
前回の文章は、最近読んだこの作品のことを思い浮かべながら書いた。
今の世界での主流の物語は、経済合理性を背景とした、この社会の価値観を強化するような物語だ。
強く、美しく、賢く、若々しく、才能があり、リッチで、明確な目標ややりがいを持ち、人気者で、勝利者である方が、ないよりも良いに決まっている、普通にそうだよねとする世界観。
もちろんそうでない物語もあるけれど、どうしたって少数派だ。
主流の物語があまりに大手を振ることで、主流の価値観の文脈からこぼれ落ちてしまう存在は、ないものとされたり、その存在価値を低く見積もられることになる。
「物語られるに値する者」と共通するものを何も持ち合わせていないような者は、モブとしての人生を生きることを定められているかのような錯覚に陥ることさえあるかもしれない。
日々大量に生み出され、人々を楽しませている「物語(ストーリー)」の持つ弊害だと思っている。
そういうことに疲れてしまったら、「違国日記」を読むといいと思う。
この物語に出てくる人たちは、皆不完全で、間違うし、傷つけるし、弱く、寄るべない。
成長とか勝利とかにも無縁だし、そもそも大して求めてもいない。
人それぞれに好きなもの、やりたいことはあるけれど、別に命をかけてやるみたいなスタンスではないし、目立って秀でたものも持っていないし、中途半端だったり宙ぶらりんだったりする。
何かしらの才能を持つ人においては、それはむしろ「偏り」であり、偏りの負の側面も否応なく引き受けながら、人とは異なる人生をやむにやまれず必死に生きている、という人間理解がある。
ここには、マジョリティーの物語に出てくるヒーローのような華々しい属性を持つ人や、完璧な善人みたいな人は誰もいない。
でも、この物語の中の誰一人モブではないし、物語のための駒として「使われる」ことはない。
それぞれの人生をその人なりの切実さをもって生きている。
登場人物全員に、「尊厳」という名の、愛情深く同時に凛とした厳しさを伴った静かな眼差しが向けられている。
「違国日記」は、主流の物語とは全然違った、幾つもの「新しい文脈」を提示している。
さまざまな安易なステレオタイプに恭順するような文脈を、ぐっと足を踏ん張るようにして、毅然と拒否する。
というか、むしろシンプルで、人をカテゴライズすることで分かった気になろうとしない、ただそれだけなのだともいえる。
互いを分かり得ないことを、ある種のことは他者には変えられないことを、生きる孤独を、受け入れる。
そのシンプルな姿勢は、ステレオタイプからこぼれ落ちるような存在に強く植え付けられた罪悪感やスティグマを溶かすはたらきを持つ。
作中の、ささやかで一見見過ごしてしまいそうな(しかしそれこそが実は決定的な)ごく繊細なやりとりや、登場人物一人ひとりのまとまらない、ままならない生きざま、その人たちが互いに不器用に、その人なりの愛をもって関わるさまを眺めながら、何度も涙がふき出たし、許されるような気持ちになったし、身体がじんわりと優しくほぐれていく感覚になった。
あなたのような人は、確かにいる。
あなたが言葉にできない喜びや、悲しみや、怒りは、正当なものである。
あなたは当然そのままで居てよくて、そのままで愛されるに値する。
人は誰もがその人の生を堂々と生きていいし、そこには正解も間違いもない。
この「やわらかい物語」は、リアルに人を救う力を持つと思う。
素敵な世界を見せてくれてくれてありがとうございました、という気持ち。
お守りのように、これからも何度も読み返したい。