みずうみ2023

小さく心が動いたことについて

「平場の月」

 

2025年/監督:土井裕泰/117分/2025年11月14日〜

歳を取るって、どうしたってせつないことだ。

身体のどこかしらに痛みや不具合を抱え、命をおびやかす病気の予兆に時折怯えつつ、それも仕方ないことと受け止めやり過ごしながら、よれよれと日々を生きていく。

人それぞれの人間関係のしがらみがあり、他に手渡せるような大人は誰もおらず、というか今や自分こそが「立派な大人」なんだから、不安でもやぶれかぶれでも踏ん張って、置かれた場所で歯を食いしばって役割をまっとうしていく。

あるいは、いつだって真面目に懸命にやってきたはずなのに、ていよく使われて、気付けばひとり社会から切り離されたような孤独な場所で、やっと自分一人が生きていけるほどの低賃金労働で日々をしのいでいる。

もう美しくも強くもなく、何らかの成功をする予定もない、年老いてゆく人たち。

 

この資本主義の社会は、若さや美しさや強さや何かに秀でていることに価値があるというメッセージをあまりにも押しだすから、相対的にそうではない者は見下げられることになってしまう。

加えて、今は人々の意識や価値観が早いスパンでめくるめく変わっていく時代だ。

時代の感性にすみやかに自らを軌道修正し、新たなデジタルデバイスやサービスをその都度スマートにそつなく使いこなす器用さが求められる。

それができない人は、なんだか「お荷物」みたいに感じられてしまう。

でも実際は、多くの40〜50代って、いろんなものを引き受けて背負って、向かい風に立ちはだかるようにして、人生でもっとも奮闘しているハードモードの時期なのではないだろうか。

 

人生の捉え方はひとそれぞれだけれど、私は人生って、とりわけその後半は、誰もがひとしく地味な撤退戦を生きていく、というイメージを持っている。

年月は、取るべきものをしっかりと取っていく。

誰ひとり抜け駆けはできない。億万長者でさえ。

突発的例外的なケースは別として、誰もがだんだんと老い、容貌衰え、弱くなり、やがて病み、最後に死ぬ。

その意味においては、全員が負け戦だ。

なんて救いがなく、なんて平等なことだろう。

どれだけ科学技術が進歩しようが、人は1世紀も生きられない。

でもだからこそ、それぞれの撤退戦を「どう負けるか」にこだわることが、短い人間の生を生きるうえでの喜び楽しみだし、醍醐味なのだろうと思っている。

 

本作は、老いと死に向かうフェーズの中で再び出会った男女のパートナーシップを、茶化したり自虐したり美化したりすることなく、まっすぐに描いている。

青砥や須藤の中に、新たな希望や成長といった輝かしい要素は、ほぼ見当たらない。

介護、パートナーシップの破綻、変わりばえのない凡庸な仕事、そしてままならぬ病。

その中で生活にまみれて生き、避けがたく老いていくことは、確かにスタイリッシュなこととは言えない。

けれど、人がいろんな人生経験を重ねたからこそ得られた、思慮深さや相手を思いやる態度は、人にとってなによりも得がたい尊いものだと思う。

青砥や須藤が見せる、よく注意していないと見過ごしてしまうような小さな優しい仕草や、ちょっとした間、逡巡して言葉にならなかった時の困ったような笑顔。

あるいは、他者から向けられる不躾さや無理解や無神経さに対する柔らかな反応。

ある種の人は、世界に対するバッファーみたいなものを自らの裡に持っている。

そのバッファーは、自分と自分に関わる人たちを世界の理不尽や暴力性から守る。

 

この作品は、人が厳しい人生を生き抜くなかで、長い時間をかけて培われたごまかしのきかない確かなものに、静かで温かい眼差しを向けている。

そして、互いの弱さを優しさに変えて、いたわり合いながら人と人とが一緒にいることのすばらしさを見せてくれる。

過去の傷を抱えた者同士が、表面的なスペックなど、もはやどうでも良くて、その人がその人らしくあるさまに理屈抜きに惹きつけられる、自分を飾る必要がなく、とにかく気が合う、だから一緒にいたいって思う。

歳を重ねたからこそ、表面的なものに惑わされたり騙されたりせず、本質に忠実にあれるということがあると思う。

 

須藤を演じた井川遥が素晴らしかった。

私は須藤のような人たちに、人生の折々で確かに出会ってきたな、とせつなく思い出していた。

人に頼るのが苦手で、とにかく人に迷惑をかけないよう気を遣って、いろんなことができるのに、自分なんてと自己否定したり自分を責めたり。

ずる賢さが足りなくて、損ばかりしている。

でも、どこかに人としてのまっすぐな太さを持つ。

自分のこととなったらやけにいさぎよく、時々仰天するほど大胆なことをしたりして。

そういういつかどこかの彼女たちを改めて愛おしく思う、みんな幸せでいますようにと思う。

 

最終的に、青砥と須藤は一緒に生きることはできなかった。

須藤は、彼女が生きてきた中で培われたどうしようもないかたくなさゆえに、青砥の愛情から背を向けて、自ら一人に戻った。

そうして、ひとりで静かに死んでいった。

 

それはそれで、良かったのだと思った。

須藤は須藤らしさを生き切ったのだから、良かったのだと思った。

青砥の、須藤を尊重し、同時に揺るぎなく自分に正直であるさまも、大人だからこそできる立派なふるまいだったと思う。

 

目的や結果も大事なものかもしれないが、それらのために手段を選ばないような生き方は、本質的ではないんだと思う。

人生の岐路や巡り合わせの折々で、自分がどうありたいか。

その一つひとつを自分にとってできるだけ悔いないものにすることの積み重ねが生きるということだと感じる。

 

他人から見たら馬鹿馬鹿しいというかもどかしくなるようなことをしているのだけど、その人の心にとっては、それをすることに必然性があった。

そうすることでのみ、なんとか生き延びてこられたのだと思います。

出発点に「悲しい物語」があるところが、人間性の深い部分だと僕は思うんです。

人間ってそういう悲しい物語を再演しながらやっていくものでもあると思うんです。

実存というか尊厳というか。

個人的な人生というのはそういうところがあるものです。

 

つまり、人生の脚本は全て書き換えればいいわけではないと思うし、そもそも書き換えられない。

僕らの個性そのものだし、人生そのものを作っている側面がある。

 

どれだけ儲かったかとかも人生の一部で大切なんだけど、人生はそれだけじゃないと思うんですよ。

変な生き方を完遂する。

そういう文学性が全員にあると思う。

生きづらさの中にその人らしさがある。

  

(「つまり生きづらいってなんなのさ」より 東畑開人)

 

人に優しく、自分なりの「変な」生き方を完遂できたら、その人生は満点。

楽しく働く

週末は、家族に末っ子の世話をお願いして、クラフト市のマルシェで一日野菜を売っていた。

昨朝起きた時は冷たい雨が降っていて、どうなることかと思ったけれど、日中はお天気雨がぱらぱらと時折降るくらいで済んだ。

雨上がりの清涼な空気の中、雨露に濡れた野菜たちがぴかぴかしていた。

真っ白なカリフラワーや美しいサボイキャベツ、ビーツ、葉っぱまで青々としたおでん大根にルッコラ、ビニール袋に入りきらないサイズの巨大ないろんな種類のレタスたち、他にも色々。

野菜って美しいなといつも思う。

 

朗らかな相棒Mさんが時々なんか面白いことを言っては、大笑いしつつ一心に働き、ものすごーく売れた。

おにぎりを食べる暇もないくらいに忙しかった。

昼前には野菜がほとんど売り切れてしまったので、会場が畑から近かったこともあり、追加で収穫してもらって2時過ぎに届けてもらった。

「さっき畑から引っこ抜いたばかりの大根がきましたよー 超新鮮ですよー」と声かけをすると、どどーっと人が集まってきて、バーゲンセール状態で飛ぶように売れていき、あっという間にまたなくなってしまった。

 

自分たちが播種・定植してお世話をしてきた野菜を、自分の手で畑から収穫して。

ざばざば洗ってきれいに整えて。

コンテナにぎっしりの野菜たちを軽バンに積み込んで。

マルシェでもりもりに彩りよく並べて、壮観だなあって一人ほくほくして眺め。

お客さんに美味しい食べ方を紹介しながら、全然無理な押し売りはせず話すことを楽しんで。

「どれも立派なお野菜ね、全部買って帰りたいわー」と褒めてもらったりしながら野菜たちがみるみる売れてあちこちに散らばっていく。

夕方へとへとで、でも元気を保ったまま手際良く撤収作業をして、笑顔で手をぶんぶんと振って解散した。

 

そのシンプルなプロセスの全部に関われていることのありがたさを思う。

でも、うちの農家は少量多品種で、栽培方法も売り方もスタッフの働き方もすごく自由で独特だから、私のようなへなちょこでも働けている。

JAとかに大量に納めているような一般的なガチ農家では、とてもついていけない。

 

普段は三浦半島のガチ農家で働きつつ、自分の畑も立ち上げ、たまにうちの農家に手伝いにやってくるIさんというファンキーな元ミュージシャンの方がいる。

最近始まった三浦大根の収穫は、6〜7人で1時間半で4000本引っこ抜くんだと言っていた。

「もうね、身体が事故っすよ!事故!」

隣市の農家とダブルワークしているNさんは、朝の4時から4人でもりもりとレタスを収穫して、コンテナにぎっしり入ったレタスを、低速で走る軽トラにぼんぼんと投げ入れていくのだそう。

 

私たちはちょっと雑談などもしながら、大根50本収穫(大根ってめっちゃ重いですよね!とか言いながら)、かぶ150本(あえて間引いていない!)、ルッコラ100株(雑草をかき分けて探すスタイル)、全部積み込んだら次はねぎの畑に移動して、というゆるい感じ。

 

品質にすごいプライドを持って、雑草一本生やさないという気合いのガチ農家の軍隊みたいな仕事の仕方は、すごいなあ格好いいなあって思うけれど、人間が究極の機械みたいにならないと成立しないって怖い気がする。

それもJAという巨大な中間組織にどうしたって搾取されてしまうから、そこまで効率化せざるを得ないということがある。

だから、そうした既存の組織に極力依存せずにやっていくという、うちの農園のスタイルは、ビジネス的に見ても普通に合理的なんだろうなと思う。

 

うちの農園のオーナーは、いつも飄々として落ち着き払っていて、どうにもつかみどころのない人だ。

どうやらこの人はサイコパスの気質があるなとだんだん分かってきたので、私は間合いを空けて穏便に接するようにしている。

でも、サイコパス的だからこそ、協調性などに囚われず、同調圧力にはどこ吹く風で、農業のギャンブル性にも耐性があり、自分なりの農業のスタイルを自由に展開できているのだなあと思って見ている。

まだ30代の若手で、親から受け継いだ農地もなく、全部自力で立ち上げて数年でこの規模でやれている、いやー社長は相当やり手だと思うよ、としがらみでガチガチの三浦半島で農家をしているIさんは、感心して言っていた。

何事も一長一短なんだろうな。

 

私自身は、成長みたいなものにはもうあんまり興味がなく、誠実に、役に立ちたいとは思うけどすごくなりたいとかないし、お金をより大きく儲けたいという欲もどこかに転がっているビジネスチャンスを掴みたい欲もない。

リスペクトの形としての正当なお給料がもらえたらそれでいい。

だから、ビジネスのややこしいことは全部お任せして、ひたすらバランスを取るということを常に考えているという感じで、基本、余裕がなくならないように、楽しくあれるように働いている。

やじろべえのように、あっちに傾き、こっちに傾き、常に安定しない難しさの中を生きている。

そんな日々の中で、泥だらけで汗をかいて仕事から帰ってきたら、末っ子が家の中でわいわい走り回っていて、私の帰りを全身で喜んでくれるって、幸せでしかないなと思う。

 

これからも、元気に働ける健康に感謝しながら、いつも動的平衡を最優先事項と思ってやっていく。

「リアル・ペイン 心の旅」

 

2024年アメリカ/原題:A real pain/監督・脚本:ジェシー・アイゼンバーグ/90分

今のハリウッドではなかなか見られなくなってしまった、地味だけど心の機微を丁寧に描いたロードムービー

ポーランドが舞台になっていることもあり、全編を通してサウンドトラックにショパンピアノ曲があてられている。

物静かで、心に沁み入るような品の良いピアノの音色が、とても好ましかった。

 

主演・監督だけでなく、脚本もジェシー・アイゼンバーグ自身が手掛けている。

この作品のハイライトであるベンジーに対する愛憎入り混じった吐露のシーンは、はっとするほどストレートで、深い実感に根差した説得力を感じた。

きっとこの物語は、作者にとってとてもパーソナルな物語なんだろう。

 

同じジューイッシュで、知的でユーモアのある作風は、どこかウディ・アレンを彷彿とさせる。

でも、アイゼンバーグはニヒリストではない。

インテリでスマートな語り口だけれど、てらいのない素直な人間観がある。

そこにすごくほっとしたし、憩った。

それは今の時代においてはとても貴重なものだから。

 

控えめで全方位に配慮しすぎる常識人のデイヴィッドと、奔放で無礼で周囲に迷惑もかけるけれど、正直でオープンなベンジーは従兄弟同士。

おばあさんの死をきっかけに、彼らは祖母のルーツであるポーランドの歴史を辿るツアーに参加する。

 

一般的にロードムービーって、道中の出来事を通して登場人物になにがしかの気付きやブレイクスルーがあり、旅の終わりにはちょっと違う視点や場所を得ている、というある種の定型があると思うのだけど、デイヴィッドとベンジーは、最初から最後まで、やるせないほど彼らのまんまだ。

物語は、空港のベンチで落ち着きなく周囲を観察するベンジーに始まり、旅を終えても結局、また空港でひとりぼっちで所在なく座るベンジーの姿で終わっていく。

現実には、そうそう簡単に分かりやすい成長や変化など訪れない。

ぶつかり合い、もがき、でも互いを掛けねなく思い合う優しい心が旅のひととき交錯して、時が来ればまた避けがたく離れていく。

そのさまは、孤独な宇宙に浮かぶ淋しい惑星同士のようで、せつない。

けれど、安易に人が変わることを良しとしない、そのままを肯定する眼差しがむしろ優しい余韻を残したと思う。

 

デイヴィッド:

誰もがお前を好きになる。

お前が現れると、そこはどうなると思う?

あの気分が味わえるなら、俺はなんだってやる。

「人を魅了する」という気持ちが分かるなら。

僕が現れてその場が輝くなら。

お前は場を輝かせ、同時にクソも浴びせるんだけど。

デイヴィッドの告白をさびしそうに微笑みながら聞くベンジーは、デイヴィッドが普通に持っているものを、いわゆる「普通の人生」を、得ることはきっとない。

互いに愛情があり、自分の欠けている部分をお互いの中に見、デイヴィッドはベンジーのように、ベンジーはデイヴィッドのようになりたくて、でもどうしても人はその人のようにしか生きられない。

 

デイヴィッド:

ベンジーは、繊細で人を見抜くけれど、気持ちにむらがあり、間違った話に対しては豹変する。

僕は強迫性障害の薬を飲み、ジョギングし、瞑想し、会社へいく。

夕方には帰り、前向きに生きる。

僕の痛みは特別とは言えないし、僕は周りに負担をかけたくない。

 

ベンジーと一緒にいると、時々疲れ果ててしまう。

彼が好きだけど、すごく憎くて、殺したくなることもある。

でも、あいつになりたい。

一緒にいると自分が阿呆みたいに思える。

彼はクールで周りを気にしないから、彼といると僕はすごく困惑する。

彼を理解できない。

 

ベンジーはとても愉快で魅力的な奴だから、皆さんは最高の印象を抱いて帰るだろう。

でも、そんな素晴らしい奴が、ホロコーストを生き延びるという奇跡を経て今存在しているというのに、なぜオーバードースなんてするんだろう?

人にはそれぞれ個性や偏りというものがあり、どこかの部分で秀でていて恩恵を受けたなら、別の部分ではそれなりにこうむったり、代償を払っている。

結局のところ、外側からどう見えていようと、究極的には人って上も下もなく、一長一短でプラスマイナスゼロだ。

人は皆、不器用ででこぼこしていて、そんな人間たち誰もに、それぞれのかけがえのない良さであり味わいとしか言いようのない素敵なものが確かにある。

作為や努力を超えたところに、その人らしさが動かしがたくただ在るということは、なんて愛らしく、悲しいことなんだろう。

 

だから、できることなら誰に対しても、一人ひとりのかけがえのないその人らしさを、人と人との相容れなさを、それぞれ比べたりジャッジしたりすることなく、フラットになるべく面白がれたらいいのにと思う。

どうしようもない、解決などできないことだからこそ。

このあやうい状況に思うこと

高市首相の支持率が80%超えと聞いてがっくりしているこのところ。

個人的には、トランプ来日の際の横須賀基地でのはしゃいだ高市氏の姿は、あまりの異様さといたたまれなさに正視ができなかった。

外交というよりは、まるで接待のようだった。

トランプに対して身体を寄せて躊躇なく親密アピールをするのも大丈夫かと思った。

先月も全米各地で700万人以上の平和的な反トランプデモが行われ、最新のワシントンポスト世論調査では、アメリカが間違った方向に進んでいると答えた人は67%に達している。

トランプの天下はいつまで続くか。

数々の横暴な振る舞いや嘘が問題視されている人物に全力でおもねることは、道義的にも見識を疑われることで、国益を大きく損ねることだと思う。

そんなトランプを日本政府がノーベル平和賞に推薦するというニュースにもただ白目であった。

これらを批判することもない国内メディアは、もうメディアのていを成していないと思う。

 

まともな交渉も政治的駆け引きもなく、アメリカの要求を唯諾々と受け入れた結果、軍事費の更なる増額を約束し、国内の産業を細らせてもアメリカの利益のために日本の財産を膨大に注ぎ込むことになった。

国富の大部分の使い道を左右する重大な決定を、国会で話し合うこともなく、こういう場で勝手に決めてしまえるって、一体どこが民主主義なんだろうなと率直に思う。

 

主な”合意”項目だけ見てもとてもひどい。

アメリカへ84兆円投資。

これは、融資ではなく出資なので、アメリカに返済義務はない。

配当の90%もアメリカの取り分なので、日本は10%のリターンしか得られない。

国の財産をアメリカに献上しているのに等しい行為。

 

・国産米を減産する代わりに、アメリカ米の輸入を75%増やす。

主食の米が2年間で2倍の価格に高騰している中、石破政権での国産米増産の方針をくつがえして、再び減産することを決定。

米以外もアメリカの農作物1兆2000億円もの購入を約束。

これは日本の年間の食糧国家予算の約半分に相当する。

 

・武器の購入2兆5000億円、航空機100機購入。

こういう使い方をされるなら、もう頑張って働いて納税とかしたくないと思えてくる。

 

言うまでもなく、最も問題なのは、近年の日本の軍事費の急激な増額に次ぐ増額。

更に今回のトランプの来日で、高市氏は軍事費を2年前倒しで増額することを約束した。

まるでブレーキが壊れた車みたいだ。

(出典:しんぶん赤旗

2012年の第二次安倍政権以降、絶えず軍事費は増額してきたが、2023年からはあり得ないほど急激な増額に転じている。

そしてこのグラフにはない2025年度の軍事費は、8兆7005億円。

上のグラフを大きく飛び出してしまった。

3年で3兆3000億円軍事費が増えた。

国民生活が苦しい中、軍事費だけが6割以上増えているって、かなり異常なことだと思う。

 

遠いところで軍事費が増えていて、私たちの暮らしには特に関係がないということではもちろんない。

高市政権になってから発表された方針で、連立の維新の新自由主義方針も相まって、軍事費確保のために、国民が得られる社会保障・医療・福祉・教育への予算を削り、増税が加速することが明らかになっている。

すでに4兆円の医療予算削減が発表済み。

石破政権以降断続的に引き上がってきた基本賃金の引き上げも、2万円の現金給付も中止。

今後、私たちの日々の暮らしはより経済的に苦しくなるだろうし、医療福祉の制度が加速度的に脆弱になり、自己責任で金次第の不安な世の中に向かっていくと思う。

 

同時に、こうした国民にとって何ら良いことのない、当たり前に抵抗の大きい施策を強行突破するために、反対の声をあげる者を罰することができるように、高市政権を発足してすぐに国家情報局の創設が発表され、「国家機能維持条項」(=緊急事態条項のこと。どれだけ恐ろしいものかが広く知られてしまったので、去年名前を変えた)、スパイ防止法、国旗毀損罪などが、急速に前に進められようとしている。

メディアコントロールは、高市政権になってから非常に強まっている。

だから、何が今進行しているのかがまともに報じられない。

今起こっている客観的事実を横断的に知ろうと思ったら、海外メディアが頼れるソースになり、それなりの時間と手間ひまがかかる。

まるで安倍政権に戻ったみたいだ。

ただ受け身で降ってくる情報だけ浴びていたら、何も知らないまま。

特に、長期的なスパンで推移的に政治状況を把握しようとすると、ネット上では簡潔にまとめられた資料になかなかたどり着けない。

SNSでは、政治を危惧する声をあげたり、政権批判をした人に、おびただしい量の攻撃的なリプライが捨てアカウントで送られてくる。

 

 

「こういうことにはどうかなりませんように」と心の中で念じていたことが、新政権が発足した途端にいくつも起こって、目を閉じたい気持ちになっている。

高市氏になって、明らかなバックラッシュが起こっている。

選択的夫婦別姓の導入も当面は絶望的な一方、問題の多い共同親権は来年1月に施行される。

安倍政権時よりも、「強者に国有財産を差し出す代わりに自らの権力を保証してもらう」独裁傀儡政権味が増している。

食料自給率をあえて下げても輸入食材に頼る体制を進んで作ったり、インフラを外国の資本家に安く売り払ったりして、国を脆弱にし、国民を犠牲にしている人たちのことを、「愛国」とか「保守」と呼ぶってかなり倒錯的だ。

 

自由にものを言える社会では、日に日になくなっていっている。

どういう形で関わるかは分からないにせよ、この国は明らかに平和ではなく戦争に向かっている。

とても怖い、あやうい状況にこの社会が差し掛かっていると私は大げさでなく思っている。

 

でも。

でも、これまで人間は同じことを散々繰り返してきたじゃないか、とも思うのだ。

人間世界は、上から見ると同じことをぐるぐると繰り返しているように見えるけれど、横から見ると螺旋状に、少しずつ上昇している、というイメージを私は持っている。

人間はポンコツだけれど、同時に失敗から学んできたし、そのことによって確実に色んな側面で意識が変わってきたと思う。

 

たとえば、高市首相がトランプに全力ヨイショしてるさま、私にとってはもう見ていられないくらいイタい光景なんだけれど、それは私が強者男性におもねなければ排除されてしまう社会をまさにくぐってきた一人だからということはあると思う。

若い頃、私はお酌とかもせず「生意気」と言われる部類だったけれど、それでもあの感じを肌身でようく知っている。

だからこそ見ていて情けなく、たまらない気持ちになるし、削られる。

でも、高市氏に見られるようなスティグマは、若い世代にとってはすでに過去のものだと思う。

国会はどこよりも旧態依然としているけれど、一般社会では分かりやすいパワハラ男性なんてそうそう見られなくなっている。

今の時代なりの違うしんどさはあれど、20年前よりも性差を無駄に強調しなくても生きられるという感覚に変化しているということは、確かにあると思う。

それは少し螺旋を上昇しているってことで、希望なんだと思う。

 

学びと経験の蓄積による人々の意識の変化は、あらゆる側面においてきっとあり、過去と同じような場面に直面しても、そのたびちょっとずつ違う選択をする、違う応答をする、違う捉え方をする。

それによって、過去と全くは同じようにはならない。

違う結果が生まれる。

それは希望なんだと思う。

 

ただし、そうした人類の集合意識のアップデートとも言えるものを全部吹っ飛ばしてしまう禁じ手がある。

それが「緊急事態」だ。

「今はそれどころではない」という殺し文句で、権限を持った者や強者が人々を抑圧したり、支配することがまかり通る。

戦時中やパンデミックでは、人権を完全に無視するようなことも許されてしまう。

それは、とてもとても怖いことで、同時に人を支配したい者が喉から手が出るほど欲している状況でもある。

 

だからこそ、憲法改悪による緊急事態条項を作ることを、私たちは決して許してはいけないんだと思う。

それは私たちが人間らしく生きることを、根こそぎ奪うことを可能にするものだからだ。

意図に忠実であるということ

しばらく前、友だちと一緒に過ごしている時に、私が共通の知人Yさんについて何気なく話題を振ったら、すごく複雑な表情になり、実は数ヶ月前、Yさんから絶縁されてしまったと聞かされて、おどろくということがあった。

 

Yさんは、成功されている本業とは別に、個人のライフワークとして、人が生きたいように生きることをサポートするための対面個人セッションや、それに関わるワークショップなどかたちにとらわれない試みをしている。

少女のように可愛らしくて、風変わりで、きわめて本質的で、ある種の酋長的なカリスマがある。

けれど取り巻きのような人を一人も持たないし、全てが一期一会で何ひとつビジネス化することをしない。

私は、ああいう人をちょっと他では思いつかない。

 

私の知る限り一年以上にわたって、Yさんは友だちに定期的に会い、対話を重ねてきた。友だちのやりたいことを励まし、いろんなことを話し合った。

進んで彼女の天職の最初の顧客になって、毎回正規料金を支払って、さまざまな試行錯誤の実験台になり、フィードバックをしてきた。

ある時「多分、私はやっていけると思う」という友だちの言葉を聞いたその日に、「あなたはもう一人で大丈夫だから私は手を離しますね」と優しく言って、その後は友だちの元を訪れるのをやめた。

友だちはこれまでの密な付き合い、深いところまでいろんなことを話し合った二人の関係性があったので、普通にこれからも大事な友だちだと思っていて、その後も折々SNSにコメントしたり、誕生日のお祝いメッセージを送ったりした。

けれど、その日以来、完全に無視されるようになったという。

 

意地悪でそんなことをする人でないことは明らかなので、Yさんなりの考えがあってやっていることを友だちも理解してはいた。

でも、話しながら自然に涙が出てしまう気持ちもよく分かった。

互いに深くわかり合ったと感じていた人から一方的に切られてしまうというのは、その頼りがいのある魅力的な人にもう関われないということは、とてもつらいだろうなと思う。

 

同時に、私は改めてYさんに感服していた。

彼女にとっては、「助けるー助けられる」という枠組みのなかで出会った人は、どれだけ長い期間、互いに深い自己開示をしようとも、一度も「友だち」ではなかったんだと思った。

長期間の個人的で密な関わりのなかで、友だちが互いにすごく気が合っているし、「すでに私たちは友だちだ」と思うことも無理ないと思うし(だって一般的に人と人が知り合って友だちになっていく過程と同じことをしているのだから)、たとえ距離を空けるにしても、もうちょっと穏便にやれるものかもと思ったりもする。

というか、そこまで誰かに関わりサポートして、せっかく良い関係を築いたら、少なくともその人はもう仲間で、何かあった時にその人は自分をきっと助けてくれる存在だと考える人は少なくないと思う。

 

一人の人を助けるって、本当に手間ひまも時間もかかる大変なことだとよく承知した上で、Yさんは、彼女の心の時間に寄り添って1年以上、最後まで付き合い切って、一切の見返りを求めずに去ったんだな、と思った。

どれほど親友同士に似た関わりをしても、Yさんの中で目的や意図がぶれることはなかった。

そして、助ける対象が同時に友だちなんてことは彼女のなかで成立しないのだということ、なあなあで誰かとぬるま湯のような関係性を続けることはきっぱりと拒絶する彼女の生き方が、その断固とした態度から伝わる。

誰とも馴れ合わない。意図に忠実で、他の一切に揺るがないさま。

見事だなと思った。

 

人はいろんなことをする。

あらゆる仕事、趣味、社会活動、ライフワーク、ボランティア、創作活動など。

何かをやる中で、「何のためにそれをやるのか」は、すぐにずれたり曖昧になったりする。

意図は簡単に見失われる。

特に、経済的には報われにくい慈善的な活動では、表向きの正しそうな理由とは別に、その人自身のエゴを満足させる巨大な欲望が横たわっていたりもすることも少なくない。

退屈だったり、友だちが欲しかったり、安心したかったり、話を聞いてもらいたかったり、感謝されたかったり、人を支配したかったり。

人に優しくしたいし、されたい。

何でも語り合える仲間が欲しい。

安心してここが私の居場所だって思える、所属できる場所が欲しい。

個人的な不全感やさみしさを、活動を通じて得たい、自分を癒したいという、自分自身の欲に無自覚なままに、何かをしようとする人は大勢いる。

 

もちろん、究極的にはあらゆることにおいて、何かをやるのは自分のためだ。

何事もマッチングで世の中はうまく回っているものだと思うし、誰もが必死で自分の人生を生きていて、自分を幸せに生きさせようとしていろんなことをするのは当然のことで、何ひとつ悪くはない。

エゴ上等である。

 

ただ、自分が抱えているエゴや欲望に対して自覚的であることは、意図を見失わないために、他人に加害せず謙虚であり続けるために、必ず必要なんだと思う。

 

中でも、「ともだちがほしい」というのは、全部の種類の中にちょっとずつ混じっている欲望じゃないかと思う。

漠然としているし、切り分けづらい。

だから、多くの人がその部分に引きずられて、ずれたことや本末転倒なことをやってしまう。

社会的な層での人間関係をつつがなく維持しないと何かと厄介なことが起こりがちだし、罪悪感や断りづらさから、なあなあの対応になりもする。

 

そういう意味において、Yさんはきわめていさぎよいといえる。

以前、私がYさんと対話した際に「暗い悩みを長々と話してすみません」と恐縮して言ったら、「いえいえ大丈夫ですよ、大好物ですから」と言われた。

彼女は助けたいし、自分が自分のためにそのことを必要としていると自覚しており、それを相手に隠す気もないのだと思った。

(でも、私自身はその言葉で自分の切実さを消費されているように感じてしまい、その後はあまりYさんに心を開けなくなってしまったんだけど、それは私個人の問題で、また別の話)

つまるところ、Yさんは独自のやり方で、自分のために、もはや趣味とは言えないほどの覚悟と彼女なりのプロフェッショナリズムでもって、お金度外視でカウンセラーあるいは精神科医をやっているのだと思う。

すごく独自とは思うけど、そう考えるとよりシンプルに思える。

信仰心のある方だから、きっと神さまとの間で交わした約束があるのだろう。

私はYさんとは比べ物にならぬほど中途半端な人間だが、自分の裡にも彼女と同じ志向があることを感じるから、肌感で少しは分かる気がする。

それなりに深い業を抱えた方なのだろうということも。

 

私は長年、どうにも友だちとお金のやり取りをするのが苦手、友だちとはなるべく仕事という関係で関わりたくない、でも何がそんなにだめなのかがうまく言語化ができなかったんだけど、今回少し分かったような気がする。

私はいつも寂しいし、安心できる何かが欲しいという欲を常に抱えているから、何をしていてもいつの間にか「ともだちがほしい」「ともだちを失いたくない」という、本来とはずれた要素に引きずられて、意図に忠実であれなかったんだなあと思う。

 

そういえば、Yさんは、どんなにたくさんの人に囲まれ、慕われていても、誰の体ともくっついていない、空間が空いているという感じがする。

この人は特別な友だちみたいなことって誰に対してもなく、初めて会った人も、長い知り合いも、全員平等にリスペクトして丁寧に接する。

寂しいとかあいつ一生許さんとかみじめだとか、自分の弱さを隠さずいうのに、誰にも寄りかからず、いつも一本の木みたいにすくっと立っている。

人は孤独であるということが揺るがぬ前提なのかなと見ていて感じる。

それは人として美しい、ひとつのありようだなと思う。

 

私はきっと一生一本の木みたいにはなれないけれど、その自分の小物っぷりが人をほっとさせることもあるんだなと感じることもあるこの頃だ。

じたばたもがき、くよくよ悩み、しょっちゅう勘違いや思い込みをしてはまたやっちまったね、と恥じ入る。

そんな自分でまあいいかって思っている。

低め安定

冷たい雨が降る週末。

短かった秋は雨と共に去り、一気に冬の装備で過ごす日々になりそう。

きっと、気がついたら年末年始なんだろうな。

 

私は相変わらず低め安定で、基本はずっとどこかもの悲しくて虚しい、生きるってさみしいことだなあと思いながらのぼっち主婦暮らし。

ずっとぼんやりしているので、粗相のないよう一個一個のタスクにはなるべく時間をかけて向き合い、体力的に無理をせず、自分を雑に後回しにせぬよう心がけつつ、こぢんまりと静かに過ごしている。

 

そんな中でも、やるべきことはやれているし、喘息だが寝込むほどではなく、あちこち筋肉痛だが元気に農作業できているし、先週は星野源のツアー最終公演にも無事行くことが出来たー。

完璧主義の源さんらしく、本当に素晴らしい特別な時間だったけれど、目に見えて疲労困憊していて、人間世界に疲れ切っていることも伝わってきたし、「この6年、いろんなことがあって本当にうんざりでした。音楽を作っている時だけは楽しかったし、寂しくなかった」という率直な吐露には胸を衝かれた。

資本主義的には、誰よりも成功していると思われている人が、1人で音楽を作っているとき以外は楽しくなかったなんて、なんてことだろう。人の幸福ってなんなんだろう。

そのさまを客席からただ見下ろしている自分自身になんとも言えない居心地の悪さを感じ、彼の置かれている立場を想像して胸が痛んだ。

とにかく休んでほしい、家族で南の島とかでごろごろしたらいいんだよね、と友だちと口々言い合いながら帰った。

 

険悪だった娘氏と夫氏も、だいぶ元通りになってほっとしている。

私と娘氏、夫氏との最近の関係も、穏やかで協力的なものだ。

今月から、週末は末っ子の通いの療育クラスが始まって、素晴らしいプロの方に何人も育児に関わってもらい、心強いかぎりだし、私も毎週めっちゃ学んでる。

海の向こうの息子氏も元気にやっているようだし、実家の両親もそれこそ低め安定の様子。

 

一昨日父の誕生日だったので、妹と弟から家族の画像をもらって、それらをコラージュして額装したものをプレゼントしたら、とても喜んでくれた。

全員が集まる機会はないけど、子どもとそのパートナー、孫たち全員を集めたらまあまあ壮観であった。登場人物は総勢14名。

「50年前にあなたたちが結婚してからの歳月で、こんなに人間が増えました!」というメッセージカードを添えた。

これだけの人が自分たちから生まれて増えて、それぞれが立派に自分の人生を謳歌しているなんてすごいことやなあ、と父はしみじみ言っていた。

互いに「じゃあ、お元気で」と言い合って電話を切って少し寂しい気持ちになった。

次に14人がリアルに集まるのは、きっとあなたを見送る時だ。

その考えから目を逸らしながら、つとめて明るく喋っていた。

 

私なりにバランスを取りながら、晴耕雨読の暮らしをより楽しめるものになるよう、日々研究している、というかんじのこのところ。

若くていろんなことが難なくできていた時にはむしろ感じられなかった、自分がとても恵まれてるってこと、ありがたいなってことを、毎日ふとした折に感じて、人知れずじーんとしている。

自分の持っているものに気づくことができて、そのたびにじーんとできるということ。

そのことがたまらなく嬉しいし、切ないし、愛おしい。

 

もちろん、この世界は狂ってる。

自分の浅はかな行いに後悔したり、怒りや悲しみに囚われてしまうこともしょっちゅうだ。

疲れたり、痛かったりすると、すぐに余裕も失い、自己中心的で被害者的な意地悪な気持ちがぶわっとせり上がってくる。

それでも、スケールはめちゃくちゃ小さくも、昔よりは自分に恥ずかしくないようにやれていることを、時々心の中で指差し確認しては安堵する。

小さなことをばかにせず、人としてなるべく親切で善くあれるよう、気楽に努力を続けたい。

「ワン・バトル・アフター・アナザー」

 

2025年アメリカ/原題:One battle after another/監督:ポール・トーマス・アンダーソン/165分/2025年10月3日〜日本公開

とっても楽しみに待ち焦がれていたPTAの新作。

結果、「マグノリア」はやっぱり不動の1位のままだけれど、でも本作も相当好き。

王道ハリウッドアクションムービーを標榜していても、安易に単純化したり、薄まったり、とっ散らかったりすることなく、緻密で、さすがの手練れ感。

クレイジーなキャラクターで強烈な印象を残したショーン・ペンを筆頭に、俳優たちも文句なく魅力的だった。

(娘のウィラを演じたチェイス・インフィニティは、本作が映画デビューで、共演がディカプリオ、ペン、ベニチオ・デル・トロというあまりに濃い面々。こんなシンデレラ・ガールがいるのだなあ)

どんなスタンスで見ても、どうやったって楽しめてしまう多層性はさすがとしか。

今の世界のすぐれたメタファーであり、とぼけた味わいのコメディであり、ホラーであり、それら全てを包摂するようにして、不格好でしぶとい人間への尊厳と子どもへの愛、が物語を貫いている。

 

何よりも、私にとってPTA作品の必須条件である、「時空がねじくれるような濃縮されたエネルギーにめくるめく巻き込まれてぐあんぐあんするあの感じ」をしっかり感じさせてくれたので満足だ。

前作の「リコリス・ピザ」にはそれを感じなかった。そっかーPTAも人間だからそりゃ年取るよね、と寂しく思っていただけに、嬉しかったな。

 

ディカプリオ演じるちょっと情けない中年男のボブは、監督自身を投影した存在でもあるんだろう。(彼にも同じ年頃の娘がいる)

「かつては世を騒がせたが、今は冴えない日々を送る元革命家」って、かつて鳴り物入りでハリウッドに登場して、天才だって大騒ぎされていた彼自身のありようともどこか重なる。

もちろん、PTAはコンスタントに優れた監督作を発表していて、ボブのような落ちぶれた状況ではない。とはいえ、やはり年月は経ったのだし、生きていれば色んなこともあったろう。

だからこの作品は、私は父から娘へのラブレターだと思いつつ見た。

 

“世界は基本的に狂ってるし、大人は信用できる人間も少しはいるが、しょうもないクソはなにしろ大勢いて、そいつらは幅を利かせてやりたい放題だ。

人生とは、次々と降りかかってくるクソをその都度戦って蹴散らしていく、one battle after anotherの日々だ。

生まれてきた以上、誰も戦いからは逃れられないんだ。

 

でも、世界でどれほどひどいことが横行していようとも、虎視眈々と作戦を練っているレジスタンス、仲間は常にどこかに潜んでいて、仲間だけで分かり合える特別な合図が存在している。

普段はばらばらに生きていても、いざとなれば仲間たちと手を繋ぐことができる。

だから、志を捨てることなく、やりたいようにやって思い切りよく生きるといい。

そして、自分なりの革命を起こすんだ。”

 

ウィラは突然自分の身に降りかかった絶体絶命の危機、あまりに理不尽で訳の分からない状況を、映画のタイトルそのままに、自らの体力気力と運と生命力で次々と切り抜けていく。

その背後で、父親のボブが娘を救おうとがむしゃらに後を追っていることを、ウィラは最後の最後まで知らない。

酒とドラッグに依存し、お調子者で頼りないダメ父だが、娘を思う気持ちだけは掛け値なく、ひたすら強い愛に突き動かされている。

でも結局、ひとつも役に立ってなーい!

ウィラが結局、最後の追手を自らの手で退治して、全てが終わった直後、やぶれかぶれのボロ雑巾状態のボブが駆けつける。遅い!

 

でもその時、父娘の間で小さく音楽が響き合う。

レジスタンスたちが懐に持つ、どこにいても互いが仲間であることを知らせるための小さな機械が、「この人は味方だよ」と伝える。

泣けたー。

 

 

役に立とうが立つまいが、誰かが必死のぱっちで愛する者を助けようとするさま、誰かが誰かにとって何の留保もなく味方であるということ。

そこに理屈抜きのうざくもしぶとい、けして諦めない愛があるということ。

それこそが、このクソみたいな世界における、唯一の生きる希望なんだよなあ。