みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「平場の月」

 

2025年/監督:土井裕泰/117分/2025年11月14日〜

歳を取るって、どうしたってせつないことだ。

身体のどこかしらに痛みや不具合を抱え、命をおびやかす病気の予兆に時折怯えつつ、それも仕方ないことと受け止めやり過ごしながら、よれよれと日々を生きていく。

人それぞれの人間関係のしがらみがあり、他に手渡せるような大人は誰もおらず、というか今や自分こそが「立派な大人」なんだから、不安でもやぶれかぶれでも踏ん張って、置かれた場所で歯を食いしばって役割をまっとうしていく。

あるいは、いつだって真面目に懸命にやってきたはずなのに、ていよく使われて、気付けばひとり社会から切り離されたような孤独な場所で、やっと自分一人が生きていけるほどの低賃金労働で日々をしのいでいる。

もう美しくも強くもなく、何らかの成功をする予定もない、年老いてゆく人たち。

 

この資本主義の社会は、若さや美しさや強さや何かに秀でていることに価値があるというメッセージをあまりにも押しだすから、相対的にそうではない者は見下げられることになってしまう。

加えて、今は人々の意識や価値観が早いスパンでめくるめく変わっていく時代だ。

時代の感性にすみやかに自らを軌道修正し、新たなデジタルデバイスやサービスをその都度スマートにそつなく使いこなす器用さが求められる。

それができない人は、なんだか「お荷物」みたいに感じられてしまう。

でも実際は、多くの40〜50代って、いろんなものを引き受けて背負って、向かい風に立ちはだかるようにして、人生でもっとも奮闘しているハードモードの時期なのではないだろうか。

 

人生の捉え方はひとそれぞれだけれど、私は人生って、とりわけその後半は、誰もがひとしく地味な撤退戦を生きていく、というイメージを持っている。

年月は、取るべきものをしっかりと取っていく。

誰ひとり抜け駆けはできない。億万長者でさえ。

突発的例外的なケースは別として、誰もがだんだんと老い、容貌衰え、弱くなり、やがて病み、最後に死ぬ。

その意味においては、全員が負け戦だ。

なんて救いがなく、なんて平等なことだろう。

どれだけ科学技術が進歩しようが、人は1世紀も生きられない。

でもだからこそ、それぞれの撤退戦を「どう負けるか」にこだわることが、短い人間の生を生きるうえでの喜び楽しみだし、醍醐味なのだろうと思っている。

 

本作は、老いと死に向かうフェーズの中で再び出会った男女のパートナーシップを、茶化したり自虐したり美化したりすることなく、まっすぐに描いている。

青砥や須藤の中に、新たな希望や成長といった輝かしい要素は、ほぼ見当たらない。

介護、パートナーシップの破綻、変わりばえのない凡庸な仕事、そしてままならぬ病。

その中で生活にまみれて生き、避けがたく老いていくことは、確かにスタイリッシュなこととは言えない。

けれど、人がいろんな人生経験を重ねたからこそ得られた、思慮深さや相手を思いやる態度は、人にとってなによりも得がたい尊いものだと思う。

青砥や須藤が見せる、よく注意していないと見過ごしてしまうような小さな優しい仕草や、ちょっとした間、逡巡して言葉にならなかった時の困ったような笑顔。

あるいは、他者から向けられる不躾さや無理解や無神経さに対する柔らかな反応。

ある種の人は、世界に対するバッファーみたいなものを自らの裡に持っている。

そのバッファーは、自分と自分に関わる人たちを世界の理不尽や暴力性から守る。

 

この作品は、人が厳しい人生を生き抜くなかで、長い時間をかけて培われたごまかしのきかない確かなものに、静かで温かい眼差しを向けている。

そして、互いの弱さを優しさに変えて、いたわり合いながら人と人とが一緒にいることのすばらしさを見せてくれる。

過去の傷を抱えた者同士が、表面的なスペックなど、もはやどうでも良くて、その人がその人らしくあるさまに理屈抜きに惹きつけられる、自分を飾る必要がなく、とにかく気が合う、だから一緒にいたいって思う。

歳を重ねたからこそ、表面的なものに惑わされたり騙されたりせず、本質に忠実にあれるということがあると思う。

 

須藤を演じた井川遥が素晴らしかった。

私は須藤のような人たちに、人生の折々で確かに出会ってきたな、とせつなく思い出していた。

人に頼るのが苦手で、とにかく人に迷惑をかけないよう気を遣って、いろんなことができるのに、自分なんてと自己否定したり自分を責めたり。

ずる賢さが足りなくて、損ばかりしている。

でも、どこかに人としてのまっすぐな太さを持つ。

自分のこととなったらやけにいさぎよく、時々仰天するほど大胆なことをしたりして。

そういういつかどこかの彼女たちを改めて愛おしく思う、みんな幸せでいますようにと思う。

 

最終的に、青砥と須藤は一緒に生きることはできなかった。

須藤は、彼女が生きてきた中で培われたどうしようもないかたくなさゆえに、青砥の愛情から背を向けて、自ら一人に戻った。

そうして、ひとりで静かに死んでいった。

 

それはそれで、良かったのだと思った。

須藤は須藤らしさを生き切ったのだから、良かったのだと思った。

青砥の、須藤を尊重し、同時に揺るぎなく自分に正直であるさまも、大人だからこそできる立派なふるまいだったと思う。

 

目的や結果も大事なものかもしれないが、それらのために手段を選ばないような生き方は、本質的ではないんだと思う。

人生の岐路や巡り合わせの折々で、自分がどうありたいか。

その一つひとつを自分にとってできるだけ悔いないものにすることの積み重ねが生きるということだと感じる。

 

他人から見たら馬鹿馬鹿しいというかもどかしくなるようなことをしているのだけど、その人の心にとっては、それをすることに必然性があった。

そうすることでのみ、なんとか生き延びてこられたのだと思います。

出発点に「悲しい物語」があるところが、人間性の深い部分だと僕は思うんです。

人間ってそういう悲しい物語を再演しながらやっていくものでもあると思うんです。

実存というか尊厳というか。

個人的な人生というのはそういうところがあるものです。

 

つまり、人生の脚本は全て書き換えればいいわけではないと思うし、そもそも書き換えられない。

僕らの個性そのものだし、人生そのものを作っている側面がある。

 

どれだけ儲かったかとかも人生の一部で大切なんだけど、人生はそれだけじゃないと思うんですよ。

変な生き方を完遂する。

そういう文学性が全員にあると思う。

生きづらさの中にその人らしさがある。

  

(「つまり生きづらいってなんなのさ」より 東畑開人)

 

人に優しく、自分なりの「変な」生き方を完遂できたら、その人生は満点。