
依存症研究者で精神科医であるガボール・マテは、トラウマについて、次のように指摘をしている。
(トラウマ:心に深く残るつらい体験の記憶そのもの。その体験が心や体に長期的な影響を与えるもの)
「現代社会においては、トラウマは程度の差こそあれ、多くの人が避けがたく抱えているもので、もはや特別なものではない。
そして資本主義社会は、それ自体が鬱や精神病を悪化させるような構造を持っている。
今の世界は、いわばトラウマのパンデミック(世界的な流行)状態にあるといえる。
トラウマは、虐待や性暴力や戦争体験といった、ショッキングで重篤な事件によって刻まれるものというイメージがあるが、むしろ世界中に蔓延しているトラウマは、主に幼少期におけるネグレクトである」
親が子育てをする時間がない、心の余裕がない。
核家族で、両親以外に子育てのサポートをするメンバーがいない。
多くの親が、スマホをはじめとしたコンピュータデバイスに夢中になっていて、情報やコンテンツの海に溺れ、いつも心ここにあらずになっている。
ある人は、自己実現や社会的地位を優先するあまり、子供を省みないし、またある人は仕事や家族よりも優先する誰かや何かのために、子供を省みない。
離婚も多く、我が子を取り合うように、あるいは世話を押し付け合うように、子供が二人の親の元を行ったり来たりしたり、頻繁にどこかに預けられたりもする。
人によってさまざま異なる環境や事情はあれど、基本的に誰もが忙しすぎる。
この社会が人々を忙しくさせ過ぎているとも言える。
だから、近代のいわゆる先進国においては、ほとんどの人があまり時間と心の余裕のない親の元に育つ。
そしてそれは、「普通のこと」になってしまっている。
幼い子供が一番必要としている、安定した親子関係を得ることが難しい世界に、私たちは生きている。
本作は、ジョージ・クルーニー演じる世界的に有名な映画俳優ジェイ・ケリーが、年老いキャリアの終盤を迎えつつある中で、はからずも自身の人生を振り返り、自分自身と向き合うことを迫られる数日間を描いている。
ストーリーのメインテーマの一つが、彼がネグレクトしてきた二人の娘と自身との関係、娘がどのように育ち、今何を思っているのか。親子の関係性の総括だ。
冒頭は、ハリウッド映画のスタジオセットから始まる。
そこは刺激的で魅惑的な場所だ。
架空の世界が作り込まれた、大仰な非日常の空間の中、てきぱきと同時進行で色んなことが進行していく。
カチンコの合図で皆が一斉に集中して、いくつものカメラが向けられるなか、誰もが知っている有名俳優ジェイ・ケリーが、嘘の物語の中の架空の誰かを大真面目に演じている。
カット!の掛け声で一気に緩む。
そうして作られた虚構の断片たちは、編集の手によって映画作品として仕立て上げられ、それは世界の津々浦々に向けて発表され、莫大なお金を生み、もっとも強力なポップカルチャーのひとつとして、世界中の人々に影響力を及ぼす。
映画ほどスケールが大きく魅力的で、「価値の高い」ことが他にあるだろうか?
映画産業の中で大きな存在感を持って君臨し続けること、世界中の人々に愛されるスターであり続けることほど、「価値の高い」生き方が他にあるだろうか?
映画に関わること、映画スターであり続けることにかまけて生きてきたジェイ・ケリーは、多くの映画スターがそうであるように、キャリアのある段階において強運に恵まれてスターダムにのし上がり、ハンサムで社交的なナイスガイで、ここぞという場面でおいしいところをさらっていくような「何か」を持っていたりする。
それは、確かに特筆すべき才能なのだろう。
けれど、地味で長期的な人間関係、とりわけ家族との関わりにおいては、そうしたスター的な美点は、残念ながら、ほとんどなんの役にも立たない。
有名とか見た目がいいとかお金持ちとか顔パスとか、そういうことで心の通った人間関係を維持することはできない。
共に時間を過ごし、相手の話を聞き、喜怒哀楽を共有する。
家族やごく親しい友人関係とはつまり「生活」であるから、生活以外の何かで埋め合わせることは、結局できないのだ。
人としての基本的なことを、日々それなりの時間を割いて、その人なりに取り組んでいく、ぶつかったり失敗したりもしながら諦めずに関わっていく、その地道な積み重ねしかない。
ジェイ・ケリーがジェイ・ケリーであり続けるために、大衆にとって魅力的な存在であり続けるために、彼は彼なりに一所懸命やってきたのだと思う。
映画スターとしての、不断の努力を。
彼の関心や愛は、どうしようもなく大衆やショービジネスに向けられていて、そのことに彼のエネルギーの大半を使い果たして生きてきた。
だから、一番身近で中心にあるもの、変化や刺激に乏しく思われる家族や身近な人たちに対しては、ほとんど興味を振り向けるだけの余白を持たなかった。
彼はもちろん家族を虐待するような人ではなかった。
会えばいつだってフレンドリーで、愛想が良く、高価なプレゼントだってした。
でも残念ながら、そもそもまともに会って話すという機会自体が、彼らには圧倒的に不足していた。
常に忙しく世界を飛び回り、予定がいっぱいのジェイ・ケリーには気付く由もなかったが、常に自身のキャリアを優先し、いるのにいない者のように扱われ続けた、つまり彼が「ネグレクトした」子供たちの主観とは、父に捨てられた、というものであった。
ジェイ・ケリーの人生とは、まるでドーナツみたいなもので、中心にあるものは「無」なのだった。
そして悲しいことに、もっとも中心にあるものは、もちろん「彼自身」なのだった。
そのことに気付いた時には、彼の周りには誰ひとりいなくなっていた。
本作は、「マリッジ・ストーリー」同様、ノア・バームバックにとってとてもパーソナルな物語なのだろうと思う。
NYで、作家と映画評論家というインテリの両親の元に生まれ、20代前半から映画監督として活躍し、前妻は女優、現在の妻も女優で著名な映画監督。2人の息子がいる。
バームバック自身は俳優ではないが、アメリカのショービジネスの中心にいるような存在であり、ジェイ・ケリーのようなライフスタイルや生き方と無縁ではないだろう。
少なくとも、ジェイのモデルになりそうな人物は身近に事欠かないだろうし、実際、身をつまされる映画人は周囲には少なくないだろう。
それでも、作品は一貫して、ひとときうたかたの夢を見せてくれる映画への愛に満ちていて、せつない。
やっぱり映画は、ある種の人々にとっては、生涯を捧げるに値するほど魅力的なものだし、ショービジネスには、人を夢中にさせる魔力があるのだろうと思う。
一方で、残念ながら、人はどちらもを得ることはできない。
ショービジネスの世界でまたとない機会を得て、周囲の期待に応えるべく、自分の道を一心に邁進するなかで、生活を犠牲にし、誰かを損なってしまうこともある。
確かに、どうしようもないことはある。
しかしだからといって、自分が損なってきたものや人は、簡単になかったことにはならない。
とりわけ、人はそれぞれの心を持って生きている、切れば温かな血が流れる生き物なのだから。
まあ、挽回する可能性は、ゼロではないけれど。
ノア・バームバックの眼差しは、諦観を含んだ優しさがある一方で、簡単にすっきりなんてさせないという、独特の残酷さというか、リアリズムがある。
そのひねくれ味が、私は結構好みである。
最後の台詞は、いかにも映画俳優らしく、
Can I go again? I'd like another one. (もう1テイクやってもいいかな)
というもの。
ジェイは、涙を浮かべたいじらしい笑顔で、画面越しに語りかけてくる。
どこまでも自己憐憫の甘えた男にも見えるし、映画人としての最高の栄誉である功労賞の受賞が彼にとっての「底つき」なんだな、としんみりもする。
私は私とってのジェイに、もう一度チャンスを与えるのか?
ふざけんなって一顧だにせず去るのか?
そう問われているような気もした。
冒頭のガボール・マテの論に戻れば、我々は皆、程度の差こそあれ、ネグレクトの環境の中で育ってきた。
誰もがそれぞれのトラウマを抱え、そして親になれば多くの人が、程度の差こそあれ、我が子を何らかの形でネグレクトしている。
仕方なかったんだ、いっぱいいっぱいだったんだ、数多の言い訳を心の中でしながら。
私はデイジー(ジェイの娘)なのだし、私はジェイ・ケリーなのだ、あー。
そんななんとも言えないもやもやを残す、ノア・バームバックは、やっぱり曲者だ。