みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

幸せなサイクル、「さみしくてごめん」「Flow」

昨日は酷暑の中、里芋畑の畝間除草。汗だく埃まみれ。

野菜の収量が減り、手が回らなくて放置されていた畑の管理作業がやっとできるタイミングだということも分かるけれど、なにもこんな炎天下にやらなくても、と同僚はぷんぷん怒っている。

私は「ほんとですよねー」と調子を合わせながらも、実はどんな作業もしたくないって思ったことがあまりない。

電動刈払い機を肩に担いで草ぼうぼうの畑に入っていき、おもむろに始動ロープをがしがし引いてエンジンをかけ始める女二人を見つけて、隣で水路の整備工事をしていた年配の作業員さんに、小さい体でたいしたもんだねえ!と謎に感心された。

 

雑草というか、雑木をちゅいんちゅいんと刈刃で切断しながら、自分の背丈よりも高い草むらにざくざくと分け入っていく。

刈払い機って周りの音が何も聞こえないくらいすごくうるさく、畑はうだるように暑く、除草って植物に対する問答無用の殺戮行為であるから、とても荒っぽい気分になる。

草が多すぎてもう前に進めなくなったら、手鎌に持ち替えて畝際の大きな雑草を刈りながら両手にいっぱいの雑草、雑木を担いで畑の外に運び出す。

それをお昼休憩まで無心にやり続ける。

 

「そんなに丁寧にやらなくていいよ、どうせまた生えてくんだから」と同僚に注意される。

地面にしゃがむと、てんとう虫やかまきりがいたり、小さな花が咲いていたりする、そういうものにいつも一瞬心を奪われる。

雑草をすっかり刈り払った後の刈られた草の匂い。わんわんと鳴く蝉。鳥の声。

畑の中はむせ返るような命の気配に囲まれていて、人間はいつだって一番場違いで、調和を乱すみっともない存在だ。

 

何も考えず汗をいっぱいかいて働き、水をいっぱい飲み、収穫後のパッキング部屋では誰かの話を楽しく聞きながら作業して、帰ってきたらシャワーを浴びてアルコールでほどよく緩む。

夕方以降は、家事育児をこなしながら、家族と喋りながらゆっくり夕飯を食べて、夜は本や映画を楽しむ。

今の私の幸せなサイクル。

このことが、できるだけ長く続きますように。

 

最近のお気に入りの本と映画。

「さみしくてごめん」

永井玲衣著/2025年/大和書房

永井玲衣さんの文章は、ぎゅっと詰まって質量が重く、するするとは読めない。

読み手に自分ごととして、自分の頭で考えることを要請する文章だ。

一編読むごとにとても考えたくなるし、ぐったり疲れるような感覚もあり、いちいちぱたんと閉じて、物思いにふけることになる。

ひとつの文章を書くのに相当の時間が割かれているのだろうし、書かれることのなかった膨大な思いの気配が文章に含まれ、密度を濃くしている。

ちょっとずつしか本を読み進められない今の自分には、おあつらえむきだと思う。

 

これまでの著作と違うのは、始めの一章が日記、それもごく短文の日記パートになっていること。

これが永井さんの世界観にだんだんと慣れて共に哲学に潜っていく助走の役割を担っている。

彼女らしい視点とユーモアに、何度も声を上げて笑ってしまう、可愛らしい日記。

 

とりわけ印象深かったのは「見られずに見る」という一編。

最近の私自身の問題意識と重なり合いながら、さらに深く痛いところにいざなってくれるような文章だった。

見るためには、それを見るわたしがいかなる場所で、いかなる者としてあるのかを、問わざるを得なくなる。

 

自分を見ることはできない。物理的にも、抽象的な意味でも、それは困難である。

見るこのわたしとは誰なのか。どこに立っているのか。

 

見ることは固定することだが、聴くことは変容させられてしまうことだ。揺るがないものはもうあまり興味がない。わたしはもう欲しくないのかもしれない。

むしろ、そうではない、あたふたとよろめいているような批評、そしてそれは決して批評とは呼ばれなかったかもしれなかった何か、そのようなものに惹かれる。

自分が誰だかわからなくなりながら、それでもどの場所からそれを語ろうとしているのかを描こうと奮闘する、そんな言葉を愛する。

わからないと言いつつも、わたしたちは何かを選ぶ。

どのように語るのか、どのように見るのか、何を聴き取るのかを選んでいる。

それは、かぼそく、不安で、心細い自由である。

だが、わたしたちにゆるされた、うつくしく確かな自由そのものなのだ。

(「さみしくてごめん 永井玲衣著」 『見られずに見る』より)

 

 

「Flow」

2024年/ラトビア・フランス・ベルギー合作/監督:ギンツ・ジルバロディス/85分

Amazonプライムにて視聴。

あるとき世界が大洪水に見舞われ、地上のほとんど全てのものが水の底に沈んでしまった世界の物語。

水の描写、背景の自然の瑞々しい美しさに目を見張る。

ただ写実的なのではなく、ある感情を通して見える世界のリアルさに圧倒される。

こういう表現は、アニメーションに敵うものがないような気がする。
スクリーンで見たかったなー。

 

人間は一人も出てこないが、廃墟やおんぼろの舟や彫刻といった、人間が作ったものたちは遺されている。

人間がいなくなった世界は、やけにすっきりしている。

 

背景に比べて動物たちの造形は緻密ではないけれど、その動物らしさを感じる身体の動きや仕草や行動に、動物に対する深いリスペクトと愛を感じる。

特に猫と犬に対する確かな観察眼。監督は相当な犬猫好きとみた。

犬の犬種による違いの描き分けも見事だった。

動物たちは基本動物のままであり、勝手に人間みたいにしたり、人間の言葉をしゃべらせたりしていない。

だから、セリフがひとつもない作品だけど、全く気にはならない。

 

作品が描くのは、異質な他者をはじめは怖く思い、だんだんと慣れ、そこに他者が居合わせることで助け助けられるなかで、少しずつ互いのことを信頼していき、自分も誰かにしてもらったことを別の誰かにしてあげたいと思う、という生き物としてのシンプルな循環。

天変地異の前に、あらゆる生き物はちっぽけでなすすべがないという当たり前の事実を前に、死ぬ時は死ぬさ、という構えでなるべくその循環に沿って在ろうとさえすれば、もうそれだけで十分なんじゃないかな、と思えてくる。