みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

本番終えて

本番当日はぎりぎりまで粘って、予定から30分遅れの10時半頃に会場入りした。

当然、MAなぞ全然やっていないので、会場のスピーカーで音出ししながら整音作業をやり、最終の書出しを始めたのが上映会の開始30分前というぎりぎりぶりであった。

親の私たちは、娘氏を落っことしたらさっさと会場を後にするつもりだったのだけれど、夫氏が会場の音響をやることを先方に暗に期待されていたこともあり、結局付ききりになった。

 

娘氏の編集に、最後の最後で口を出したくなかったんだけど、その場にいると色々気付いてつい言ってしまう。

夫氏はラストのシーン切り替えのタイミングや、ラストカットについてかなり具体的な指摘もしていて、ありがたいと思うと同時にもやもやもした。

どれほど時間がなく、それでどれほど上手くいったとしても、子どもの経験を奪うのはやっぱり良くないことだ。

結局、親は基本その場にいないのが一番なんだろう。

 

しかし直前の2時間の夫氏のテコ入れによって、カットごとのちぐはぐさがかなりスムースなものになり、ラストカットの追加によって余韻を残す終わりになり、作品がよりまとまったことは事実。

そういうちょっとしたことで、映像作品の印象は大きく変わってしまう。

つまり、見ている人がはたと我に返るというか、何かに気がついてしまうということが映像における「失敗」なので。

究極のナチュラルメイクみたいに、細心の注意を払ってあらゆる要素を調和させて、見る人が内容だけにフォーカスできるようにして、結果的にほとんど難しいことはなんにもしていないというか、ただいい素材を抜き出して繋いだだけみたいに思われることが、ドキュメンタリーの場合、成功というか成立しているということになると思う。

映像に限らずなんでも、人でも、えてして完成されたものほど、なんか簡単そうにささっとやっているように見えるものだ。

 

結局、1時間以上の作品を一度も通しで確認せず本番上映、という暴挙のわりには、作品は全く問題なく成立していた。

まあまあ奇跡的なことなんじゃなかろうかと思う。

映画館で良い作品を見た時に時々体験する、空気がぎゅっと収縮しているような、人々が作品にぐっと集中して息を止めて見ている気配、高まるシーンではあちこちから鼻をすする音が聞こえ、映像が終わって黒い画面の沈黙が降りる最後まで気持ちが逸れることなく、やがて少しの間があって、あ、終わったと、おのおの現実に戻ってくるあの感じ、が、まさにその場に起こっていた。

そんなことを初めて作った作品でできるものなのか。

他人事のように、ただ感心して眺めていた。

 

作品は、夕方まで人を入れ替えながら複数回上映され、娘氏は半日のあいだ、スクリーンの脇の機材席にぽつんと座って、会場の反応をつぶさに見続けることになった。

そういう状況もなかなか珍しいことだ。

多くのテレビ番組の放送やwebやサブスクにアップされる映像作品においては、作り手はどこで誰がどのように見ているか分からない形で作品を提供することの方が多い。

一般的な映像の作り手は、リアクションという形の手応えって得られないことの方が多いのだということを、長年夫氏の仕事を隣で見ていて思う。

 

初作品にしてこういう形になったということは、他人事としては恵まれたことだと思うけれど、本人的には、最初に依頼された時の話(内輪の打ち上げでわいわい飲み食いしながら見る5分くらいの気軽な映像)という話から、本人の意思確認をほぼすっ飛ばして、どんどん盛り上がって話が大きくなって1時間の作品になり、預かり知らぬところでポスターやチラシが作られ、気付いたら大変なことになってしまった、と、プレッシャーの重たさから大いに戸惑い、憤慨し、悲嘆に暮れていた。

動画の撮影もほぼ初めてなら、本格的にプレミアを使うことも初めてという状況で、短い締め切りに間に合わせることが本当に本当に大変そうだった。

 

一方で、主催側が良かれと思って機会を与えてくださったということも分かる。

でも今は、YouTubeなどで誰でも映像を作っている時代だから、それこそ切って貼って繋げれば形になる、みたいに、それなりに簡単なことと思われているんだろうなとも思う。

大人同士のやり取りなら、さすがにそんな一方的に話が大きくなるようなことにはなかなかならず、どこかでブレーキはかかるものだとは思う。

結局のところ、娘氏はまだまだ子供で、きちんと自らの状況を説明しできるような段階にはなかった、それゆえの大人たちのあなどりもあった、ということなんだろうなと推測する。

いずれにしても、全てが初めてのことなので、娘氏には見通しの立てようもなかっただろう。

 

夫氏は「でもなんだか『千と千尋』そのまんまみたいだ。娘氏は千、依頼者はさしづめゆばーば、ぜにーばっていうか」と言っていた。

宮崎駿は、「千と千尋の神隠し」を企画するにあたって、こんな言葉を書き残している。

かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供たちはひ弱な自我を肥大化させるしかない。

けれども、抜き差しならない関係の中で危機に直面した時、本人も気付かなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分が抱えていることに気づくはずだ。

 

まーなあ、ものごとには全て、良い面と悪い面が存在するよなあ。

ものごとは、見え方捉え方次第ではある。

私個人は、自分の殻をぶち破って成長する機会を与えた、というロジックで、未熟な者に対してのあらゆる無茶振りは果たして正当化されるものだろうか、とは思っている。

 

それでも、行動して、いろんな人と関わることでしか、人生は動いていかないとも思う。

だんだんと社会に出られるようにはなってきたけれど、社会との関わりがまだまだ少ない娘氏には、しんどくとも表に出て、あらゆることを学びとしてだんだんと「自分のやり方」を確立していってくれるといいなと思っている。