みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

歪んだ認知の処方箋

ここ数日、息がしづらいような暑さ。

南の島で人が怠惰になるというのは、あれは怠惰ではなくて物理的に動けないからだし、頭もぼーっとして何も考えられなくなるからだよな、とつくづく体感している。

何かひとつ、やろうと思ってたことをできたら、ようやったと1日の終わりに自分を誉めてやる、それくらいの構えでいきたい。

 

しばらく人の出入りなく静かに過ごしていたのだけど、今週はいろんな人に会う機会に恵まれた、いつもより刺激の多い一週間だった。

尊敬する、好きな人たちと話すことは、楽しく学び多く、共に過ごす時間を作ってもらえたことがただありがたく嬉しく。

同時に、こういう時私は必ず浮き足立って、自分軸から外れた言動をしてしまう。

人と過ごした軽い興奮状態が終わって少し落ち着くと、途端に自分の見苦しい部分が気になり出して、くよくよと後悔したり悩みはじめることもめずらしくない。

清々しいままであることも、歳を取る毎に増えてはきたが、まだまだ3割以下ってところだ。

 

昨夜も楽しかったのに、あんな質問の仕方は不躾だったなとか、茶化してはいけないところで茶化してしまったとか、帰りの夜道ですでに重たい気持ちがもたげていた。

生来の根暗だし、面倒くさすぎるという自覚はさすがにある。

こういうことを人に話すと、「え!全然そんなことないよ」とか「考えすぎ」って必ず言われるので黙っている。

たとえ励ましてもらっても、自分の感じ方が修正されることはなかなかなくて。

一時は肯定的に受け止められても、長続きしないのだ。すぐに元の木阿弥になる。

 

この歪んだ認知からくる、独りよがりで先回りした言動のせいで、私は人生の折々でいろんなものをふいにしてきたし、人を傷つけたり、怒らせたりもしてきた。

こんな自分はもう嫌だって思って、なんとか認知を変えようとしてきたが、気を抜くと勝手に悲観的な深読みをどんどんはじめて、これ以上相手に迷惑をかけないために、何より自分が傷つかないために、人から遠ざかろう、遠ざかろうとしてしまう。

この癖は、多分一生治ることはないんだろうなあ、とどこか諦めてもいる。

 

別に言い合いがあったわけでも険悪になったわけでもなく、終始笑顔で楽しく過ごしたはずなのに、人と会った後に、しばしばこんな風にぐっと沈み込んでしまうのはどうしてだろう、と改めて考えてみる。

それは、他者は鏡だからだと思う。

自分のことは分からない、見えにくい。

だから、人は自分にとって都合の良いセルフイメージを適当にくっつけて暮らしている。

でも、他者と表面的でなくしっかりと向き合うように接すると、直接何かを指摘されるようなことがなくとも、その人の存在に照らされるようにして、自分の輪郭が自ずとくっきりと浮かび上がってくるということが起こる。

そこには、手前勝手なセルフイメージとは矛盾する、痛々しいずれのようなものがある。

相手が素敵な人であればあるほど、そのずれは耐え難く感じられる。

小さな自己完結的な世界の調和が揺らぎ、自分がとてもちっぽけでみっともない者に思えてくる。

そして、「相手の方が自分より正しいし秀でている」という前提で、比較して、相手にあって自分にないものを探し、劣等感を勝手に感じる。

 

だから、好きで尊敬している人や、自分と全く違うタイプの人ほど、その人と一緒にいると自分が自分であることがもの悲しくなってくるということが起こりがちになる。

その人と一緒にいることがだんだん苦痛で、耐えがたいものになってくる。

その結果、自ら逃げるようにしてその人から距離をとることになる。

そういう風に人と疎遠になってしまうことが、これまでの人生でずいぶんあった。

そういう風にして、私は私の世界を自分で狭めてきた。

それって、あまりに残念だし、悲しいことだな、と思う。

 

それでも、いつからか、そんな負のループからほんの少し脱することができるようになった。

自分の周囲にいる人たちとの関係性が少し変わってきた。

 

処方箋のひとつは、自分に起こったいろんなことを、時間をかけて考え抜く時間の大切さを自覚したことだと思う。

ひとりになって、つらつらとゆっくりと考え、感情を味わっているうちに、ようやく少しずつ認知の歪みが修正されて相対化されてくる。

ただ違うということ。

何ごとも一長一短であるということ。

元々の向き不向きや、得意不得意が人にはあり、自分の知り得ない事情を誰もが抱えている。

立ってる土俵が一人ひとり全員異なるので、誰かを簡単に羨んだりすることは意味がない、浅はかな考えだ。

よくよく考えてみれば、自分以外の誰かになんてそうそうなりたくはないなって思う。

そういうことたちが、時間差でだんだんと腑に落ちてくる。

人に優劣はなく、その人のいい部分が出やすい組み合わせと、出にくい組み合わせがある、それだけなんだってようやく思えてくる。

 

そこまで来たら、やっと自分にもいい部分があるって思えるし、人はなんて違ってなんて面白いんだろう、もっと話したいし知りたいって思えるようになる。

その人から逃げ出したくなくなる。

 

もう一つの処方箋は、「きっと自分は嫌われている」「きっといない方がいいって思われている」という思い込みをこらえて(こうして改めて書くと、我ながら滑稽だけれど)、あえて場に飛び込んでみる。自分を委ねてみる。

それで、ああ別に大丈夫だった、自分の思い違いだった、という小さな成功体験を地道に積み重ねていくこと。

逃げてひとりでいる方が100倍楽なことだから、とても胆力がいることなんだけど、小さな実体験は自分への何よりの信頼につながっていくと思う。

あらゆるトラウマ体験からくる認知の歪みを持つ人よ、共に頑張りましょうと言いたい。

 

その場でとっさに湧き上がってきた感情は、自分軸になっていないことが多い。

基本的に自分に自信がないからだと思う。

歳を取って、ましにはなってきたけれど。

その場では、まんまと世の中の物差しを内面化して自責してたり、騙されて感心したりしている。

自分でも場違いだって思うくらいに自分の感情ではないのだけれど、その場で一旦そのようにアウトプットした言動は、もちろん自分で引き受けなくてはいけない。

時にやりきれない思いを抱えながら、

 

自分の感情がいつもすぐには分からない。

自分の感情を感じるのに、いつもタイムラグがある。

生きる上で、そのことをかなり不便に感じている。

 

もしも日々の暮らしの中に、ひとりじっと考えるという時間を持てなかったら、私はすっかり混乱したままで、自分はだめな人間だって思って、悲観的に世界を見て、どんどん人が怖く、憎くなっていくと思う。

何より、自分の感情を見つけるというプロセスほど、自分にとって面白いものはない。

書くことと対話をすることは感情を見つけるための手段であり、つまるところ、私は感情を見つけるということにアディクトしているのだと思う。

 

 

全員寝静まった家にとぼとぼ帰って来て、熱いシャワーを浴びて、ペパーミントのボディウォッシュで体をがしがしと洗うと少しはまともな気分になったが、眠気は来ず。

もう散々飲んだので、これ以上は酒も飲みたくなく。

録画しておいた「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」の2話を小さな音で見て、読みかけの「安全に狂う方法(赤坂真理著)」の続きをベッドでちょっと読んで、なんとか気を取り直して眠った。