若い時に自分には到底無理と思われていたことが、いつの間にか苦もなく自然にできるようになっていた、ということに気付くことが最近何度かあって、そのたびにふつふつと嬉しく感じている。
何かが技術的に上達したというよりは(それもゼロではないけれど)、私自身の心のありようが変化したことからきていることのように思える。
吹っ切れたポジティブな心持ちみたいなこととはだいぶ違う。
むしろいつもちょっとさびしいし、もの悲しいような気分がいつも心の中にある。
でも、ずっと息がしやすいし、以前にはなかった余裕のようなものも少しある。
諦めと共に生きるというのは、想像していたほどみじめでも悪いものではないんだな、と思っている。
それとは矛盾するようだけれど、日常を平穏に暮らすことは、つくづく簡単なことではないなと思うようにもなった。
すごく元気でタフな人もいると思うから人によりけりではあるが、基本的に40代以降って、身体的に無理がきかなくなっていくことの連続だから、都度都度自分のできることできないことを見極め、工夫しながら暮らしていく必要に迫られるものだと思う。
というか、私自身の目標設定が変わったんだろうな。
自分のやりたいことを気兼ねなくやりたいという欲はあるけれど、何かを獲得するとか成功するといった要素に対する興味は、ほぼない。
自分と自分の身近な人たちが共に幸せで悔いなく在ること、一日一日それ自体が目標と思うようになっている。
この年になってようやく腰が落ち着いて、本当の意味で日常生活に関心が向いたと言えるのかもしれない。
そういう目標設定で生きていると、日常の中の小さな出来事や誰かとのやりとりは「どうでもいい些末な事」なんかじゃなくなる。
むしろ、以前はそれどころじゃないって雑に扱っていたようなことこそが重要ポイントになる。
もとより、あらゆるものごとはフラクタルだという考え。
家族を中心とした人との関わりの中で、楽しい感情を共有できることもあれば、傷付くようなことをされたり言われたり、自分が言ったりやったりしてしまうということも起こる。
誰かの機嫌やちょっとしたひとことに振り回されもする。
天気も湿度も月の満ち欠けも風や波の強さも、同じ日は一日もなく、体調や気分はそれらに少なからず左右される。
仕事、けがや病気やアクシデント、さまざまなタスクや締め切りや手続き、社会のさまざまな出来事、ふと思い出した過去の記憶にさえ、私はしじゅうぐらぐらして、気持ちは揺り動かされまくる。
そう考えると、毎日の暮らしってスケールは小さく、スペクタクルなものではないけれど、全然単調ではない。
日常生活は不確定要素に満ちていて、毎日色々あって、起伏に富んだものだ。
過ぎた時間は二度と取り戻すことはできず、でも朝日は毎日しぶとく昇る。
毎日をなるべく大丈夫であるために、自分を少し幸福な気持ちにしてあげるルーティーンをに日々の生活に織り込むことに、最近とても自覚的になっている。
きっかけは、一時帰国中の息子氏との関わりの中で、もともと興味関心の高かった発達障害や依存症に関連した分野の本をとりわけ多く読んだこと。
息子氏のおかげで、私自身の偏りにも向き合うことのできた今年の夏だった。
ある本の中で、あらゆる生き難さの二次障害としてあらわれる抑うつ状態に対する工夫のひとつとして、「すぐに五感を心地良くしてくれる手段を複数もっておく」ことが勧められていた。
思考や行動を伴うものではだめ、というところがミソである。
改めて私にとっての快ってなんだろなーとあれこれ考えた。
それで、最近新たに始めたお気に入りのルーティーンは、このふたつである。
ひとつは、早朝に近所の海を散歩すること。
空と水平線、砂と海水の感触、風、貝や蟹や鳥たち。これらに触れると、私はあっという間に生命力がチャージされていく。
朝起きて、白湯を一杯飲んだらすぐに海に向かう。
車もほとんど走っていないから赤信号もスルーして、電動自転車で7分。
ほんの短い時間をサイクリングロードを歩いたり、砂浜で瞑想したり、海に浸かったり、寝そべって空を見たりして過ごす。
それだけで、どんな日であっても、気分がだいぶ良くなる。
移動が伴うというハードルがあるんだけど、効果があまりに明らかだから、すっかり習慣になっている。
もうひとつは「地球家族」を毎日1、2カ国ずつこつこつと読み進めること。
この有名な写真集の副題は「世界30か国のふつうの暮らし」。
各国の平均的な家族の家の中のものを全部家の前に出して並べて、一家の集合写真を撮るという趣向の本。
とても面白い本なのでこれまでにも何度か読んできたが、巻末のその国のデータと写真家の取材ノートも合わせて、いろんなことを想像し、思いを馳せながらじっくり読むのは初めてのこと。
久々に改めて読み返すと隔世の感がある。
この頃は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ最中だし、イスラエルもロシアもまだ戦争を起こしていない。
そして、1993年はインターネット前夜というタイミング。(インターネットの初公開は1993年、商業使用が開始されたのは1994年)
今振り返ると、1993年はまさに歴史の転換点だったといえる。

だから、ちょっと昔の生活を見ているという感じは否めないのだが、それでも世界には自分には想像もつかない多様な暮らしをしている人がいることに、とにかく圧倒される。
何を大事にし、何に喜び、何に悩み、何はどうでもよくて、何はめっちゃ気になるか、何に幸福を見出すか、生きてる社会によって大きく違う。
一枚の写真を見ることで、今自分が囚われている小さな枠組みがあっさりと壊れ、まったく異なる別次元の視座が与えられる。
それは無性にせいせいする、心が広々とすることだ。
以前、つらかったり煮詰まるような状況の時、「いっぽうその頃サバンナでは」とアフリカの草原を思い浮かべるんだ、と言っている人がいた。
私にとってこの本は「いっぽうその頃」なんだなーと思う。
いつでも一瞬ふっと緩む。
「地球家族」はもうすぐ読み終わってしまうけど、すでに「続・地球家族」を入手しているし、その先には「地球の食卓」「地球のごはん」というシリーズがあると知ったので、当分は大丈夫。
そもそも、私は自分が心地良くない状態にあるということに気付きにくい。
だからこそ、意識的に五感を心地良くしてあげることを心がけようと思っている。
他人に期待するのではなく、一番近しい友だちのように、自分が自分に親切にしてあげる。
それって少しも虚しいものではなく、嬉しいものなんだなと実感している。