば当然のことだ。
誰もが違う背景、違う人間関係や仕事、違う健康状態、違う趣味嗜好、違う偶然の出来事を背負って生きている。
環境や条件や事情が同じ人なんてただの一人も存在しない。
それなのに、「専業主婦」とか「アスリート」とか「大学生」とか「教師」とか「老人」とか「ドイツ人」とか、まあ何でも、何かしらの分かりやすい属性と特定のイメージや要素みたいなものを簡単に結びつけて、決めつけて、誰かをあなどったり単純化したりするということを、人はとても安易にやる。
誰かを、自分にとって理解可能なバリエーションのどれかに仕分けして、分類した箱に入れて、その人を分かったということにする。
こうして改めて書くと、愚かで不当なことだと頭では理解できても、脳の仕組みとして、人はそのようにして物事を、誰かを簡単に分かろうとする、分かった気になるという癖から、なかなか逃れることができない。
分からないことを分からないまま、判断を留保したままに長く抱えておくことは、ものすごく脳のリソースを使うことだからだ。
ひとつの考えに居座らず、不確かさに耐え、絶えず想像力をはたらかせることは、脳にとってとてもくたびれることだ。
そんな面倒なものは誰だってさっさと放棄して、楽になりたい。
昨夜も、あーあ私ってめちゃくちゃ浅はかだなあー何にも分かってないなあーと何度も自分を残念に思いながら、いろんな話を聞いていた。
そんな自分がどうしてプレッシャーや落ち込みを感じながらもしつこく小さな旗を立ててるんだろう?
多分、私の内側には、自分を含めた人間の傲慢さへの怒りがある。
誰かを簡単にこういう人だって決めつけて分かった気になることや、
声の大きい奴や強者や多数派が何もかもを勝手に進めてしまうことの暴力性や、
自分は正しいから変わる必要がないと信じて疑わないことや、
嘘や薄っぺらな美辞麗句で人間を騙せるって思ってることや、
スマートで賢くで若い方が偉くてそうでない者は馬鹿にされても仕方がないとか、
誰かが勝手に真実や正義を捏造しようとしたり、何かをこう思うべしと刷り込むことなどに怒ってる。
同時に、人間てどこまで行っても無知だから、どうしてもつい傲慢や無神経に振れちゃう、まず誰よりも自分がそうだものって諦め半分で思ってもいる。
だからこそ、何度でも思い出すように作りたいんだと思う。
誰かがより偉いとか馬鹿にされるとか上も下もなく、誰もが同じように平等に尊重されて、自分の思いを素朴に話せる空間を。
誰かが誰かに「その感じ方はおかしい」なんて思い上がったことを、けして言わない空間を。
なんて、小難しいことを書いたが、基本は海での焚き火はただ気持ちが良くて、季節が暖かいうちは続けたいなと思っている。