
今のハリウッドではなかなか見られなくなってしまった、地味だけど心の機微を丁寧に描いたロードムービー。
ポーランドが舞台になっていることもあり、全編を通してサウンドトラックにショパンのピアノ曲があてられている。
物静かで、心に沁み入るような品の良いピアノの音色が、とても好ましかった。
主演・監督だけでなく、脚本もジェシー・アイゼンバーグ自身が手掛けている。
この作品のハイライトであるベンジーに対する愛憎入り混じった吐露のシーンは、はっとするほどストレートで、深い実感に根差した説得力を感じた。
きっとこの物語は、作者にとってとてもパーソナルな物語なんだろう。
同じジューイッシュで、知的でユーモアのある作風は、どこかウディ・アレンを彷彿とさせる。
でも、アイゼンバーグはニヒリストではない。
インテリでスマートな語り口だけれど、てらいのない素直な人間観がある。
そこにすごくほっとしたし、憩った。
それは今の時代においてはとても貴重なものだから。
控えめで全方位に配慮しすぎる常識人のデイヴィッドと、奔放で無礼で周囲に迷惑もかけるけれど、正直でオープンなベンジーは従兄弟同士。
おばあさんの死をきっかけに、彼らは祖母のルーツであるポーランドの歴史を辿るツアーに参加する。
一般的にロードムービーって、道中の出来事を通して登場人物になにがしかの気付きやブレイクスルーがあり、旅の終わりにはちょっと違う視点や場所を得ている、というある種の定型があると思うのだけど、デイヴィッドとベンジーは、最初から最後まで、やるせないほど彼らのまんまだ。
物語は、空港のベンチで落ち着きなく周囲を観察するベンジーに始まり、旅を終えても結局、また空港でひとりぼっちで所在なく座るベンジーの姿で終わっていく。
現実には、そうそう簡単に分かりやすい成長や変化など訪れない。
ぶつかり合い、もがき、でも互いを掛けねなく思い合う優しい心が旅のひととき交錯して、時が来ればまた避けがたく離れていく。
そのさまは、孤独な宇宙に浮かぶ淋しい惑星同士のようで、せつない。
けれど、安易に人が変わることを良しとしない、そのままを肯定する眼差しがむしろ優しい余韻を残したと思う。
デイヴィッド:
誰もがお前を好きになる。
お前が現れると、そこはどうなると思う?
あの気分が味わえるなら、俺はなんだってやる。
「人を魅了する」という気持ちが分かるなら。
僕が現れてその場が輝くなら。
お前は場を輝かせ、同時にクソも浴びせるんだけど。
デイヴィッドの告白をさびしそうに微笑みながら聞くベンジーは、デイヴィッドが普通に持っているものを、いわゆる「普通の人生」を、得ることはきっとない。
互いに愛情があり、自分の欠けている部分をお互いの中に見、デイヴィッドはベンジーのように、ベンジーはデイヴィッドのようになりたくて、でもどうしても人はその人のようにしか生きられない。
デイヴィッド:
ベンジーは、繊細で人を見抜くけれど、気持ちにむらがあり、間違った話に対しては豹変する。
僕は強迫性障害の薬を飲み、ジョギングし、瞑想し、会社へいく。
夕方には帰り、前向きに生きる。
僕の痛みは特別とは言えないし、僕は周りに負担をかけたくない。
ベンジーと一緒にいると、時々疲れ果ててしまう。
彼が好きだけど、すごく憎くて、殺したくなることもある。
でも、あいつになりたい。
一緒にいると自分が阿呆みたいに思える。
彼はクールで周りを気にしないから、彼といると僕はすごく困惑する。
彼を理解できない。
ベンジーはとても愉快で魅力的な奴だから、皆さんは最高の印象を抱いて帰るだろう。
でも、そんな素晴らしい奴が、ホロコーストを生き延びるという奇跡を経て今存在しているというのに、なぜオーバードースなんてするんだろう?
人にはそれぞれ個性や偏りというものがあり、どこかの部分で秀でていて恩恵を受けたなら、別の部分ではそれなりにこうむったり、代償を払っている。
結局のところ、外側からどう見えていようと、究極的には人って上も下もなく、一長一短でプラスマイナスゼロだ。
人は皆、不器用ででこぼこしていて、そんな人間たち誰もに、それぞれのかけがえのない良さであり味わいとしか言いようのない素敵なものが確かにある。
作為や努力を超えたところに、その人らしさが動かしがたくただ在るということは、なんて愛らしく、悲しいことなんだろう。
だから、できることなら誰に対しても、一人ひとりのかけがえのないその人らしさを、人と人との相容れなさを、それぞれ比べたりジャッジしたりすることなく、フラットになるべく面白がれたらいいのにと思う。
どうしようもない、解決などできないことだからこそ。