みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

もらえたりもらえなかったりすることについて

療育での面談に続いて先週は、末っ子の通う保育園での支援ミーティングがあった。

半年前、末っ子の観察支援のために外部の療育の専門家が定期的に入ることを、保育園の先生たちはそれほど歓迎していなかったと思う。

けれど、半年ぶりに三者が顔を合わせた時、先生たちの感じが全然違っていた。

担任の先生たちは、めちゃくちゃメモを取っていて、保育の中で気づいたことをたくさんお話ししてくれた。

末っ子を見てくれている療育の先生は、末っ子の支援を通じて、親の私たちはもちろん、保育園の先生にもいろんな学びの機会を提供してくれているのだと感じた。

先生たちの子どもとの関わり方のちょっとした変化が、ただ末っ子にとってのみ良いことではなくて、先生自身にとって、ひいては保育園全体にとっても良いことにつながっていくことが感じられて、とても嬉しかった。

末っ子の持つ特性の幾つかは、多分一生続いていくものなんだと、療育の先生の話から実感する。

そもそも「治る」という言葉が適切ではないというか。

でもそれが「ある」ことを、親を筆頭とした周囲の人たちが共有していて、それにどう対処して行けばいいかのいくつかのアイデアがあれば、不安はだいぶ少ない。

そして、末っ子は日々すくすくと成長している。

ひとまずこれで、春からの体制が整った。ほっ。

 

感謝を感じながら帰宅したものの、私はどうにも居心地が悪く、夕飯の支度をしながらだいぶお酒を飲みすぎた。

こんなにたくさんの忙しい方々に、私たちのためにわざわざ集まってもらい、貴重な時間をもらって手厚く見てもらっているということが、どうしても気が引けて苦しくて。

だって本当は、子どもに関わる人たちが顔を合わせてその子について話し合うことは、希望する全員に対してなされるべきことなんだろうと思うからだ。

どんな子でも、一人ひとりの子どもはそれぞれの宇宙を持っていて、話が尽きないくらいものすごく面白い存在だ。

周囲の人たちがその子について考えるべきことは、どんな子であってもいっぱいあるはず。

子どもは素晴らしい自分の力を持っているけれど、周囲がケアしなくても大丈夫な子はいないし、自力で全部なんとかできるほど大丈夫で余裕があり、悩みのない親もそれほどはいないはず。

子どもによって効果的な関わりや工夫は千差万別で、まだ人としてまっさらな柔らかい状態だからこそ、ほんのちょっとした入力で機会が得られることもあれば、思い込んで長い間心の傷つきになってしまうようなことも起こりうる。

ある程度、そうした人生のあれこれは、巡り合わせと思っておおらかに受け止めるべきことだということは分かってはいるけれど、この半年、一定の個別対応を受けた結果の末っ子の変化や成長は明らかなので、喜ばしい反面、心苦しさがある。

 

その気持ちを、ご飯を食べつつ夫氏に話したら、

「たまたま今、そういう子どもへの支援がぼくらの住む自治体に存在していて、運良く制度につながって、その制度をいい感じで使えている。

うまくつながれない人もたくさんいるだろうし、制度が自分に合っていない人もいるだろう。

その制度はちょっとしたさじ加減で来年にはあっけなくなくなってしまうものかも知れない。

そうしたいろんなことが、実は自力ではほとんどどうしようもない。

 

この社会にはいろんな社会福祉があって、それぞれの面で恩恵を受けられたり、受けられなかったりして、でこぼこしている。

ある分野に関しては手厚い福祉を受けられても、別の分野では、何の助けももらえず自力でどうにかしてと言われる。

人によって税金の納め方だってでこぼこしている。

公平性を求めるのは、なかなか難しい。

だから基本、今自分にとって助けになるものが先方から提示されたら、それを粛々とありがたく受け取るということなんだと思うよ。」

というようなことを話してくれた。

ちょっとだけ気が楽になった。

 

こういう時、自分はこの夫さんで良かったなと思う。

意見が合う時、合わない時はもちろんあるけれど、こちらの投げた球を、どんなくだらない球でも、彼は言下にあしらったり、茶化したり、逸らしたりすることなく、基本面倒くさがらずに打ち返してくれる。

 

こういうやりとりを、いちいちまじめすぎてうっとおしいという人も多かろうと思う。

でも、私も末っ子と同じで、生きている中でぶつかるいろんな「なぜ」を自分なりに納得しないと、受け入れらないし、従えない、次に行けないめんどくさい人だから、私にはちょうどいい。