昨日、久しぶりの哲学対話。
対話会であったことはよそで話すことはできないから、会えて良かった、この時期にやれて良かった、とのみ置いておく。
対話会をすると、どんなにいい時間を過ごしても、ほぼ必ず、あとでわけもなくぐーっと沈み込んだり、いたたまれない気持ちになったりする。
いつもしんどいなあ、こりゃ向いてないんだろうなあ、と思ってきた。
でもそれは、悪いサインではないのかもしれない、と最近思うようになった。
ほとんどの人は、基本的に何か話したいことや聞いてもらいたいことがあって、幾つものハードルを乗り越えて対話会にやってくるし、もちろんそれでいい。
でも、私は自分が話したいことは特になく、いつも聞きたくてそこにいる。
といっても、自分だけが自己開示をしないのは不誠実だと思うから、一所懸命ひねり出して何かしら下手くそに話すが、まあ下手くそなので、気まずい空気すら流れる。
淀みなくユーモアを交えて話すみたいなことに憧れるが、永遠に無縁で、きっとずっとこうして独りこりこりと書いているのがお似合いさまだ。
哲学対話なんてようは場をしつらえるだけで、私がやっていることは、その場で発される一つひとつの言葉を大事に、心からおもしろく思って、一心に聞くということだけ。
自分を虚にして自分のジャッジメントを入れないで、相手の話をひたすら真摯に身体ごと受ける感じで聞く。
それは、自分の心のガードを外して、自分を不確かで無防備な状態に置くということだ。
どこかアメーバみたいに自分がぼやけている感じがある。
だから、誰かの言葉を受けてぐらぐら揺るがされるし、これまで抱きしめていた考えとは違うものが何かしらぐあーっと内部に入ってくる。
そういう不安定さや変化は、安定していたい身体にとっては危機だから、何かしらネガティブな反応が呼び起こるのも不思議ではないのかもしれない。
というかそもそも対話って、全然違う考えと体を持った他人同士が、わりと密着状態で顔を突き合わせて、自分とは違う意見を表明し合う時点で、異和や気まずさや何かしらのハレーションは伴うもので、快か不快かと言われたら本来不快寄りのもののはずだ。
自分が揺るがされる、自分が変えられるということを、私は好むけれど、同時にそれを不快に、不安に思う自分もいるのだと思う。
だとしたら、落ち込むのは「今日もよく聞けました」というサインだから、良いことと思っていいのかも。
だから、今朝もしっかりもやもやしているが、それでええんや、と自分に丸をつけてあげる。
何より私はやっぱり対話が好き。
どんな考えとかは関係ない、人の「ほんとうの言葉」を聞きたい。
もちろんほんとうの言葉は、別に対話の場に限らず、アートや、生活の中での人との関わりの中にもある。
それはどうどうと流れる川の流れの底にある砂金みたいに、時折きらっと光っては、私の胸を熱くする。
でも、なにしろ川の流れは強くて早いし、その時々にやらなければいけないことが私たちにはたくさんあるから、砂金の輝きを一瞬感じて、それきり見過ごしてしまうことも多い。
対話という場をしつらえるのは、静かで小さな泉の周りに集うことに似ている。
まんなかにある小さな泉にぽとん、ぽとんと言葉を落とす。
それをみんなでしばしじっと眺めるようにして味わう。
言ってみれば、ただそれだけのことなんだけれど。
でも、それを一期一会で出会った人たちとやれるって、すごくないですか。
私は素敵なことだと思う。
ほんとうの言葉を話す人は皆いとおしいし、本当にかわいらしい。
自分もいとおしく、かわいらしいものと感じる。
そういうことを感じられるひとときを持つことで、少し世界を信じられる。
だから、毎回いたたまれなくなっても、自分をみっともなく感じても、対話を続けていきたいな、と今回思えた。
感謝。