しばらく前、友だちと一緒に過ごしている時に、私が共通の知人Yさんについて何気なく話題を振ったら、すごく複雑な表情になり、実は数ヶ月前、Yさんから絶縁されてしまったと聞かされて、おどろくということがあった。
Yさんは、成功されている本業とは別に、個人のライフワークとして、人が生きたいように生きることをサポートするための対面個人セッションや、それに関わるワークショップなどかたちにとらわれない試みをしている。
少女のように可愛らしくて、風変わりで、きわめて本質的で、ある種の酋長的なカリスマがある。
けれど取り巻きのような人を一人も持たないし、全てが一期一会で何ひとつビジネス化することをしない。
私は、ああいう人をちょっと他では思いつかない。
私の知る限り一年以上にわたって、Yさんは友だちに定期的に会い、対話を重ねてきた。友だちのやりたいことを励まし、いろんなことを話し合った。
進んで彼女の天職の最初の顧客になって、毎回正規料金を支払って、さまざまな試行錯誤の実験台になり、フィードバックをしてきた。
ある時「多分、私はやっていけると思う」という友だちの言葉を聞いたその日に、「あなたはもう一人で大丈夫だから私は手を離しますね」と優しく言って、その後は友だちの元を訪れるのをやめた。
友だちはこれまでの密な付き合い、深いところまでいろんなことを話し合った二人の関係性があったので、普通にこれからも大事な友だちだと思っていて、その後も折々SNSにコメントしたり、誕生日のお祝いメッセージを送ったりした。
けれど、その日以来、完全に無視されるようになったという。
意地悪でそんなことをする人でないことは明らかなので、Yさんなりの考えがあってやっていることを友だちも理解してはいた。
でも、話しながら自然に涙が出てしまう気持ちもよく分かった。
互いに深くわかり合ったと感じていた人から一方的に切られてしまうというのは、その頼りがいのある魅力的な人にもう関われないということは、とてもつらいだろうなと思う。
同時に、私は改めてYさんに感服していた。
彼女にとっては、「助けるー助けられる」という枠組みのなかで出会った人は、どれだけ長い期間、互いに深い自己開示をしようとも、一度も「友だち」ではなかったんだと思った。
長期間の個人的で密な関わりのなかで、友だちが互いにすごく気が合っているし、「すでに私たちは友だちだ」と思うことも無理ないと思うし(だって一般的に人と人が知り合って友だちになっていく過程と同じことをしているのだから)、たとえ距離を空けるにしても、もうちょっと穏便にやれるものかもと思ったりもする。
というか、そこまで誰かに関わりサポートして、せっかく良い関係を築いたら、少なくともその人はもう仲間で、何かあった時にその人は自分をきっと助けてくれる存在だと考える人は少なくないと思う。
一人の人を助けるって、本当に手間ひまも時間もかかる大変なことだとよく承知した上で、Yさんは、彼女の心の時間に寄り添って1年以上、最後まで付き合い切って、一切の見返りを求めずに去ったんだな、と思った。
どれほど親友同士に似た関わりをしても、Yさんの中で目的や意図がぶれることはなかった。
そして、助ける対象が同時に友だちなんてことは彼女のなかで成立しないのだということ、なあなあで誰かとぬるま湯のような関係性を続けることはきっぱりと拒絶する彼女の生き方が、その断固とした態度から伝わる。
誰とも馴れ合わない。意図に忠実で、他の一切に揺るがないさま。
見事だなと思った。
人はいろんなことをする。
あらゆる仕事、趣味、社会活動、ライフワーク、ボランティア、創作活動など。
何かをやる中で、「何のためにそれをやるのか」は、すぐにずれたり曖昧になったりする。
意図は簡単に見失われる。
特に、経済的には報われにくい慈善的な活動では、表向きの正しそうな理由とは別に、その人自身のエゴを満足させる巨大な欲望が横たわっていたりもすることも少なくない。
退屈だったり、友だちが欲しかったり、安心したかったり、話を聞いてもらいたかったり、感謝されたかったり、人を支配したかったり。
人に優しくしたいし、されたい。
何でも語り合える仲間が欲しい。
安心してここが私の居場所だって思える、所属できる場所が欲しい。
個人的な不全感やさみしさを、活動を通じて得たい、自分を癒したいという、自分自身の欲に無自覚なままに、何かをしようとする人は大勢いる。
もちろん、究極的にはあらゆることにおいて、何かをやるのは自分のためだ。
何事もマッチングで世の中はうまく回っているものだと思うし、誰もが必死で自分の人生を生きていて、自分を幸せに生きさせようとしていろんなことをするのは当然のことで、何ひとつ悪くはない。
エゴ上等である。
ただ、自分が抱えているエゴや欲望に対して自覚的であることは、意図を見失わないために、他人に加害せず謙虚であり続けるために、必ず必要なんだと思う。
中でも、「ともだちがほしい」というのは、全部の種類の中にちょっとずつ混じっている欲望じゃないかと思う。
漠然としているし、切り分けづらい。
だから、多くの人がその部分に引きずられて、ずれたことや本末転倒なことをやってしまう。
社会的な層での人間関係をつつがなく維持しないと何かと厄介なことが起こりがちだし、罪悪感や断りづらさから、なあなあの対応になりもする。
そういう意味において、Yさんはきわめていさぎよいといえる。
以前、私がYさんと対話した際に「暗い悩みを長々と話してすみません」と恐縮して言ったら、「いえいえ大丈夫ですよ、大好物ですから」と言われた。
彼女は助けたいし、自分が自分のためにそのことを必要としていると自覚しており、それを相手に隠す気もないのだと思った。
(でも、私自身はその言葉で自分の切実さを消費されているように感じてしまい、その後はあまりYさんに心を開けなくなってしまったんだけど、それは私個人の問題で、また別の話)
つまるところ、Yさんは独自のやり方で、自分のために、もはや趣味とは言えないほどの覚悟と彼女なりのプロフェッショナリズムでもって、お金度外視でカウンセラーあるいは精神科医をやっているのだと思う。
すごく独自とは思うけど、そう考えるとよりシンプルに思える。
信仰心のある方だから、きっと神さまとの間で交わした約束があるのだろう。
私はYさんとは比べ物にならぬほど中途半端な人間だが、自分の裡にも彼女と同じ志向があることを感じるから、肌感で少しは分かる気がする。
それなりに深い業を抱えた方なのだろうということも。
私は長年、どうにも友だちとお金のやり取りをするのが苦手、友だちとはなるべく仕事という関係で関わりたくない、でも何がそんなにだめなのかがうまく言語化ができなかったんだけど、今回少し分かったような気がする。
私はいつも寂しいし、安心できる何かが欲しいという欲を常に抱えているから、何をしていてもいつの間にか「ともだちがほしい」「ともだちを失いたくない」という、本来とはずれた要素に引きずられて、意図に忠実であれなかったんだなあと思う。
そういえば、Yさんは、どんなにたくさんの人に囲まれ、慕われていても、誰の体ともくっついていない、空間が空いているという感じがする。
この人は特別な友だちみたいなことって誰に対してもなく、初めて会った人も、長い知り合いも、全員平等にリスペクトして丁寧に接する。
寂しいとかあいつ一生許さんとかみじめだとか、自分の弱さを隠さずいうのに、誰にも寄りかからず、いつも一本の木みたいにすくっと立っている。
人は孤独であるということが揺るがぬ前提なのかなと見ていて感じる。
それは人として美しい、ひとつのありようだなと思う。
私はきっと一生一本の木みたいにはなれないけれど、その自分の小物っぷりが人をほっとさせることもあるんだなと感じることもあるこの頃だ。
じたばたもがき、くよくよ悩み、しょっちゅう勘違いや思い込みをしてはまたやっちまったね、と恥じ入る。
そんな自分でまあいいかって思っている。