
この世界において「若い女性」とは、一体どんな存在なのか。
この作品は、その本質をはげしい痛みをもって浮き彫りにしている。
程度の差はあるとは言え、日本だけに限ったことではない。
だからこそこの作品は、多くの国で強い共感と同情をもって受け入れられたのだろう。
「若い女性」は、社会の中で求められ、守られ、甘やかされている存在と考えられている。
彼女たちは若く美しく、未来への選択肢はその手の中にあるかのように、見える。
でも、かつて若い女であった私はよく知っている。
若い女性が、社会の中でいかに客体化されやすく、つまり一人の尊厳を持った人間としては扱われにくく、その人権は容易に軽んじられ、踏みにじられるかということを。
「若い女性」は、この社会の中で、弱者性を帯びたあやうい存在だ。
25才のジャーナリスト志望の就活学生だった伊藤さんの身に起こった痛ましい性犯罪、それを公に訴えて自らの尊厳を取り戻そうとする闘いは、「境界線を越えたひとりの若い女性」に対して、この社会の人々が、いかに彼女を黙殺し、あるいはその声をふさぎ、無力化させることで事なきを得ようとするか、社会的スティグマに彼女をどれほど無遠慮に晒すかを、残酷な形で可視化することになった。
皮肉なことに、被写体(伊藤さん自身)の姿を通して、若い女性を取り巻く現実がさまざま垣間見えるのみならず、映画外においても、全方位からの忠告・指摘・教示・バッシングといったさまざまなマウンティング行為や批判に伊藤さんが長期間さらされ続けているその状況こそが、若い女性の現実をリアルに映し出している。
従順で、美しい笑顔と魅力的な若い肢体で目を喜ばせ、しかし身の程はわきまえ、強い者に逆らわず、男性たちに気まずい思いをさせず、この社会の「サポートメンバー」として献身的であること。
そしていずれは母として妻として、子孫を産み育て、各々の家庭のサポートメンバーとして生きること。
身も蓋もなく言えば、それが家父長制が若い女性に期待することである。
加えて今は、低賃金労働者の役割を担うことも求められている。
社会が想定する「若い女性」という役割の範疇にとどまってさえいれば、彼女らは確かにある側面においては持ち上げられ、一定の優遇を受けられるのかもしれない(その「優遇」を本人が欲しているかどうかは関係なく)。
というか、この社会は、彼女らが境界線を越えぬよう、手を替え品を替え画策してきたのだし、さまざまな言い分を持ち寄って、彼女らが境界線を越えることを思いとどまらせようとしてきた。
境界線をひとたび越えた時、彼女らを歓待していたはずの社会は一転する。
これまでの猫なで声を翻し、無慈悲で冷淡な存在に豹変する。
そして、彼女らの異議申し立てや怒りや悲しみや苦しさを、まるっと「なかったこと」にすることで、「全体の平和」を死守しようとする。
伊藤さんに起こった痛ましい出来事。それは確かにとてもひどいことである。残念だとは思う。
しかし、そのような目を背けたくなるような性犯罪がこの社会のそこここに存在するという事実を認めること、そして社会の中で強い力を持つ成人男性を、一介の女子学生が公然と告発し、法的に罰しようとすることは、この社会にとって極めて気まずく、「出過ぎたこと」である。
「傷もの」になってしまったことはお気の毒だけれど、悪夢だったときれいさっぱり忘れて、ことを公にせず、なかったこととして生きていく方が、あなたの身のためだ。
「あなたの幸せのために」、ぜひそうした方がいい。
それが被害に遭った伊藤さんに対する、この社会の多くの人々の一般的な対応だった。
少なくとも、伊藤さんが被害を告発する以前の8年前の日本では、それがスタンダートだった。
警察とのやりとりを録音した音声では、複数の警察職員が被害届を出すことを伊藤さんに断念するよう繰り返し促している。
「何時何分という証拠を出せないのであれば」と、まるでそれが彼女の落ち度であるかのように責める捜査員もいた。
それでも伊藤さんが引き下がらなかったことで、警察は動かざるを得ず動いたものの、警視庁の中村格は、法の手続きを破ってまでも山口の逮捕を直前で差し止めた。
どうせ若い女性がまともに声を上げることなどできないと高を括っていたのだろう。
実名で顔を出して告発しようとする伊藤さんに、彼女の父親は言った。
「普通に幸せになってもらいたいから」告発は思い止まってほしい。
誰かいい人を見つけて、結婚して家庭を持ち、実家の近くに住んでずっとみんなで仲良く幸せに暮らすことが望みなのだ、と。
「でも、沈黙することは私にとっては幸せではないの」と、伊藤さんは言った。
おそらく高い確率で使われたデートレイプドラッグによって朦朧とした状態の中、うわ言のように何度も帰りたいと訴える伊藤さんを助けることなく、ホテルに送り届けたタクシー運転手。
山口に引きずられるようにして部屋に連れ去られる彼女を、ただぼんやりと見送ったホテルのドアマンとスタッフ。
そこには、この社会の性犯罪に対する致命的な想像力の欠如があらわれている。
今自分が目の当たりにしている状況が、きわめて異常で危機的であるということへの認識を持てなかった、あるいは成人男性に歯向かって事を荒立てる事を避けたいがために違和感から目を逸らし、結果的に見殺しにした。
彼らは何年も経ったのちに、伊藤さんの要請に応じて一定の協力的な姿勢を示すが、被害に遭った伊藤さんが、なぜこれほどまでにへり下って懇願し、涙を流して感謝しなければならないのだろうか、と思わずにはいられなかった。
元担当刑事は、「自分の身が危うくなるような協力など当然できない、私は組織の人間なんだから。あなたが養ってくれるのか、結婚してくれるのか」とおどけた調子で言った。
伊藤さんから中村格を突撃取材したことを聞いた先輩格のジャーナリストたちは、そんなルール破りの取材をしたのか、と失笑するような態度を見せた。
(のちに、彼女を担当した弁護士や複数の「リベラル系」ジャーナリストや識者たちは、伊藤氏が重大なルール違反をしたとして、この作品を激しく非難することになる)
声をあげた伊藤さんに連帯する声が上がった一方で、匿名の誹謗中傷も凄まじいものだった。
意図的にデマを拡散し、「枕営業」と嘲笑する女性漫画家や女性の国会議員もいた。
次第に彼女は、日本に住むことができなくなった。
加害者の山口は、伊藤さんを名誉毀損で訴え、彼女に1億3000万円を要求した。
自身の犯罪が確定した今も、メディアに出演するなどの活動を続けている。
裁判所の前で出くわした伊藤さんを、「ああ!あの強姦された人!」と大声ではしゃぐように言う高齢女性がいた。
伊藤さんは一貫して断っていたが、伊藤さんを支援したい、何かしたい「善意の」人たちが押しかけるように集まり、支援者団体を立ち上げた。
彼女は「女性の地位向上のアイコン」として、さらに矢面に立つことを余儀なくされた。
ひとりの若い女性が自らの尊厳を取り戻そうとした時に、これほど社会の全方位からあらゆる種類の矢が飛んでくる。
映像は、その理不尽さと彼女の寄る辺なさを改めて突きつけてくる。
追い詰められた彼女は、一命は取り留めたものの、絶望して自死をはかったことが作品内で明かされている。
しかし、彼女は再び立ち上がり、民事裁判で勝利することになる。
山口の上告を最高裁が棄却し、山口の有罪が最終確定したのは2022年。
25歳だった伊藤さんは、33歳になっていた。
映画が終わって、隣の娘氏を見ると、だいぶ泣いてぐったりした様子だった。
もうご飯は食べずにこのまま帰る?と、言ったら、「いっぱい泣いたら腹減った」と娘氏は言った。
やけくそのようにもりもりとランチを食べながら聞いた、今まさに「若い女性」を生きている、中年の私にはもう感じえない、娘氏の感想。
なんだか、バトンを渡されたっていう気持ちになった。
映画を見て、すごく落ち込んだんだけど、同時に希望をもらえた感じがしている。
普段、壁がすごおおおく高いところにそびえているのを見上げながら生きているという感覚があるんだけど。
あのばか高い壁をひとりで乗り越えるなんて到底無理、そう絶望して、はなからあきらめて呆然と立っている。
でも時々、自分の立っている地面ごと、ごごごごーっとせりあがってくるような作品に出会う。
そんな時、自分は孤独ではなく、生きていけるって思える。
この映画は、そういう作品だった。
「記者会見で告発している人」という切り取られたニュース映像を見ていると、伊藤さんは生身の人間ぽく見えない。
でも(ドキュメンタリー)映画では、伊藤さんはすごく人間だった。
映像は、その人の抱えた複雑な文脈を伝えることができる、すごい力があるものだと思った。
映像を作るなんてもうこりごりと思ったけど、これからも自分の撮りたいものを撮ってみたいという気持ちになった。
作品の中に、女性ジャーナリストの集会に伊藤さんが招かれた時のシーンがある。
その中で、先輩ジャーナリストのある中年世代の女性が、絞り出すようにして言っていた言葉が、今も心に残っている。
「私も若い頃に、伊藤さんと似た被害を受けました。
その時は、仕事を失いたくなかったし、自分一人が耐えればおさまるのだと思い、公にはせずやってきました。
伊藤さんが『後に続く世代のことを思っていた』という言葉を聞いて、その考えは当時の自分にはなかったことに気付かされ、今、忸怩たる思いがしています」
参加者たちのそうした率直な自己開示を含む心のこもった連帯の言葉を受けて、伊藤さんは涙を流して言っていた。
「いつも人前に出る時は、裸になって立っているような気持ちでした。今回、初めてブランケットを体にかけてもらったような気持ちです」
私は、その中年女性と同じような者だ。
私も若い女を生きてきて、それなりにいろんな嫌な思いをしてきたし、その中には性犯罪と言っていいものだってあったけれど、あの頃、それらに毅然と怒り、抗議することなんて、思いつきもしなかった。
なんとか逃げたり、曖昧に笑ってごまかすようなことしかできなかった。
それは笑うようなことなんだ、あるいはそれは私の落ち度なんだ、私の恥なんだと思い込んでいた。
そうして自分自身を卑下して、誰かに気まずい思いをさせたり波風を立てることを恐れて何もしてこなかったことで、私は自分で自分を愚かで弱い者にし、後に続く世代に対して善きことをほとんど何ももたらさなかった。
この社会は誤った認識を温存し続け、その果てに、2015年に伊藤さんは被害に遭った。
告発当時から伊藤さんの事件は、私の中の何かをすごく強く揺さぶる事件だった。
この事件のことを思うと、自分への後悔や怒りや、伊藤さんへの感謝や申し訳なさや、悔しさや悲しさ、いろんな思いで心がぐちゃぐちゃに乱れる。
このことは、これからもずっと考えていかねばならないことだと思っている。
伊藤さんの告発から2年後の2017年、性犯罪に関する刑法(不同意わいせつ罪、不同意性交等罪)が改正された。
もちろん彼女ひとりによって実現したことではなく、多くの人たちの訴えや働きかけがあったことは前提として、伊藤さんのケースが世論を喚起し、改正への最大の決定打になったことは明らかだと思う。
それは、実に110年ぶりの改正だった。
それだけに、伊藤さんが声をあげたことはどれほど大きなことだったのか、それを改めて思い、深いリスペクトを感じる。
これほどの嵐に耐えなければ、自身の尊厳を回復し、社会の現状を変えられないのかと思うと、本当にやりきれない。
でも、彼女はやってのけたのだと思う。
19歳の娘氏は「バトンを手渡された」と言った。
本作によって、不快な思いをしている人たちがいるということも認識しておく必要があることとは思っているが、娘氏のの深い実感に根差した思いや、映画を見た自分自身の感情をまずは信じたい。
いずれにしても、時間が、おのずと本質を明らかにしていくのだと思う。