みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「私たちが光と想うすべて」

 

2024年フランス・インド・オランダ・ルクセンブルク合作/原題:All We Imagine as Light/監督:パヤル・カパーリヤー/118分/2025年7月25日〜日本公開

 

冒頭、電車の車窓越しに流れるムンバイの夜景の撮影が素晴らしく、いきなり心を掴まれてしまった。

インドには縁がなくてとうとう行けなかったけれど、バックパックでアジアの国々を放浪していた若い頃、ムンバイのような大都市や海辺のラトナギリのような小さな町をいくつも訪れた。

あちこちくたびれ薄汚れ、人がひしめきあい、むせ返るような熱気とぎらつく電飾。

アジアの大きな街はどこも暴力的な活気に満ちていて、自分なんて虫けらみたいにちっぽけで生きようが死のうが誰も知ったこっちゃなく、だからこそしびれるような自由さがあった。

対照的に海辺の町は、大抵ちょっとしたお酒を飲むところとおんぼろの宿以外何にもなく、乾いてさびれている。

明るく遮るもののない日差しの下で、人々はどこか憂鬱をにじませたような退屈な風情で、全てはまったりと流れていく。

とりわけ島では海風に当てられてぐったりしているような感じで、寝たいときに寝、食べたい時に食べ、気の向くままに歩き回り、何にも考えず怠惰に過ごしたものだった。

そんな当時の自分の心持ちをありありと感じながら見る、しんみりと旅するような映画体験だった。

 

物語は、同じ病院で働く世代の異なる三人の女たちの生きざまが交錯するさまを描く。

夫を亡くし、老年に差し掛かり、病院内の食堂で給仕の仕事をするパルヴァティ。

ドイツに出稼ぎに行ったきりの夫を持つ孤独な看護師のプラバ。

プラバと同居する後輩看護師のアヌはお調子者で、ムスリムの恋人とこっそり隠れて付き合っている。

 

世代やライフステージによって、また社会や時代によって、女性が受ける抑圧の種類と重さは違ってくる。

パルヴァティは、夫という後ろ盾なくては独立した一個人として社会に認められず、軽んじられ、蔑ろにされる。

プラバは、親に勝手に決められた男性と思いもないまま夫婦になり、愛されずに放置されても黙って待ち続け、貞操を求められ、自分に向けられた真摯な愛情を拒まねばならない。

また、彼女の有能さや仕事に向ける誠実さを発揮できる範囲は、インド社会ではとても狭い。彼女が女性だから。

アヌは、恋をしたこと、恋人が異教徒だったことで、まるで罪人のように生きねばならない。

宗教戒律の厳しい社会でこういう禁忌を冒した多くの場合、男性側は「過ち」を罰せられ、女性側は「けがれた存在」とされる。

宗教や社会の性規範から逸脱した女性が被るリスクは、男性と比べて致命的なまでに重いものだ。

 

遠く離れたインドで、生活や宗教や文化や慣習など、あらゆることが大きく違っていても、女性であるがゆえに思うままに生きることにそれぞれの困難さがつきまとうことは国境を越えて同じ。

もはや何に向かって反抗すればいいかも分からないようなさりげない形で、女としての規定のレールがいつの間にか目の前に敷かれてしまう、その他の道は社会の構造によって塞がれてしまうということを思う。

私たちの頭上にはそれぞれの形をした目に見えない重石が乗せられている。

彼女たちのやるせなさや、諦念や、いずれくわえられるであろう制裁の予感を、ひとつも他人事とは思えない。

 

ムンバイという匿名的で閉塞感に満ちた大都会の片隅で、それぞれの方法で必死にサバイブしてきた女たちが、家を立ち退かなければならなくなったパルヴァティの故郷の小さな海辺の町に引っ越しのためにやって来る。

追い出されて仕方なく掘建て小屋に居を移したけれど、まるで都会の呪いが解けたかのように、彼女たちの何かがみるみる緩んでいく。

本人たちも気付かないままに、気楽に、柔らかくなっていく。

パルヴァティとアヌは、お酒を飲んで楽しくなって踊っちゃったりする。

プラバは、あるアクシデントに巻き込まれたことで、自分の心の奥底にある思いを吐露することになる。

繊細でちょっとめまいのするような幻想的なシーンの演出が素晴らしかった。

そしてアヌは、誰にも知られる心配のない遠い土地に恋人を呼び寄せ、思いを果たす。

 

それぞれが海辺の町で自分の心を解放して、少し思うままに生きることができたということが、あの静かで美しいラストにつながっていたと思う。

本当は、なんのジャッジメントも規範も要らない。

友情とか親しさとかも要らない。

静かな連帯だけでいい。

その人が、その人の心のままに誠実に選択したことを、お互いがただそのまま受けとめるということ。

それが私たちにとっての光だ。