日曜日。今日も暑い。
午前中保育担当の夫氏は、末っ子と自転車で出かけてしまい、入れ替わりで起きてきた娘氏と紅茶を飲みながらだらだらと話し込む。
いい具合に話が転がると、どこまでも話が深く広くなっていくような娘氏との会話だ。
二人とも、今ある前提や思い込みが崩れることが何よりの面白み。
互いの偏りも気心も知れており、話しながらどんどん自分が不確かになりながら、自分が揺らいだりちょっと傷ついたりもしながら変わっていく、そんな会話がしたい。
友達親子ってだめだと言われたし、もちろんけじめは必要だけれど、とても気が合っている今ひとときの幸福なバランスを楽しみたい気持ち。
きっといろんなものを受け取るだけ受け取ったら、さっと翼を広げて飛び立っていく。
その時にはすぐに全部手放して、笑顔で見送ろうと思う。
ある種の人は特に年齢を重ねると、自分はおおむね分かっており、これ以上変わる必要はないし、自分を揺るがすようなことを特に聞きたくはない、という方向になっていく。
私も40歳くらいの時に、新しいものがなんだかいいと感じられないような時期があった。
あれ、これはやばいなと思って意識的にあらがった。
はじめはちょっと抵抗感がある新しいものたちを簡単に主観で切り捨てず踏みとどまり、その魅力を徐々に発見していくというスタンスに馴染むにつれて、また世界は奥行きを取り戻していった。
またある種の人は、白黒はっきりつけたがる。
それは、性分というよりは、幼さ、未熟性のあらわれだと思っているから、やはり意識的にあらがうことにしている。
今いる場所からひとつも動く気がない人との会話って、苦痛なものだ。
昔はもっと強くなりたかった。
でも今は、なるべく柔らかく弱いままでありたい。
他者に対しては、ただ素直な心で聞くことがしていきたいことだし、基本姿勢は応援だと思ってる。
