今回、「Black Box Diaries」を巡ってさまざまな意見が飛び交う中で、いわゆる「リベラル」の論客やジャーナリストの少ない人たちが、伊藤さんに対して辛辣な意見表明をしているさまを、なんとも言えない気持ちで見ていた。
昨年、印象に残った本のひとつが古賀史健著「集団浅慮」だったのだけど、日本におけるいわゆる「リベラル」の言論空間は、右翼的な言論空間と表裏のような存在なのだな、と思った。
つまり、どちらもムラ的な「凝集性の高い集団」であり、どちらも集団浅慮に陥っている、ということ。
凝集性(集団凝集性)とは、集団や組織に対する忠誠心、団結力や結束力、一体感、仲の良さのことを指す。
凝集性の高いグループは、メンバーにとってのアイデンティティ、誇りであり、安心や自尊心の拠り所となる。
だからこそ、内輪の友好的な関係性を保ちたいと切実に願う。
それがエスカレートして、グループの同調圧力は高まり、集団内の暗黙のルールに従うことを求め、異論を許さず、異端者を排除し、「平和」を保とうとする心の動きが生まれる。
ごくシンプルに言うと、集団にとっての非同調者を、道徳的倫理的な意味における悪・愚か者と規定し、自らに都合の良い情報を拾い集めて、ストレスのかかる対立や議論を避け、自らの正義のみを信じ込もうとしている心理状態を「集団浅慮」と言う。
元々は、右翼であれ左翼であれ、それが正しかろうがヘイトだろうが、社会にとっての非主流な考えを提示している時点で、彼らは「日本社会という凝集性の高い共同体」における異端者の立ち位置にある人々だったわけだけど。
その異端者たちが連帯して、また凝集性の高い共同体を作って、彼らにとっての「裏切り者」を糾弾する、というフラクタルの構図が繰り返されてるの、めっちゃ人間ぽいなと思う。
また、「我こそ中立の立場からものを言おう」というスタンスをしょって、一見配慮的な意見を語るジャーナリストや映像関係者や識者の言論が、自らも仲間内の論理を深く内面化していることに無自覚なために、部外者から見たら大きすぎるピットフォールをシンプルに突かれて、それでことごとく粉砕していくさまも、なんだかなあという感じだった。
普段、知識人・良識人として社会正義を語っている人が、一皮剥けばローカルなルールを絶対正義として誰かをバッシングすることに突き進むさま、対話や説明や議論を拒絶して自らの正義に閉じこもるさま。
それは、彼らが日頃こき下ろしている右翼的な人たちのありようとほとんど変わらないようにも見えた。
やっぱりどれだけ孤独でも、何かに所属することや、誰かの何かを鵜呑みにすることには注意深くあらねばならないということを、ひとりの偏った人間として思ったことだった。
つまるところ、「何が正しいか」だなんて、私のような者には分かりっこない。
自分なりに考えた上で、いつも拠り所にしているのは「壁と卵があったら、私は卵の側につく」というシンプルな方針だ。
人は弱い生き物だから、基本案件ベースでしか連帯してはいかんのだ。
政治の世界でも中道を掲げる政党があらわれたけれど、みずから中立とか中道を標榜するなんて、おこがましいし、マユツバだなと思う。
だいたい、原発再稼働を容認し、憲法の緊急事態条項に賛成する団体のどこが「中道」なんだろうと普通に思う。
中立なんてない。
「私はこうありたい」があるだけだ。