続きを書こうと思ったけれど、この1週間の政治のどたばたの中で、石破総理の戦後80年所感は、ああそんなこともあったねというかんじで、あっという間に置き去りになった感。
あらゆる出来事のなんという消費の速さだろう。
とてもキャッチアップしきれるものではないし、したいとも思えない。
高市自民党は、政権与党でいるためにはなんでもやる、という意図のみで突き進んでいるように見える。
国民生活など完全に二の次で、権力欲しさに目の色を変えているさまに、怒りを通り越して哀れみさえ感じる。
その行動原理は、野心というよりは保身だから、これほどなりふり構わぬ必死さなのだろう。
安倍政権以降の自民党は、権力という特権をかさに着て、一般人ならとても許されないようなことをたくさんやってきた。
普通に検察や司法が独立して機能していれば、犯罪として逮捕されるのが当然な不正行為や逸脱行為を、政権与党であるがゆえにほとんどを免れてきたという事実がある。
権力を失えば、それらの所業が改めて問い直されることになる以上、どんなことをしても与党としての権力を保持したいわけで、この先も呆れるような出来事はいくつも起こるだろう。
麻生氏をはじめとした自民党の多数派からは、長期的な視座は何も感じられない。
なんとしても現首相を引きずり下ろし、権力の中心に返り咲く、以上、という感じ。
あとのことはその時になって考えればいい、誰かに適当にやらせておけと思っているのだろう。
自民党と維新の連立は「政権与党でいたい(公権力を私的に利用し、公共財を私物化したい)」という以外に目的がない政治行動です。
両党ともどういう国家を形成したいのかについては解像度の高いイメージがあります。
それは「国民が政府に逆らうことが許されない国」です。
彼らにないのは「国際社会において名誉ある地位を占めたい」という意欲です。
「名誉ある地位」は軍事力や経済力によって得られるものではありません。
国際社会に対する指南力のあるメッセージを発信できること、道義的であること、この二つです。
彼らにはどちらもないし、ないことを惜しんでもいない。
「道義性」が持つ政治的な力を彼らはあまりに過小評価しています。
道義性とは「痩せ我慢」のことです。
公人は「一般人には許されない特権を行使し、一般人なら処罰されることをしても許される人」ではなく「一般人より高い道義的基準で自らを律することができる人」でなければならない。
たぶんこんなことを言っても鼻先でせせら笑う人(自称リアリスト)たちが彼らを支持しているのでしょう。でも、道義性の力を軽んじている人たちはいずれ手痛い目に遭います。
「きれいごと」の力を甘く見てはいけません。
与党野党に関わらず、今政治的権力を持つ人々が目指す国家の理想形は、「国民が政府に逆らうことが許されない国」だと内田樹氏は喝破している。
何のために?何をしても決して罰されたり追及されたりする心配なく、安心していつまでも国会議員でいられ、特権を享受し続けることができるようにするために。
この一点において、政治家たちはあらゆる政治的イシューを超えて、共犯者になりうるということ。
この認識を踏まえていることは、大事なことだと私は思う。
それは、国の公共財を私利益としたいと願う人々の利益を代弁した立場をとるあらゆる政治集団の行動原理を説明することになると思うからだ。
一方、もうすっかり存在感を失ってしまったかのように見える、石破総理の戦後80年所感からは、国際社会に対して指南力のあるメッセージを発信したい、道義的でありたいという意欲が感じられた。
確かに今の世の中においてはきれいごとと片付けられてしまうのかもしれない。
「事実を教科書的に羅列しただけ」という評論家の批判も見た。
でも、私は今だからこそ、プラクティカルな歴史事実の羅列をすることそれ自体に、大きな意義を感じた。
安倍政権以降、事実を都合良くこねくり回したり、問われてもごまかしたり答えなかったり、不正確なことや事実でないことを事実のように語ることに躊躇がない政治の言葉が横行してきた。
一体何が事実なのかを分からなくすることを意図しているかのようなタブー破りの言葉は、だがある種の人々には痛快な言葉として受け取られ、「いいね!」として可視化され、さらに増長し続けている。
これまで、節目の戦後談話は終戦記念日に発出されてきた。
今回は任期終了間際のタイミングで、談話ではなく所感という形でしか発表ができなかった。
その事実が、今の自民党の大多数がいかに国家にとって都合の悪い歴史を否認したがり、軍国的・強権的な社会を暗に望む人々の集団であるかを浮き彫りにしている。
そして今、なんとしても自民党を旧態依然とした組織に戻すのだという執念を象徴したような存在が新総裁になり、まるで院政のように麻生が副総裁に返り咲いた。
元の木阿弥感しかない。
だからこそ、明らかな歴史事実や、政治権力の犯した過ちなどについて、実際にあったことをあったこととして、時代の節目に現職の総理大臣が公式な場で語っておくことは、必要なことだったと思う。
退屈さや不完全さを指摘することは簡単だが、膨大な知識と教養に支えられた見識を、自身の責任において、自分の言葉で国民に語りかけることができるという時点で、官僚作文をただ読み上げるだけのこれまでの首相とは比べものにならない知性を感じた。
今回の所感には、長い歴史の視座から、現在社会で起こっていることの意味を読み解く姿勢があり、自己利益に誘導することのない倫理的な見解があり、自らを謙虚に省みる視点があった。
ポピュリズムに警鐘を鳴らし、戦争を決して繰り返してはならないという留保のない思いが伝わってきた。
自民党の多数派との対立軸を生むことを慎重に避けつつ、多方面に配慮しつつの語りには、当然歯痒さはある。
けれども、石破首相の1年間とは、党内四面楚歌の状態で、それでも独裁的なやり方を取らずに道義的な手続きを踏む、率先してルールを守るという姿勢を貫きながら踏みとどまってきた日々だったと思う。
そもそも自民党を支持していないし、彼の政治主張や考え方全てに同調しているわけでも全くないけれども、板挟み状態の中で、ルールを尊重し、誰にも一定のリスペクトの態度をもって接し、対話的な方法で国家運営をしようとする姿勢に胆力を感じたし、それは近年の首相や多くの政治家たちには全く感じられない貴重な資質だったと思う。
ここ10年の首相は、権力と数の力をかさに着て横柄に振る舞い、指摘や批判には開き直りあるいは無視し、弱者を嘲笑し軽んじる、品性に欠けた人ばかりだった。
そんな者たちが国の代表者として政治の言葉を発することは、この国に暮らす一人ひとりの尊厳を傷つける、本当に本当に良くないことだったと思う。
好転することのない目の前の現実に忸怩たる思いを抱きながらも、考え方の違いを越えて、石破首相の常に公人として節度を持った語りに、私は何度も救われてきたと思う。
沖縄の人々に、朝鮮の人々に、先の戦争で命を落とした人々に、国家の代表が謙虚な姿勢で頭を垂れる姿は、単なるポーズではない、人々の失われた尊厳を回復する行為という大事な意味を持っていたと思う。
(総理大臣戦後80年所感 抜粋)
無責任なポピュリズムに屈することがあってはなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的な判断を心がけなければならないのであります。
開戦に至る過程でも見られました通り、責任の所在が明確ではなくて、状況が行き詰まるような場合には、成功の可能性が低くてリスクが高くても、勇ましい声、大胆な解決策、そういったものが受け入れられがちであります。
合理的な判断を欠いて、精神的情緒的な判断が重視されて、国の進むべき針路を誤った歴史を決して繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をしないように、歯止めの役割を果たすのは、議会でありメディアであります。
政治は国益を損なうような党利党略、己れの保身に走ってはならないのであります。
メディアとの関係では、使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要であります。
過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的な言辞、これらは決して容認できないものであります。
これらは全ての基盤として、歴史に学ぶ姿勢が肝要です。
過去を直視する勇気、そして誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭な民主主義が何よりも大切であると考えております。
民主主義は完璧な政治形態ではなく、実力組織の前では非常に脆いという面を有しております。
文民である政治家が判断を間違えて戦争に突き進むこともあります。
動画の後半の記者会見では、より踏み込んだ内容になっていると思う。
兵士の大半が、戦闘ではなく国家の失策と無反省な暴走によって病死や餓死によって死亡した事実に触れていることや、海外メディアからの質問に、アジア諸国で日本軍が行なった侵略行為について、自分を含めた日本国民は公教育でまともに学んでいないという認識と反省も述べている。
そして、記者クラブであろうが、フリーランスであろうが、外国人であろうが、一人ひとりの記者に対して平等で丁寧に応答していた。
(記者会見より)
・責任の所在が明らかではないと、勇ましい声とか大胆な意見とかに引きずられ、情緒的な、非論理的な結論に導かれやすいということは、今回の色んな経緯を読んでみて、そういうことはあったのだと、それは遠い昔の話でしたよということではなくて、今日の我々においても、そういうことがありはしないだろうか。
・ですから民間人も含め310万人が命を落とした、亡くなった方々の9割は戦争末期に集中しているということは、これは統計上明らかなことでございます。
なんで昭和19年から20年にかけての戦争末期に亡くなった方の8割9割が集中したか。
そしてそこでなぜ止めることが出来なかったか。
そして、戦争に行かれた方々の6割は戦火を交えたというよりも、餓死であり病死であったという事実をどう考えるか、なお自分として今後更に勉強していかねばならないという風に思っておるところでございます。
・メディアは社会の公器であると、公(おおやけ)の器(うつわ)であるということは認識しすぎてもしすぎることはないという風に思っております。
所感のなかにも書きましたが、売れればいいというものではないだろうということ。
商業ジャーナリズムの方々も大勢いらっしゃいますし、スポンサーもおられるわけでありますが、売れればいいということではないんだという矜持をメディアの方々がお持ちいただくということ思っていますし、私はメディアと権力が一体化するのが一番怖いんだと思っております。
権力とメディアが一体化するということでこの国は一回道をあやまってはいませんか、ということであります。
それを可能とするような言論統制があったのが、かつての歴史であり、そういうことは何があっても繰り返してはならない。
・過去私どもの政府におきまして、侵略ではないというようなことを申し上げたことはございません。そこはきちんと認識しなければいかんだろう。
私が防衛庁長官のときにシンガポールで当時のリー・クアンユー上級大臣から「日本が戦争中にシンガポールで行ったことについて、あなたはどれほど認識しているか」という問いを受けました。
私は教科書レベルの知識しかなくて、「あなたはそれしか知らないのか」ということで、非常に厳しい指摘を受けたということは、ひとつの私の原点でございます。
かつて日本が中国において、あるいはアジアにおいて、どういうことをしていたのかということについて、正確な認識を持つということは必要なことだと思っております。
私たちは忘れても、それぞれの地域の人たちは忘れていないということも、我々はよく認識をしなければなりません。
・まずそれを知る努力、そこにおいて何があったのか、インドネシアにおいてどうであり、フィリピンにおいてどうであり、中国においてどうであり、そういうことについて、日本人はきちんと真摯に歴史に向き合っているねという評価、これは重要なことだと思っております。
日本がこれから先、世界に対していかに役割を果たしていくべきかということにおいて、日本が諸外国から歴史に誠実に向き合っている国だという認識を受けるということは、我が国の国益にとって絶対に必要なことだと、私は確信を持っておるところでございます。
道義的であることが国益に資すると考えている政治家が追いやられ、国民が政府に逆らえない国を作ろうとしている政治家がハンドルを握ろうとしている今の状況に、心は落ち込む。
でも、今は、海の表面が大きく波立っているような状態なんだとも思う。
仄暗い深い海の底は、もったりとした流れで、全てがゆっくりと動いていく。
そういうイメージで社会を捉え、目の前のことにあまり揺さぶられて悲観しすぎぬようにしたい。
短絡的な策略で一旦は勝ち抜けたとしても、早晩ツケは回ってくるだろうとも思う。
いずれにしても、日本では総理大臣を誰にするかについて、国民は全く関与できない。
だから私たちはただ見ているしかない。
人を騙す言葉に流されず、今起こっていることの本質を、二つの目でしっかり見ておくしかない。