みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

乖離について

久々に見た「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、やっぱり最高だった・・・。

内容を知っているからもうちょっと客観的に見るのかと思っていたが、初めて見た時のように、じりじりし、はらはらし、絶望感に翻弄されながら酔うように没頭した。

この作品には、その後のトリアーの作品には見られなくなっていった、愚かでままならぬ人間に対する愛や、世界の中に美を見出す眼差しが確かにある。

だからこそこの作品が自分にとってずっと大事な作品であり続けたということを、いま一度確認できた。

 

場所がらか映画館の中は20〜30代くらいの人たちが多く、初めて見る人も多かったのではないかなと思う。

エンドクレジットが終わって辺りが明るくなっても、誰もが座席にはりついたみたいになっている。

ほんの短い空白の後、我に返るようにしてばらばらと席を立ち、言葉少なにのろのろと出口へ向かう人々の背中を見ながら、私たちこの時間を共に過ごしたね、という気持ちになる。

 

ちょうど「ヤブノナカ」を読んでいた時期と重なったので、セルマ(ビョーク)が、乖離をすることでどうにか救いの少ない厳しい人生をやり過ごしてきた人なのだということを強く感じながら見た。

そしてその乖離の切実さにこそ、私は強く惹きつけられてきたのだということも。

 

このミュージカル作品が、ハリウッドやミシェル・ルグラン的王道のミュージカルとすごく違う部分は、楽しさやテンションの高まりが高じてミュージカルになっちゃう、歌ったり踊ったりしはじめちゃう、という流れとは対極なところにミュージカルの意味があることだ。

極度のストレス、世界との相入れなさ、意味不明さ、人々の無理解や悪意、ルールの分からなさ、傷つき、死。

そうした受け入れ難くつらいことたちが極まった瞬間、セルマはくるりと反転するようにミュージカルの世界に乖離する。

目の前の現実は、一瞬にして消えてなくなる。

そこでは人々は優しく、誰もが幸せ。

悪意や策略といったややこしい問題は存在せず、全員が心を一つにして音楽の旋律とリズムに酔い、共に手を取り合ってダンスする。

シンプルで、多幸感と安らぎに満ちた優しい世界。

セルマは、ミュージカルにしがみつくことで懸命に正気を保っている。

周囲からは彼女はふわふわした夢見がちな人に見えるかもしれないけれど、おそらく軽度の知的障害を抱えながら孤独に異国の地で子育てする彼女にとって、ミュージカルは現実を生き抜くための必須かつ実際的なツールだった。

 

弱く貧しい者がそれほど厳しい現実を生きざるを得ない残酷さに、

それでもミュージカルを頼みに、彼女が最後まで優しくずるくない人間であり続け、我が子を守り切ったことの尊さに、

しかしほとんどの人に誤解をされたまま、ぼろぼろになって死んでいったことに、

この映画が見せる人間世界の様相のあまりのやるせなさに、

昔も今も私はとても強く惹きつけられてしまう。

こういう清らかさに憧れることは独りよがりなことだと恥じながらも、セルマやアン・シャーリーやジェルソミーナやカビリアやラザロのような物語の中の人たちを、愛さずにはおれない。

 

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「ヤブノナカ」で、個人的に最も印象に残ったのは、「現代はもはや乖離を許さない」という言葉だった。

今の時代の生き難さや閉塞感の根底にある思想だと思う。

なぜ乖離がいけないのか?

それは有害なものものが、自分たちに生きやすい社会を作るために、人々の乖離性を助長させてきた経緯があるからだ。

いやあるいは、生きやすい社会を作るためではなく、結果的にそれが助長させてしまったのかもしれないが。

 

つまり、乖離によって許容されてきた人々が淘汰されるべき時代が訪れたということだ。

かつては乖離こそが人を救った。

乖離だけが今を生き抜く術であったと言っても過言ではない。

 

しかし、現代では乖離は通用しない。

多様性はいいけど乖離はだめ、そういう理屈が採用され始めている。

乖離というチートアイテムを使ってようやく乗り越えられたものを、今はチートなしで乗り越えなければならないということだ。

でも、チートをしてなんとかやり過ごしてきたものと真正面から向かい合ったとき、人は潰れる。

正義感と乖離のなさ、現実の鮮やかさの間で潰れる。

 

生き抜くためにしてきたことは実は間違いで、これからは乖離に頼らず世界と戦い続けてくださいと要求されている。

私の目には、すぐそこに迫った敗北しか見えない。

どうしたらいいのか分からない。

私はこれまで乖離に依存してきたけど、今は正義感と怒りに依存してる。

こんなに辛い生には耐えられない。

(「ヤブノナカ」金原ひとみ著より)

 

乖離とは、何もセルマのように妄想に心を完全に飛ばすことだけを指すのではない。

忘れることも、なかったことにすることも、一人の人間が表の顔と裏の顔を持つことも、乖離である。

それらがもはや許されないとは、どういうことか。

それは、インターネットやSNSや、顔認証システムを搭載した監視カメラや、ドライブレコーダーや、突発的な事件に際してスマホで撮影された動画や録音がいつでも拡散可能になったことなど、個人のあらゆる言動が証拠として無期限で全部記録・保存・共有され、誰かの賞賛や攻撃や批評の言葉が相手にダイレクトに届く、現代のデジタル社会と呼応している。

 

忘れてもらいたいことを、いつまでも忘れてもらえない。

なかったことにしたくても、させてもらえない。

一貫性のなさや矛盾を、直接指摘される。

目立った者は、見えないところから直接石を投げられる。

隠れた裏の顔は、誰かが本気になれば暴かれ、晒されうる。

一挙手一投足が命取りになる世の中で、自分の未来や将来が、悪意ある他人から一方的に暴露された自分の情報で簡単に転がり落ちてしまうのだと実感してから、俺は人生に対するコントロール感覚を喪失してしまっていた。

 

最近よく聞かれる「最近の若い人は、総じてスマートで配慮的で優しい」という言われ方。

接していて確かにその通りだなと思う反面、そう単純なことではないのでは、とモヤモヤしてきた。

彼らの生き方を「乖離が許されない社会に生きている」という事実と照らし合わせた時、むしろ一貫性のある人でなければならない、全方向的に『いい人』として生きざるを得ない、というある種の必然性が浮かび上がってくる。

女の子は控えめに見せるとモテるよ、とお父さんは言う。

でも、控えめに見せて、モテて、それが何になるんだろう?

お父さんは若者たちがどれだけセンシティブで、自然体であることのために労力と精神力をかけているか分かってない。

私たちにとってはモテることなんかよりも自然体であることの方がずっと重要で、死活問題なのだ。

 

インターネット、SNSのない時代は色々な虚飾が通用してたのかもしれないが、私界隈の常識としては、嘘つきとレッテルを貼られるようなことはとにかくできるだけ避けるのがベター。

社会がインターネットとデジタルに覆われ、誰かが日替わりでネット上で激しくバッシングされる日常を生きる上では「表裏なく、目立たず、無害な人であること」が最も合理的な生存戦略なのだという考え方が、私にはしっくり来る。

逆に、権力を傘にきて、醜いことでもなんでも言いたいことをあけすけに言ってはばからない、露悪を正直とはき違えたトランプのような人物が台頭してくるのもこういう時代ゆえなのだろうと思う。

 

今の社会では、乖離を抱えて生きることは、あまりにコストが高い。

乖離はその人の弱みであり、ご都合主義であり、卑怯であり、ずるであるとされる。

乖離は、正義と正しさの観点から断罪されて当然とみなされる。

「なんで友梨奈さんは必殺の一撃したんですか?倒さなきゃいけないと思ったから?」

「彼が許されないことをしたからだよ」

「じゃ、悪に制裁を下したってことですか?」

「かな」

 

けれどセルマの生き方が象徴的に見せてくれるように、人は弱く寂しい生き物で、全部のことから逃げずにまともに向き合うなんて、できる訳がない。

全方位的に正しく配慮的であることも、誰かを傷つけたり加害しないことも、どれだけ配慮に配慮を重ねても不可能でしかない。

絶対に間違わない人なんて一人もいない。

誰もが要領良く、おしゃれで美しく若々しく、感じ良く社交的になれるわけでもない。

でも、今の世界は基本的に人にそのようであれと求めてくる。

東:人のトラウマへの接し方には「抑圧する」と「乖離する」の2モデルがある。

今は「なかったことにはしない」乗り越え系の発想をとるヨーロッパの文明が強い。だからそれがグローバルスタンダードに見える。

でも巨視的には「なかったことにする」乖離系の文明も色々あった。

 

今の世界は、つらいことを「なかったことにする」のを許さないので、「乗り越える」ためだけに自分のトラウマと向き合い、社会を変えるために声を上げることを迫られる。

それは、本当に幸せなのか?

人間は時として不条理や不運に見舞われます。

それらについて常に問題意識を持ち続け、社会を改革しなければいけないというモデルを標準にすることが、全ての人にとって幸せとは思えない。

 

養老:考えただけで疲れます。

(「日本の歪み」養老孟司茂木健一郎東浩紀著より)

 

だからこそ、近年、「多様性」があらゆるジャンルで叫ばれるようになっているのではないか。

今の時代における「多様性」は、弱さを抱えた人間にとっては、この社会の非寛容さに立ち向かうための強力な免罪符であり、護身具だ。

 

または、個人の内側にどこまでも閉じていく。

文字通り「引きこもる」ことだし、「推し活」もそう。

こうしたサバイバル手段を選べないままにどこにも逃げ場をなくしたら、最終的には自分の存在丸ごとをこの世界から消すことで、全てをやめにするという結論に至ってしまうこともある。

人間にとって重要なサバイバル手段であった乖離という方法論を、グローバル・インターネット世界が奪ってしまったことは、取り返しがつかないことだ。

 

もちろん、インターネットやSNSスマホの全てが悪いわけではない。

それらが人を救ったり、生きる活力になることもあるし、分け隔てない集合知は、たくさんの楽しみや気付きや新たな可能性をもたらしてくれる。

何よりも、すでに我々はそれらにすっぽりと依存して生きているという動かし難い現実がある。

 

だから、デジタル監視社会がいいとか悪いとか言ってみても、もう今更どうしようもない。

せめて、今自分は乖離が許されない社会に生きており、この状況に見合ったライフハックや自分なりの幸福論を、しっかり携えておかなくちゃと思うし、デジタルネイティブの世代から大いに学びたいと思う。