
しばらく飽きてやめていたNetflixに再加入後、まず見たのは、配信開始当時大きな話題を呼んでいたこのミニドラマシリーズ。
タイトルの「アドレセンス」は思春期の意。
イギリスでは、首相が議会でこの作品について言及し、国内の学校で無料上映されるなど、社会現象化している。
評判はイギリスのみならず、世界90カ国以上でトップチャートを記録、総視聴数は1億4000万回超。
この作品が提示する問いが、全世界的にきわめて関心の高いテーマであるということのあらわれだと思う。
本作を企画した俳優のスティーブン・グレアムは、イギリス国内で連続して起こった少年が少女を刺殺する事件に強い危機感と興味を抱いたことをきっかけにこの作品を制作したと語っているが、作品は少年という属性だけにはとどまらない普遍性を含んでいる。
この作品は「インターネットを媒介として極端な思想に傾倒する人々」の実像に迫っている。
今回、作品を通して「マノスフィア」の存在を知ることになった。
マノスフィアとは、現代のポリコレやフェミニズム重視の世界において、男性こそが真の被害者、弱者であるという考えを共有した、男性優位・反フェミニズム的思想を持つ人たちのコミュニティのこと。
本作でも言及されるマノスフィアのアイコンであるインフルエンサー、アンドリュー・テイトは、SNSで1000万人以上のフォロワーを持つ。
差別煽動的かつ暴力的な発言を繰り返し、何度も訴えられているような人物であるにも関わらず、イギリスの子供〜若者(6-15歳)の84%がテイトを知っていて、本作の主人公ジェイミーと同年代の13-15歳の少年の4人にひとりがテイトに好意を感じているという調査報道もある。
主人公の少年ジェイミーは、ポリコレでがんじがらめの社会状況を器用にすり抜けるような、陰湿で大人には見えづらい巧妙なやり方で、同級生の女子たちに「お前はインセル(involuntarily celibrate、女性に求められない非モテ男性の意)だ」と中傷され続けていた。
今は、分かりやすい暴力や強者から弱者への攻撃は一発アウトの世の中で、大人が子供に、男性が女性に、むやみに手出しをすることは許されないことが常識となっている。
ジェイミーを中傷していた同級生女子たちは、男性が反撃しにくい状況を逆手に取るようにして、ネット上で徒党を組んで彼を攻撃していた。
親を含む周囲の大人たちにとって、きゃしゃでばら色の頬をしたかわいらしい少年がクラスメイトの少女をめった刺しにして殺すことは、青天の霹靂以外のなにものでもなかった。
ジェイミーは毎日学校に通い、家で家族と過ごし、サッカーに励むごく「普通」の少年で、不良少年でもなんでもなかった。
けれど彼は、自室のパソコンとスマートフォンで、毎日SNSでの誹謗中傷という暴力にさらされていたのだし、そんな自分の苦痛や男性としての自尊心をなだめてくれるマノスフィアの動画やSNSの言葉に頻繁に触れ続けていた。
それらのことを、悲劇が起こって真相を究明し始めるまで、大人たちは本当に何ひとつ知らなかった。
少年を取り巻く日常が、これほど刺激の強い偏ったものであり、人の心を狂わせるほどのものであるということを、大人たちはきわめて甘く見ていた。
マノスフィアに限らず、少年に限らず、「そういう事」はあらゆる人々の間で起こっていることだ。
私たちみんな、表面的には平凡な日常を過ごしていても、デジタルの画面を通して、日々大量の洗脳的な情報にさらされている。
自分の弱みやコンプレックスを刺激するなんらかの思想に取り込まれるリスクと誰もが常に隣り合わせだ。
アルゴリズムには、節度や良心やバランスなんてものは存在しない。
ただただ機械的に、興味関心が向けられたある傾向をどこまでも強化し、加速させる。
それが、インターネット社会に生きる私たちの日常のリアルな現実だ。
人々はそれぞれに何かしら先鋭化した思想を持ち、それに傾倒している。
言い換えると、それぞれの宗教を、信仰している。
信仰とは、基本的にその思想や教祖に自分を明け渡してゆだねる、自己判断を手放すことだから。
そして、それが正当性や正義に基づいた信仰であるからこそ、個人の怒りや悔しみの発露とはレベルの違う極端な行動をも可能にしてしまうのだと思う。
相模原事件の植松被告も、自分の所業をある国家的な使命かのように言っていた。
私は最近では、身近な誰かが突然のけぞるような政治観や国家観を話したり、差別的なことを言ったりしても、もうさして驚かなくなった。
ああ、インターネットやSNSで何かを見たのだろうな、という以上のことを思わなくなった。
他人には、基本的になす術がない。
たとえ家族であっても。
極端な思想になびかずにいることは、誰にとっても難しいことだ。
対抗策としてできることは、自分の中の違和感を大切にし、不格好に迷ったり悩んだりしながら、いちいち自分の頭で考えることを手放さないことくらいだ。
出来合いの思想を単純に比較・評価し、良さげなものを採用するという消費者マインドを安易に採用しないことだ。
情報の海の中で、事実でないことを信じてしまったり、勘違いするようなことはしょっちゅうあることだから、変なプライドは持たず、すぐに間違いを認める姿勢もとても大事だと思う。
日本では、ネトウヨ思想に染まっている主な層のひとつが、高齢者だということが指摘されている。
それは、高度経済成長期の日本をとにかく脇目も振らずに働いてきた高齢者の一定数が、自分なりの人生観や哲学が脆弱なまま人生を走り抜けてしまった存在であることを暗示しているように思う。
同様に、まだ自我が確立しない子供や若者も、なんらかの思想に洗脳されるリスクが特に高い層といえる。
オウム真理教が社会問題だった頃、自分の子供をオウムに取られたという親が必死の形相で子供を施設から取り返そうとするニュース映像をたびたび見た。
そのうち信者の何人かが、「正義の名の下に」地下鉄で無差別テロ事件を起こし、逮捕されて死刑になった。
ジェイミーの両親は、オウムに子供を奪われた親たちとほとんど同じ立場だ。
この両親は、自分の子供を「マノスフィア」という宗教に奪われた。
ジェイミーは、正義の名の下に少女を罰し、殺し、そして逮捕されることになった。
逮捕されても尚、ある種の洗脳状態は続いていることを含め、この有害な思想によって少女の命が失われ、少年の人生は台無しになった。
オウム真理教のような新興宗教と異なるのは、マノスフィアのような過激思想は、一人の教祖が率いる生身の存在ではないということだ。
教祖を捕まえて、教団を強制解体させるようなことはできない。
デジタル空間での極端な思想や憎悪の拡散は、一人の教祖から生み出されているものではなく、多くは匿名の存在がステルス的に行う。
だから、実態がきわめて把握しづらく、取締りようがないし、拡散を止めようもない。
過激なネット思想という新興宗教に取り込まれてしまうリスクは、今やスマホを持っている全員にある。
それは、誰もあずかり知らないところで、普段通りの日常の中で、一人きりで、静かに為されうる。
こういうショッキングな少年犯罪があった時、親に問題があったのではないか、いや異常な性質の持ち主だったのではないか、それとも学校に問題があったのではないかという文脈で世間は語りたがる。
もちろん、彼らは不完全であった。全ての親や学校がそうであるように。
でも、そうやって自分とは遠い外部の誰かや何かに原因をなすりつけたところで、ひととき安心できる以上のことは何もない。
同じようなことは繰り返され続ける。
親として自分の子供にできることはなんだろう、と改めて考え込んでしまう。
いたずらに規制を強めることには限界があるように思う。
自分なりの経験知や工夫をシェアすることくらいはできるけれど、結局信じて見守る以上のことはできないようにも思う。
ただ、一つ言えることは、ポピュリズムや過激なネット思想は人の心の中に巣食う不満や負の感情を巧妙に掬い上げるものだということ。
だから、できるだけ自分を健やかに機嫌良く保つ努力をするということなんだろうと思う。
私的には、自分に優しく親切に、身近な人たちに愛情をもって接し、無礼で加害的な人や、場所をきっぱりと拒絶する。これ基本。