夕方から極寒の町へ出て、忘年会へ行ってきた。
たまに集まっては、お互い色々ありつつもそれなりにつつがなく生きられていることを冗談めかして讃え合うような、長い付き合いの仲間。
私にとっては、定点観測のような集まりだなと思っている。
5歳児がいる私は、普段は夜飲みに行くことなんてできないから、隠れ家のような飲み屋さんの雰囲気を味わうだけでも非日常で楽しかった。
こんなに世の人々は夜な夜な酒場に集っているのかー。
しかし、あまりに店内がにぎやかすぎて、人の声の聞き取りづらさに日頃ない疲れ方をした。
私の日常って、少人数体制の地味で静かーなものなんだなあと実感する。
同世代の友人たちが、いろんなことを抱えながら、踏ん張り、しっかり楽しみもしながら生きているさまに励まされ、皆の話を聞くことがとても楽しい時間だった。
昨年末に実の母親を突然死で亡くした友だちは、1周忌が近くなったこのタイミングで、ようやく事の顛末を整理して話せる気持ちになり、皆でじっくりと耳を傾ける時間があった。
目の前のことを必死に対処し続ける、泣く暇もない怒涛のような日々、息子の大学受験をサポートすることも全くできないまま。
彼女の息子が無事志望校に合格した時には、お葬式から3ヶ月が経っていた。
合格証書を「おばあちゃんに見せてあげたかったな」と息子がつぶやいた時、ああお母さんは本当に死んでしまったんだ、ということが唐突に分かって、はじめてわっーと大泣きしてしまったの。
それを聞いて、私たちも一斉にもらい泣きした。
Yは、もらい泣きを超えて鼻血を出し、みんな笑った。
あちこち話題がとぶ中で、これから小学校に進んでいく子どもを持つ私にとって興味深い話があった。
それは、「最近の子ども」についての会話。
Aは音楽系、Kは武道系で、幼稚園から小学校にかけての幼い子どもたちに教える仕事をしている。
ふたりが大いに共感し合いながら言っていたことがふたつあった。
ひとつは、極度に集中力がなく飽きやすく我慢ができない、片時もじっとしていられない子どもが多く、対応に苦労しているということ。
うちの末っ子もまさにこのタイプなので、他人事ではない。
「小学校低学年くらいのクラスでは、『整列、気をつけ』が笑っちゃうほどできない。ぐだぐだ過ぎて終わりの号令もかけられないので、大声で『終わりまーす!』と声がけするしかない時もある」
「興味がない曲をやり続けることができないので、子どもの意向に寄り添って、どんどん練習曲を変えていく。そうしないと、30分もマンツーマンで教えるなんてとてもできない」
まるでTikTokやYouTubeのショート動画を次々にスワイプしていくみたいなイメージだ。
こうした仕草は、私たちが取り囲まれているデジタル環境とも無関係ではないんだろうな、と感じる。
もうひとつは、怒られたり否定されたりすることが耐えられないことはもちろん、アドバイスや建設的な指摘にさえ耐えられない子どもが多いということ。
よく頑張ってるけど、ここをこういう風にしたらもっと良くなるよ、と優しく配慮的に伝えても、身を固くしたり、傷ついたり、不本意そうだったりといったリアクションが返ってくる。
「もう褒めるしかできないんだよね。だからできてる子をとにかく褒めて前に出して、できてない子には何も言わない。言われないことでだんだん気付いてもらうしかない」
今の子どもは、打たれ弱くて繊細すぎでかたくなで難しい。
そんな苛立ちのようなものがKの言葉からは伝わってきた。
私はなるほどなあと聞きつつも、ちくっと心が傷ついたのであった。
Kはストイックでタフな人だ。
厳しい稽古に耐え抜き、能力もあってそれなりの結果も出し、今は指導する立場にあるKは、やっぱり「できてる子」の側の人で、当然、その目線からものごとは語られる。
一方私は、何も言われないまま、後ろでぽつねんと不安そうにいる「できない子」に自分を自然に重ねてしまう。
その後もつらつらと考えていく中で、これって、「今の子ども」に限ったことでもないんじゃなかろうかと思った。
幼い子どもが何かを習うきっかけは、ちょっとやってみたい、お友だちと一緒だから自分もやりたい、という程度のものだと思う。
自分の強い意志で「遊ぶよりも、これをどうしても学びたい」という子は少数派だと思う。
故に、幼い子どもの習い事のほとんどは親の希望や親の意思や親の都合が決め手となる。
そもそも、習う本人の意欲や「何のためにこのことをやるのか」が希薄な状態で、常にやる気をもって前向きに取り組む、学ぶ場所に通い続けるということは、大人にとってもむずかしいし、集中力の長続きしない幼い子どもにとっては更にむずかしいという、人にとって当たり前の前提がまずあると思う。
もちろん「学校」も同じこと。
今の社会において、義務教育の学校は、その年齢になったら当然行くものであり、それが自分にとって必要か不必要かを問う自由は子どもには基本的にはない。
とにかく学校には行かねばならない。
そこで何かしら自分の能力を発揮して受験システムをサバイブしなければならない。
当然、何のために学ぶのか、なんて問いは、「ナンセンス」と書いた箱に入れられることになる。
だからこそ、学校は手を替え品を替え、同じメッセージを出し続ける。
「意味を問うな、とにかくルールに従え」と。
でもやっぱり本当は、そんなことは無理があることである。
とりわけ幼い子どもには通用しない。彼らは「自然」なのだから。
「これができるようになって/これを学んで知ることで」私は何がしたいのか、どんな私になりたいか。
どんな不自由や生きがたさから解放されたいか。
あるいは直感的で純粋な好奇心や関心。
自分のうちから湧き出るそうした何らかの目的や問題意識無くして、主体的な学びはない。
令和の世の中では、体罰を含む昭和のスパルタ教育は、もう全く非常識な過去のものになっている。
体罰があり得なくなったこと自体は喜ばしいことだけど、そもそもなぜ体罰が必要だったかというと、集団を手っ取り早く統率するためには、恐怖や暴力を用いるのがもっとも手軽だったからである。
そうすれば、メンバー個々の適性や意向を尊重したり配慮したりする手間はまるっと省ける。
指導能力のない者が、あたかもリーダーシップを発揮できているかのように見せかけることもできる。
「愛のある厳しさ」も存在するとは思う。
けれど、指導する側が節度を守るのは相当の自制心と覚悟が必要で、人は皆不完全だから、ふとした瞬間に簡単に逸脱する。
自分の大事な我が子に対して親がどれだけ簡単に横暴になれてしまうかを考えてもよく分かる。
だから、私は基本的には無駄に厳しい人はほぼ信用しないし、必要性がない限り近づかない。
そのことで何かを得られなかったとしても、別に構わない。
身体や言葉の暴力に怯えるような関係性にはけして近づきたくない。
体罰やパワハラが封じられた今の時代においては、あらゆる教師や指導者たちは、恐怖や暴力を用いることなく、集団を率いていかねばならない。
目的意識のない子どもを、どれだけ配慮的にほめたりアドバイスしたりしても、そもそも「上達したい、習得したい」という意志が薄いのだから、「ぼく・わたし自身がほめられたりけなされたりした」という感覚しかきっと持てない。
「どこをどうすればもっと上手くなるか」「そのことを習得して、どんな風になりたいか」に心の矢印が向かず、「自分が他の人からどう見えるか、どう思われているか」ばかりが気になる。
だから、他人の評価にいちいち自分が大きく揺るがされて、不安になったり不快になったりするのだと思う。
人によっては、ほめられることさえ不安だろう。
それは「ほめられ続けないといけない」という、無理ゲーに巻き込まれることだから。
結局、モチベーションもないのに、そのことを他者に評価されるという土俵に乗っている時点で、不本意で不安定にならざるを得ないのだ。
幼い子どもたちが一番やりたいこととは、なんといっても「遊び」である、今も昔も変わらず。
幼い子どもに学びを強制することはできないのだから、子どもに習い続けて欲しいなら、学ぶ場を遊ぶ場にするってことになるのだと思う。
あまりに早くから子どもに何かを習得させようとすることは、所詮無理があることなんだと私は思う。
それにしても、学校での体罰やパワハラが封じられたことで、子どもたちは以前よりも幸福に、安心して過ごせるようになったんだろうか?
残念なことに、そうではないみたいだ。
厚生労働省の「若年層の自殺をめぐる状況」調査によると、小学生は横ばいだが、中高生の子どもの自殺数は2000年以降も増え続け、毎年過去最高を更新し続けている。
今の子どもたちは、何によって統率されているのか。
内田樹氏は現在の教育システムについて、こう解説している。
今の中等教育は、「努力と報酬は相関する」というルールを子供たちに刷り込む場所になっている。
この場合の努力は、ほとんどが「苦役」のことです。
不快で無意味なタスクに耐えた子供には報酬が与えられ、「これは不快だし無意味です」と正直に言ってしまう子供は処罰される。
「不快で無意味な作業に耐えられる者がより多くの報酬を得られる」というルールで、12歳から18歳の6年間を延々繰り返していたら、子供たちの中に育つのは「不快耐性」と「無意味耐性」だけです。
10代の多感な時期に、己の感受性をひたすら鈍磨するための努力をさせる。
(「動乱期を生きる」内田樹・山崎雅弘共著 より)
学校教育の全てがこうだとはもちろん思わないし、いささかペシミスティックな世界観にも思えるが、さほど大げさとも思わない。
子どもに何かを強制することは、それも長期間強制し続けることは、基本的に無理のあることなんだと思う。
今の子どもたちは、「努力という名の苦役を拒否する者は、将来大変なことになる、まともに生きていけない」という、まだ見ぬ将来への不安を煽られることで統率されている、と言えるのかもしれない。
そういう呪いが及ばない場所で、末っ子をのびのび育ててあげたいなあと思うのは、独りよがりな願いなんだろうか。