夏の間じゅう、時折思い出しては身を案じ続けていた人がいる。
それは、バッパーしょうた(Bappa Shota - YouTube)というYouTuberで、私は彼の作る動画のファン。
単身で世界中、とりわけ観光客にとってはハードルの高い国々を訪れては、素直で柔らかな視点でその国についてレポートした質の高いドキュメンタリーを作りつづけている。
我が家では敬意を込めて「ひとりBBC」と言っている。
伝聞ではなく直接体験して得た一次情報をベースとした、忖度や誘導の少ない(それらはゼロにはなり得ないけれど)フラットな視点で語られた社会派の映像を見られる機会は、今けして多くはない。
権力やお金の影響を受けない、ひとつの考えを押しつけず、考えさせてくれる彼の風通しの良い映像を、私はすごく信頼している。
その彼が、2ヶ月前に新疆ウイグル自治区をレポートした動画をアップした後から、動画もSNSも更新が止まり、心配するコメントに対しての返答も一切ない状態がずっと続いていた。
ウイグルのレポートは、複数の中国人、ウイグル人たちを取り巻く状況と彼らの考えをフラットに紹介したもので、いつもの通り告発でもプロパガンダでもない。
しかしいかんせん自分の身の回りで起こった事実を伝えただけで、ウイグル自治区における中国当局の監視の異常性はどうしても伝わってしまう。
直接的な表現はなくても、市民の言動は政府に全部筒抜けなんだと常に思い知らされているような社会の中で、強度の監視下で人々が暮らしていることがまざまざ伝わってくる内容だった。
だから、彼のウイグル編を見た時も「これって大丈夫なんだろうか・・・」と不安だった。
そしたら、動画をアップした後にしょうたの消息が分からなくなってしまったので、私を含む多くの人が「これはもしや」と思ってしまったというわけ。
一昨日、久々に動画がアップされた。
なにはともあれ無事で良かったと胸をなで下ろしつつ見た。
なぜ2ヶ月もネットから離れていたのか?
3年間休みなく世界中を移動しながら動画制作をする中で自分を見失い、燃え尽きてしまったこと。
短期間で速いスピードでの人との出会いや別れを繰り返し、気候や環境条件がしょっちゅう激変する生活の中で、疲労や孤独が積み重なっていったこと。
そして、いつの間にか影響力がとても大きくなっていた自分に恐怖したこと。
その結果、ネットに触れられなくなってしまったという率直な思いや今考えていることを、真摯にシェアしてくれていた。
私はとても大事な話と思いながら見たし、とりわけ大きく膨れあがった自分の影響力が人々に分断の種を植え付けうることに気付いてしまったことへの恐怖、「僕は恐ろしい兵器になってしまうのではないか」と声を詰まらせながら語っていたさまには胸が衝かれた。
センシティブな政治課題を抱えた国や、自国とは社会常識が大きく異なる国については、程度の差こそあれ、私たちはメディアからさまざまな情報が刷り込まれているものだ。
だから、見る人の立場によっていろんな思い込みがあると思う。
しょうたさんの動画は、これまでのステレオタイプな偏見や思い込みをつき崩すものが多い。
実際に訪れ、その土地土地の人たちの目線でフラットにものごとを見た時、全く違う現実が立ち現れるということが頻繁に起こる。
だからこそ私は彼の作る動画が大好きなんだけれど。
けれど、人はあくまで自分の見たいように見る生き物でもある。
そして、今や彼のフォロワーは135万人を超えている。
ウイグルの動画のコメントを読むと、実際に僕がシェアした経験とはちょっと違った感じになっていたり、大きく膨れ上がった内容になっていた。
結果的に僕の動画によって、人々を分断させ、憎しみ・対立を生んでしまった。
その時初めて視聴者数の多さ、規模、影響力に気付き、嬉しい反面、すごい恐怖を感じた。
僕はもしかしたら人々に幸せを与えられるかもしれないが、同時に憎しみの種を植え付けてしまう。
言い換えれば、僕は恐ろしい兵器になってしまうのではないか。
人々の憎しみ溢れるコメントが頭の中に入り込んで抜け出せなくなってしまった。
(動画より)
動画の最後でしょうたさんは、長いお休みの中でゆっくりと思索して考えを整理し、心身の疲れを癒して、またリスタートすると語っていて、あー良かった〜、でも病み上がりだからどうか無理せずでね〜と心の中でエールを送った。
が。
残念なことに、今コメント欄は解釈をねじ曲げた陰謀論的なコメントで溢れかえっていて、ほとんど炎上と言っていいくらいのありさまになっている。
自分の顔と名前を公にさらして真摯に心のうちを語った人に対して、まともな読解力があるとはとても言えない顔の見えない人々が、寄ってたかって彼が長年作り上げてきたフィールドにうす汚い、下品な泥団子のような言葉をぶっつけていくさまに、いたたまれない気持ちになっている。
こうやって、大量の泥団子で本質をどんどん分からなくしてしまうポストトルゥースのやり口って許しがたい。
本当に馬鹿げているし、あんまり醜すぎる。
でも、とても残念なことだけれど、135万人という数の人の目に晒されるということの、インターネット社会の、それも避けがたいひとつの側面なんだろう。
インターネットがもたらした素晴らしい恩恵と、それを享受している人に向けられた嫉妬や憎悪の感情は、背中合わせの影みたいなものなんだろう。
以前、村上春樹がこんなことをエッセイで書いていた。
すごく不思議なのだけれど、小説が10万部売れているときには、僕は多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。
でも『ノルウェイの森』を百何十万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。
そして自分が多くの人々に憎まれ嫌われているように感じた。
どうしてだろう。
表面的には何もかもがうまく行っているように見えたが、実際にはそれは僕にとっては精神的にいちばんきつい時期だった。
今になってふりかえってみればわかるのだけれど、結局のところ僕はそういう立場に立つことに向いていなかったのだろう。
そういう性格でもないし、おそらくそういう器でもなかった。
(「遠い太鼓」村上春樹著より引用)
自分のような一般人には一生分かり得ない境地だと思うが、彼も「公の人」として生きることのきつさを引き受けていかねばならないフェーズにきているということなのかもしれない。
しんどいことだとは思うが、そこには市井の人生では得られない機会や出会いや恩寵もきっとあるんじゃないかと思う。
しょうたくんはきっと乗り越えていくと思う。(母目線)
それにしても、動画中で彼が語っていたそのままのことが、今まさにコメント欄で起こっていることのなんという皮肉だろう。
『人は己の知識や認識に頼り、縛られ生きている。
それを「現実」という名で呼んで。
しかし、知識や認識とは曖昧なもので、その現実は幻かもしれない。
人は皆、思い込みの中で生きている。』
世界に実際に足を運んで、見て、経験して、たどり着くのが、昔読んだ漫画の中にあったこの言葉なんですよね。
いかに自分は知識や認識に縛られて生きているのか。
そして誰かが正しいと判断した情報がいかに一方的でもろいものなのか。
しかし同時に、知識や認識に頼り、縛られ、思い込みの中に生きることによって得られる安心や団結や平和も、また捨てることができない大切なもの。
それを14年間旅で見てきてすごく感じる。
僕と同じ時間、同じタイミングで同じ経験をした僕の隣にいる人は、僕と全く違う感情、受け取り方をするかもしれない。
人それぞれに心、感情がある以上、答えはひとつではなくいろんな答えが存在する。
そして正しい答えなんてものは本当に存在するのか?と考え込んでしまう。
(動画より)
普段の暮らしの中でも、人って見たいように事実の方を変えてしまう生き物なんだよなあと思うことはよくある。
知らず知らずのうちに間違ったことを思い込んでいた自分にびっくりして恥じ入ることもしょっちゅうある。
人間は、思い込む生き物だから、そのこと自体を否定したり責めてもどうしようもない。
人が何かに依存したり、集団化することを禁止することがナンセンスであることと同じで、それは多くの人間に備わった性質の一つで、人が生きる上でなんらかの必然性があるからこそ備わっている。
思い込みだって、しょうたくんの言う通り「思い込みの中に生きることによって得られる安心や団結や平和」があるのだ。
大事なのは、自分ってたびたび見たいように見てしまう、自分はしょっちゅう間違うということを認識しておくということなんだと思う。
動画の中で、ちょっと調べたらすぐに分かるような飛躍した思い込みをあれこれ書き散らしている人は、事実でないことが明らかになったら自分の落ち度を認めるんだろうか?
コロナ禍でも何度も見てきたけど、こういう人に限って秒で自己合理化するように思う。
謝罪なんて多分しないだろうし、匿名をいいことに、しれっとゴールポストを動かして、あるいはなかったことみたいにして。
きー、うんこすぎる。
人の振り見て我が振り直すのみだ。
とにもかくにも、おかえりしょうた、まけるなしょうた。