上映会の翌日、色々思いを語りたいだろうな、と思い、腰を据えて娘氏の話を聞く時間があった。
色んな話があった中のほんの一部だけど、彼女が今感じている素直な思いを、ほぼそのままに置いておく。
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これほど自分なりに頑張って、なんとかやり遂げ、それなりによくやったと認められても、結局わたしはひとりぼっちなんだなって、そのことをずっと思っていた。
私の中のひとつの真理っていうのは、一番大切にしないといけないものは、生活であるっていうこと。
自分が突然幸福を感じたりする瞬間ていうのは、必ず生活の中にあって。
何か心から響くような感銘を受けることも、やっぱり生活の中にある。
例えばすっごいいい映画を見た時の、すっげー!という興奮や感銘っていうのももちろんあるんだけれど、自分の中でずっと響き続ける幸福っていうのは、生活の中にしかない。
春にソファに座ってる時とか、窓を開けた時とか、外を歩いていて陽がくっと射す時とか、そういうふっという瞬間。
突然ふわって来る。それが今一番幸福だなって思う。
美味しいものを食べても幸せだし、好きな人に会っても幸せだし、いい映画見ても幸せなんだけど、それともなんか違う。
咲いている花や流れている雲を見た時の、ぽけっとした時に入ってくるもの。
むしろぽけってなるために、慌ただしく生きているというか。
慌ただしくなることとか興奮することとかに本質はなくて、その後にあまりにも疲れ切ってほけってなった時に、幸せを感じる。
だから、「すごくなる」ということと、幸福であるということをごっちゃにしてしまうことは、勘違いなんだろうね。
誰かに好きだよ、とか、良かったよ、とか、いいよ、とか言われる。
その賞味期限の短さ。
ていうかね、自分が重大に受け止めるほどには、他人は重大な気持ちで言っていないということがほとんどなので。当たり前だけど。
その逆もあって、自分が思うよりも他者が深く受け止め、時には誰かの人生が変わるようなことも起こるとは思うけれど、それは副産物でしかなくて。
そのために作ったわけでも、私がすごかったからそういうことが起こったのでもなく、ただタイミングが合いましたねっていう。
そこらへんが、ものを作っていると本当に色んなものがごっちゃになりやすい。
こういうものが「良いもの」なんじゃないかとか、色んな人の喜んでくれる顔が、とかさ。
色んなものが、絶え間なく自分の中にごっちゃになる要素として入ってきて、ものすごいぶれるんだと思うんよね。
だからむしろぶれさせるものに対して、何度も来る波に対して、ひたすらそこで立ち続けるということの方が、しんどい。
(星野)源さんとかは立ち続けた人の貫禄がすごい。
色んな作り手が源さんにリスペクトを感じるのだとしたら、そこなんじゃないかなと。
みんながみんな、すごいぶれる要素が、今はSNSとかから入ってくる。
誰かから突然褒められたり、突然けなされたり、そういうことが絶え間なく入ってくる。
承認と軽蔑と、そういうものに対してずーーっと揺らされながら立ち続けてきた人の貫禄を感じる。
源さんはある種、沖の方にいる人なんだと思う。
そんな深いところで、そんな強い揺れに耐えて立ち続けてっていう。
でも、浅瀬で生きることの、何がだめかっていう気持ちもある。
ある種の人は、どっちにしても沖に行くのかもしれないね。
大衆に承認されるような形にならなかったとしても、沖に行くんだと思う。
やっぱりいるじゃん、大衆的なものを作っていなかったとしても、沖で作業している人って。
それはもう、なんかその人の業というか。
沖の民は痛みが深い人が多い。こじらせている。
まあ、いかにぼーっとして生きているということが尊いかということなのかな。
私はもし、自分が小学生の頃のいかれた精神(なんでも丁寧に完璧に計画通りにこなす)のままで、もし回っていってしまったとして、そしたら何がしかの沖の民になっていたかもしれない。
なんかこだわりたい。なんか完璧に遂行したい。そういう。
一回沖に歩いていこうとする中で頓挫して、いやちょっと待って、沖の民の人たちってやばい人たちなんじゃないの?ってちょっと我に返って、笑。
だから、なんて言うんだろうな、完璧な作品を作りたい、自分の中で完璧に満足するものを作りたい、とか、「どこまでいっても満足することはないですね」とか言うアーティストの人とかっているけれど、あんなこと言いたくないって思う、ほんとに。
私は毎回「あーこれはこれで良かったな」って思ってやりたいから。
だから、(今回のことを経て)自分の中で考えていくんだろうなって気がした。
どういうところで、何を、どうやって作りたいか。
もし自分の作りたいものが見つかって、一人で作っても、それを今回みたいに誰かに見てもらう場をしつらえるというのが難しいなとは思う。
ただ作ってそれがどこにもいかないのもしんどいなって思うのよ。
誰が見てくれたということがひと段落というか。
いずれにしても「良い経験になる」だけでは続けられない。
なんでもいい経験にはなるしね、正直何やっても。
機会を与えてもらうということがどれだけ貴重かということも同時に存在するんだけれど、機会を与えてもらえるからなんでもやんのかというところもあって。
自分のバランスかなあ。
だからある種コスプレ撮影は、色々迷うところもあったけど、うん、ここらへん確かになんか居やすい!というか。
すごい撮影をする他のカメラマンを、なんでこんなめっちゃ上手い人がずっとコスプレ撮ってるんやろう、と思ってたけど、ちょっと分かる。
自分のやりたいことを、自分のやりたい人とだけ、好きなように探求できる。
近所の市民プールの25mプールの脇にある、丸いちっちゃな温水ジャグシーあるじゃん。
あそこみたいな感じなんだよね、コスプレのカメラマンたちがいる場所っていうのは。
休憩所っていうか、そういう感じがする。
だからみんなここに来るんやろうなって思った。
もちろん違うスタンスでいる人もいる、色んな人がいるけれど。
映像作るのって楽しいからなあ。
でも写真もそうだけど、撮るっていうことと編集っていうことは全然違うことなんだよね。
その両方やれば、確かに自分の意思は一番スムースに届くんだけど、両方やるのがしんどくなる時は結構ある。
編集の方が好きっていう人とかもいるけどさ、私はやっぱり編集が終わらないってずーっと言ってる。
編集を楽しいと思う時もあるんだけど、おおむね忍耐ってところがあって。
撮るっていうことの方が、自分の中ではよほど生命力が湧くようなことなんだよ。
映像は、写真よりもより文脈を変えられるところがめっちゃ大きくて。
写真は撮ったものに対して色付けや、ちょっとフィルムライクにしたりとか、確かに味わいを変えることはできるんだけど、まあ限度がある。
でも映像は本当に全く組み替えられてしまうから、撮った時とはかなり全然違ったものが違った形にして立ち上がらせるということもできる。
それはすごい面白いところなんだと思うけど、なんだろう、脚色する、嘘が上手くなる、みたいなことへの興味よりは、あるものを自分の中であるままに撮るっていうことの方が、興味が強い。
両方面白いとは思うけど。嘘が上手くなる方が面白いっていう人も結構いる気がする。
そのことに関してもリスペクトを感じる。
ただ、私はそれよりは、撮るっていうことの方に重きを置きたいな、って感じがある。
そんなことを思いながら明日も夏油傑を撮ってきますよ〜笑