みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

優しくあれるようにする

今日は朝からマルシェ。

涼しく曇っていたので、お客さんがとても多くて、とうもろこしも枝豆もトマトも飛ぶように売れた。

昼過ぎには、きゅうりと長ネギがちょろっと残っているくらいで、ほとんど全ての野菜が完売状態だった。

お客さんと笑顔で会話を交わしながら、150円もらってなすを手渡し、200円もらっておじいちゃんが背負ったリュックのジッパーを開けて長ネギを差し込んであげ、良さそうなのを選んで、と頼まれてとうもろこし10本、ハイって渡すと何これ重すぎだねと笑い合う。

そんな小さなやり取りをくるくるとせわしなく、休みなく繰り返す。

そしたら、昼前には売り上げが10万円を超えていた。

どんどん売れるって、なんて楽しいことなんだろ。

 

先月から一緒に売り子をやっているベテランMさんは、とても陽気で人懐こい人で、ちょっとしたことで何度も大笑いになる。

思い込みが激しく時々話が通じないところも面白く、彼女に会う金曜日は、いつもすごく元気をもらって笑顔で帰途に着く。

彼女の素晴らしいところは、他人をどうこう言わないところだ。

楽しく機嫌良くあるために「自分の空気にしちゃえばいいんだと思ってる」。

すぐに相手に影響されて自分が揺れがちな私にはない強さがうらやましく、見習いたいなと思う。

 

安心して自分のままでいてよくて、数時間がぽっと消えるくらいに集中して目の前の仕事を頑張って、汗かいて体もほどよく疲れて。

今、畑でも、マルシェの売り子でも、基本的には優しい気持ちでシンプルな働き方ができていることが、本当に嬉しく、ありがたいことだと思っている。

 

 

思えば人生の大半、私はずっと意地悪な人だった。

表だってそんなそぶりは出さなくても、心の中でたくさん意地悪なことを考えてきた。

私は生まれつき意地悪で性格が悪いのだと長年思って生きてきたが、そうではなかった。

というか、人なんて、そもそもそんなに性分に大きな差があるような、そんな大層なものではないとここまで生きてきて思う。

清らかそうに見える人も一皮むけば大して清らかでもないし、徹底的に邪悪な人もそうそういない。

人にはただ、優しくいられるような、あるいは意地悪くなってしまうような環境や条件があるのだと思っている。

 

私が意地悪だったのは、(優しくなれない条件が揃っていたために)意地悪な親に育てられ、そのことにすっかり慣れ、人間とは世界とは所詮そういうものだと思い込んできたために、人が意地悪になる条件が揃ってしまうような場所に自分の身を置きがちだったからだと思う。

何しろその原体験は家庭と学校なので仕方がないところはあるのだが、「自分を嫌な奴にしてしまうような場所からは即去る」ということをなかなか思いつけなかったし、心地良いわけがないに決まっているのだが、意地悪な環境や意地悪な人にあまりに慣れていたために、麻痺していたところがある。

全てにおいて経験が少なく、自分に自信がなかったために、潔い決断ができなかったこともあるだろう。

 

自分が意地悪になってしまうようなことを言ったりしたりしてくる人を、私は断固として拒否しなければならなかったのだし、自分が意地悪になってしまうような場所からはすぐに離れなければならなかった。

自分を大事にする、自分に優しくするというのはそういうことなんだと思う。

自分を大事に、自分に優しくすることによって、他者に優しくあれるし、加害をしない人でいられる。

逆もまた然りで、自分を粗末に扱い、自分をいじめる人は、他者をいじめたり、排除したり、加害をする人になってしまう。

 

最近、何人かの人に「優しい」とか「癒し」とか言われることがあり、そのたびにすごく戸惑うし、こそばゆい。

ただ、自分が優しくあれないような状況や条件にすぐに気付いて、その都度考えて行動したり言葉を発するようにはなってきたと思う。

「自分の良いところは他意がないところだ」と自分で認めてあげることがようやくできてきたので、他意のなさを臆さず出して人に接することがだんだんできるようになっている。

 

それでも、日々ちょっとしたことで心を黒いもやがさっと覆う瞬間はしょっちゅうある。

それに負けてまんまと嫌な奴になることもある。

そんな中で「できるだけこういう人でありたい」という思いを握りしめ、なんとか踏ん張ろうとすることの繰り返し。

 

その日々の小さな心の動きは、私にとっては、くだらない、つまらないことなんかではない。

それは深く考えるに値することだし、生きている味わいだし、醍醐味だと思う。

 

緑のトンネル 鈴なりのきゅうりをどんどんもいでいく