みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

職場の残念なできごと

数日前に、職場の中のある部門のグループラインで諍いが勃発し、あれよあれよという間にぼうぼうと大火事になった。

日をまたいで読んでいて胸が痛くなるような、うんざりするようなやりとりが続く。

積もり積もった思いもあるのだろうなとずっと黙って眺めてきたけれど、いい加減気分が悪いので、業務上のグループチャットでの人格攻撃は行き過ぎと思う、読むのが苦しいし全体で共有する必要はないので個人的にやりとりしてほしい、というようなことを、ぱぱぱ、えい、と書き送った。

すると急にじゅっと冷や水がかけられたみたいにして、一気に静まり返った。

色んな意味でため息が出た。

 

「自分と向き合うことやネガティブを認めて受け入れることは勇気がいることですが、〇〇さんにはそれができるはずです」

と、さんざん人格攻撃した挙句に上から目線でアドバイスしていた方は、昨日職場で顔を合わせた時も、ちょっと気まずそうに挨拶してきたのみ。

だからさ、自分と向き合えーだなんて、おいそれと誰かに言えるようなことではないのよ、と自戒を込めて思う。

そもそも「私は自分と向き合えてます」と胸を張って言える人なんて、そうそういないのだから。

 

皆相当やもやしているみたいで、いろんな人がこのことについて職場で話してきたり、個人的にメッセージを送ったりしてくる人も。

今の状況はこういうことになっていて、原因はこれで、加害者は誰で、被害者は誰で、これが正しい対処なんだ、もっとこうすべきだ、これをやめるべきだ。

そういった、その人に見えている世界の解釈というか理解を言ってくる。

皆、真剣に状況を憂いているのだろうとは思う。

でも、人によって見えている世界があまりに違いすぎて、ちょっと絶句してしまうほどだ。

 

それぞれの世界線において、話している本人はあくまで正しくて、あくまで被害者である。

聞いているとなるほど確かにその通りかも、といちいち説得させられてしまう。

でも、何しろそれぞれの世界線の矛盾や乖離が大きいので、ちょっと時間をおくと、結局全てが疑わしく思われてきて、もう何が何だか分からなくなっている。

 

言葉って不完全で不十分なツールであることを改めて思う。

聞きたいように聞き、読みたいように読むことから、人はなかなか逃れられない。

私だってもちろんそうだ。

自分なりのバイアスがあるということを自覚しながら話す以上のことはできない。

さらに今回は、しれっと相手の言葉を悪用するようなやりとりも散見されて、そういうことにみんなわりと躊躇がないのだなと怖く、心細く思った。

明日は我が身でしかないからだ。

 

「完全な嘘ではない」というところがミソである。

ちょっとした言い換えや、自分にとって微妙に都合良く逸脱した翻訳。

語尾のニュアンスやさりげない強調の度合いで、驚くほど受け手の印象は変わる。

こう言った、ということはこういうことですよね、と思い込みで拡大解釈する。

見ても聞いてもないことを、事実のようにその人のいない場で言い切る。

社長はこう思ってる、誰々さんは反省してた、と第三者が誰かの気持ちを勝手に語る。

ちょっと待ってください、と何度も言いたくなったし、いくつか明らかに事実でないことに穏便に訂正を入れてみたりもしたけれど、反論されるばかりで、まあそりゃそうかとあきらめて黙って聞いていた。

 

組織内でのポジションの確保や、自分の落ち度を隠すための保身に心が奪われると、人は極端に走ってしまいがちなのかなと思う。

保身はその人にとっては死活問題なので、全てを超越して優先すべきことになってしまう。

そのため、時になりふり構わぬみたいなことになる。

冷静な第三者からは、論理の飛躍やものごとを都合良くねじ曲げているさまが結構丸見えだけど、当人的には至って論理的に話をしているつもりでいる。

普段のその人だったら考えられないような、ちょっと確認したらばれるような不用意な嘘をついてしまったりもする。

保身は、その人の存在に関わる強い不安や恐怖を動機として人を突き動かし、ある言動に駆り立てる。

だからこそ、その衝動にあらがって一旦停止して深呼吸してみることって、結構大事なことのように思う。もちろん、焼け石に水の場合もあるけれど。

 

このまま責め立てると、Yさんは居場所をなくして辞めるしかなくなるから、一旦落ち着きましょう、と、個人メッセージを送ってきた同僚には返信したけれど、自分の正しさに照らしたジャッジメントをこらえることは難しいみたいだった。

その人はYさんが会社を辞めることを知ったら「責めてるつもりはなかった、他に方法があったのでは」と慌てたようにメッセージをしてきた。

一旦誰かを叩き出すと、その人を追放するまでなかなか手を緩めることができない、そのくせ取り返しのつかない事態になると、簡単に後悔して自分から切り離す。

ネットでよく見るやつだ、と思った。

 

まーそれも含めて人間だよなあ!

みんな弱いしずるいし仕方ないよなあ、私もそうだしなあ、としんみりと思う。

これまで散々やらかしてきた私としては、これ以上人として格好悪いことを言ったりしたりしないで済むように、なるべく落ち着いてこうと思うのみだ。

 

結局地べたの現場では、感情とパワーバランスがその場を制し、ものごとの道理や理性は二の次になってしまうことは少なくない。

とても残念なことだけど。

正しさとは別のところで、誰かは守られ、誰かはあっさりと切り捨てられるということが起こる。

そういう後味の悪い暫定的な「解決」を経て、誰もが心にもやもやを抱えたまま、またそれぞれの持ち場に戻っていく。

 

多くの人がコミュニケーションの「内容」しか見ないのに対して、向谷地さんは一貫してコミュニケーションの「形式」だけを見ている。

形式というのがわかりにくければ、「どんな話の内容であれ、それでコミュニケーションが取れているかどうかだけを向谷地さんは見ている」と言い直してもいい。
(白石正明『ケアと編集』、岩波新書、55頁)

人の話をひとまず聞く、聞かれたことに答える、というコミュニケーションの基本形式は、往々にして尊重されない。

聞きたいように間違って聞き、聞かれたことに答えず、自分の言いたいことを言う。

自分にとって有利な関係のないことを持ち出して、相手をねじ伏せようとする。

マウントする、スルーする。

ともすれば、こういうやりとりに陥ってしまいがちだ。

 

また、「仕事だから」という理由で、人に対して暴力的なコミュニケーションを取っても構わない、業務上の立場が上なら人を粗雑に扱ったり、暴言を言ったりしても許されると思い違いをしているような人は、いまだにわりといっぱいいる。

それはやはり、その人自身がこの社会のどこかの場所で、いびつなコミュニケーションや暴言や暴力的な扱いを受け、それを「仕事だから当たり前」とされてきたからに他ならない。

でも、そんな「仕事ですから」の暴力性は不問に付したまま、正義や道理を語ってもなんになるのだろうと思ってしまう。

 

結局、悪い予想の通りになってしまった。

冷たく切り捨てられて、一人の人が辞めていく。

まるでその人さえいなくなれば全部解決するかのように責める何人かの声の大きい人たちによって、なかば追い出されるようにして。

なんて悲しいことだろう。

 

目の上のたんこぶがなくなったと思っている人たちは、モチベーションが上がるのだろうし、担当が変わることで仕事のあり方を見直したり、合理化したりすることによる良い変化は何かしらあるだろう。

でも、Yさんに悪いところは確かにあったにせよ、全部の悪いことの原因がYさんなわけがないから、当然問題は残る。

そしたら、おかしいなんでだ何が悪いんだって、また犯人探しを始めるのだ。

そのうちいつの間にか別の人が「お前のせいで」と責められるようになっているのだろう。

次の「お前」が私ではないと、どうして言い切れるだろう。

こういうことがあると、本当に安心して働けない。

 

 

あーあ、楽しく一所懸命農作業できたら私はそれで良かったのになあーー。

あんまりややこしいことを考えず、シンプルでいられるためにこの仕事を選んだというのにさ。

でも、世界はフラクタルだから、世界が、日本の社会がこんなである以上、人が集まり一皮むけばこういうことになってしまうのはある意味当然とも言える。

それでも私は、沈黙や傍観が得策だという考えはやっぱり気に食わないし、多数派が多数派であるという理由で与することが何より嫌だから、これからもぼっちの灰色の天然おばさんでいると思う。

それで窮地に陥ったら、ま、次に行くさ。

 

 

さ、気持ちを切り替えて、そろそろ身支度。

外はとってもいい天気。

これから初夏の海岸で昼呑みだ。

美味しい和菓子屋さんで塩大福を買って行こう。

友達と海に向かって並んで大福をぱくつけば、ちょっとは気持ちが晴れるかな。