みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

語るに足る、ささやかなこと

昨日も昨日とて、いろんなことがあり興味深い一日だった。

職場では、何人かが私が一人で作業しているところにやってきては、打ち明け話や人生の話や職場内の難しい問題や誰かのわるくちとかを語っては去っていった。

家に帰ってからも、LINEでのやりとりがあった。

なんなんだ。

わたしゃモモか。

そして私の職場は大丈夫なのか。

今も大して多くはないが、人とあまり関わってこなかった期間が長かったから、誰かが頼ってくれたり、心を開いて話してもらえることは、ただただ光栄なことだ。(わるくちはともかく)

しかし、昨日はいかんせん元々元気がないところに聴き疲れで、もうこれ以上何かを考えるのは無理ーとなり、夕方以降はぼんやり酒を飲みつつ過ごした。

 

ちょうど夫氏は、昨夜は都内泊で不在だった。

大学時代の友人たちとポール・トーマス・アンダーソンの新作を観てから、新宿の居酒屋で映画についてあれこれ語らう集いらしい。

次の日朝早くから都内で仕事だから、と誘いを断ろうとしていたので、いっそ泊まっちゃえば、と勧めた。

昨日はもう誰の話を聞く余力も残っていなかったから、地味に助かった・・・。

それに、先週の父娘の諍いが今も尾を引いており(思ったより深刻なことになってしまった)、私はおろおろと気を揉む毎日だから、父か娘かどちらかがいないのは気が楽だった。

家族に対しても、いつも以上に聞く力が要請されている。

なんなんだろな、このところの鍛えられ感というのは。

 

人によってはすぐにさっと全て掃き流してしまえる、なんてことない一日なのかもしれないが、キャパの小さい私にはお腹いっぱいの一日だった。

ものごとや人に対して、なるたけ雑にならぬよう、相手にはもちろん自分にも嘘をつかぬよう、一個ずつ落ち着いて接しようとすると、あらゆることが本質につながっていくように感じられる。

日常の出来事の中には、簡単には捨て置けない要素がとにかく色々あって、考えどころがあちこちにトラップのように散りばめられていて、退屈のしようがない。

日々揺れ動く心の動きをどんどん忘れていってしまうことが惜しい。

どこかに全部を保存できて、いつでもアクセスし直すことができればいいのに。

 

私がめちゃくちゃ興味深く大事だと思っているようなことは、人によってや見方によっては「取るに足らない、些細な、くだらないこと」もたくさんあるだろう。

もちろん、気になるポイントが人によって違うのは当然のこと。

 

ただ、最近何度が「それはあなたが優しいから」と言われることがあって、なんとなーく引っかかっている。

優しいから、そんな風に考える(とらえる)。

優しいからそんなことまでしてあげたり、庇ったりする。

優しいから怒らない。

そういった文脈で「優しい」と言われることがたまにある。

私って意外と優しいのかな、と額面通りに受け取りそうになった時もあったんだけど、いやいやそういうことじゃないと悟った。

優しいって、実はしばしば「そこまで考えなくてもいいのに」「わざわざそんなことしなくてもいいのに」という意味も含有している。

そんな時に持ち出される「あなたは優しいから」というエクスキューズは、二の句を継げさせずに話を強制終了させるパワーワードになりうる。

すごいね、優しいよね、と言って、その問題や誰かを自分から切り離したり、関係ないこととして思考停止してしまう、そういう「優しい」の使い方がある。

自分も半ば無意識でやっていそうだ。気をつけよ。

 

 

「これくらいのこと」と言われてしまいそうな、でも私にとっては「そここそが一番大事なんだよ」と言いたくなってしまうようなことが、この世界にはまだまだたくさん、たくさんあるなと思う。

語るまでもないものとして語られてこなかったもの。

語られてこなかったゆえにないものとされてきたもの。

その狭間で私はいつももがいているような気がする。

 

ささやかではあっても、確かにここにいる、あるものがあるし、その関係性やその文脈やその感情をないことにはさせたくない。

そういう部分を丁寧に掬い取ってくれる物語や表現を愛してやまないし、誰かが真摯な思いで勇気を出して心の中から外界に生み出された言葉は、規模や影響力に関わらず、確実に世界に影響を及ぼすのだと、無根拠に確信している。