新しい年度が始まった。
末っ子は年中さんになった。
とは言っても、ひとつ右隣の教室にスライドするだけで、お友だちも先生もほぼ持ち上がり。
子供的には変化はほぼなく、緊張感もゼロの新年度だ。
運営面では幾つかの変化があった。
完全給食になり、各教室と廊下に監視カメラが設置され、朝夕の登降園がQRコードによるチェック方式に変わった。
いずれも市の方針によるもの。
いかにも令和の公教育のスタンダードって感じだなあ。
これまでは、入口前に置かれたファイルに手書きで登園(降園)時間と送迎者、体温を書き込む仕組みだったのが、4月1日からはアプリに変わった。
運用が始まってから、人が教室の入り口に滞留しなくなったと感じる。
ぱ、とQRコードをかざし、入り口に子供をぽいと置き、じゃね、と足早に去っていく保護者たち。
なるほど、確かに簡単かつ時短になっている。
でも、朝の風景を眺めていて、「あ、このことを機に何かがまたひとつ失われた」というよるべない感覚がふっとこみ上げた。
一方、わたし自身の朝の動きに特に変化はない。末っ子が手のかかる人だから。
彼が外靴を脱いで上履きに履き替えるまでには、必ずひとしきり園庭をぐるぐると走り回るし、大声でお友達を入り口に呼び集めてなんかかんか遊びだすし、そのお友達からあれこれ話しかけられたり、絵や幼虫を見せられたりなどする。
その間に先生とも言葉を交わす。
いつうんちが出た、ちょっと鼻水出てます、友達とこんなやりとりがあった、給食で何を残した、上履きがそろそろきつい、といった雑多なこと。
やっと靴を靴箱にしまって、自分でロッカーにしまおうね、とかばんを手渡し、それから両手をタッチしてハグして、ようやく帰れる。
それでも物足りなくて去り際を走って追いかけてきて、さらにおんぶや抱っこを満足するまで繰り返すことも。
だから、QRコードのシステムになっても誰もに変化があるわけではない。
そもそも以前の手書きファイル方式が別に良いというわけでもなかった。
ただ、今回QRコードに変わったことを機に、何かが失われたと感じる、それってなんだろう?ということが小さなトゲのように引っかかる。
そこでやってしまいがちなことは、変化それ自体をネガティブなものとして捉えてしまうこと。
でも、「前のやり方の中に含まれていた大事と感じる何かとは何か」に向き合わないまま、変化を良いとか悪いとか論じても、あんまり意味はない。
とはいえ、自分も大きな主語(例えば「学校って」とか、「都会って」とか)で何かを良いとか悪いとか言ってしまうことはよくある。
それってほとんどは雑な思い込みでしかないのだけど、ばさっと物事を切り捨て、「これについてはもう分かった箱」に入れてふたをすれば、ちょっとすっきりするから。
つまり、複雑で簡単な答えのないことを、もうそれ以上考えないことにしたゆえの楽さだ。
だからこそ、何かに違和感を覚えた時には、その中の各要素についてちょっと踏ん張って思いを巡らせてみる習慣って大事だなと思う。
保育園のケースからは脱線するけれど、今回のことをきっかけに機械化って何だということを改めて考えた。
近年、サービス産業の接客分野の機械化・AI化が雪崩を打つように進行していることに、私は結構強めの違和感をもっている。
これまでの工業分野の機械化・AI化と異なるのは、人間同士のサービスの領域を機械に担わせるようになったことだと思う。
「人間対人間」の領域を、「人間対機械」に変えたことによって失われた価値とはなんなのか。
人間から機械に「置き換える」というと、あたかも同等の価値のものを交換したみたいだが、そんなのまったくの詭弁で、生身の人間と機械は、全然等価ではない。
機械は、画一的で限定的な専門分野のみをとても早く完璧に処理できるもの。
いまさら当たり前のことをあえて書くけれど、機械は人間には全く及ばない、単純でぎこちない存在だ。
「スマート化」「効率化」「サービス向上」といった言葉で、機械化やAI化はあたかも進化のように語られる。
だが、進化のはずが、以前よりも手続きが煩雑で難しくなったり、手続きに必要なものが揃わず最後の最後にキャンセル扱いになって最初からやり直しになったり、むしろ不便や負荷が増えていることは少なくない。
機械化によってかえってサービスが低下するということがあちこちで起こっている。
それでも機械化は問答無用にどんどん進む。
資本側にとって大きなメリットがあるからだ。
高い人件費を払わずに済む、のみならず極めて面倒くさく不安定な「生身の人間のケア」に対するコストを払わずに済む。
初期投資が高かろうと、ランニングコストがかかろうと、想定外のシステムの不具合や故障や意味不明のフリーズなんかがあろうとも、人間を相手にするよりはずっと気楽だ。
機械は急に休んだり病んだり辞めたり死んだりはしないし、どんなに手荒にこき使おうと、企業を訴えたりもしない。
そして重要なことは、新たに導入された機械の使い方を習得し、スマホにアプリをダウンロードし、実際の作業を行うのは、顧客自身だということ。
正確には、人間がやっていたことを機械がやってくれるようになった、のではなく、機械をそこに置いて、顧客自身にやらせるように変えた。
そこで入力ミスなどの間違いがあったら、それは客の責任になる。
また、例えばタッチパネルを押せない、日本語の細かい文字が読めない、見えづらい、機械に体が届かない、使い方が理解できないといった機械に対応できないあらゆる身体的条件に対する配慮と個別対応は、基本的にない。
対応アプリに対応するOSが搭載されていない機種であることも、何ならスマホを持っていないことも、充電が切れていることも、現金しか持っていないことも、全部顧客側の落ち度になる。
顧客自身が機械を自力で使いこなせなければ、これまでのサービスは使えなくなる、それは仕方がないこととされる。
これまでも全員が希望するサービスを受けられたわけではないけれど、人が機械になったことでサービスを諦めざるを得なくなった人は相当増えたはずだ。
まずもって、高齢者という巨大な層を丸ごと置き去りにしているわけだから。
「機械に合わせられない者が悪い」という思想が大手を振る世界。
サービス分野における機械化は、早いです、記録が保存されています、ワンタッチで完了します、そんないくつかの「簡単」「時短」と引き換えに、これまでスタッフが担っていた作業を顧客自身が引き受けることのみならず、顧客の自己責任の領域を拡大するということを意味する。
いくら不便を訴えようが、一旦機械化が世間的に許容された以上、この流れは行くところまで行くだろう。
資本側にとっては機械化によって顧客がこうむる不便やサービスの低下は承知の上で、あくまで自己利益の追求のためにやっていることだから。
同時に、これはあくまで個人的な感覚でしかないことだけど、接客分野の機械化がさしたる抵抗もなく社会にすんなり許容される背景には、人間に関わるのがめんどくさい、人間が煩わしいという人々の意識も影響しているのではないかと感じる。
SNSやオレオレ詐欺やフィッシングメールなど、コミュニケーションの形式に乗っかって他者を利用しようとする詐欺的なものに私たちの日常はあまりに取り囲まれている。
そういうコミュニケーションに人が疲れを感じたり嫌気が差すのは無理のないことだと思う。
また、人間は不完全で間違う生き物だけれど、今はあらゆる「不適切な言動」がハラスメント認定されて激しく糾弾されるリスクと常に隣り合わせにあるという感覚がある。
配慮するべき項目はどこまでも増え続ける。
ならば、はなから人間に関わらなければ過ちもないと思ってしまうのもまた無理のないことだ。
そうでなくとも人間と関わることは喜びや楽しさだけではなく、めんどくさいことやつらいことも多い。
孤独であることがいっそ楽だという感覚、私にもある。
でも、わずらさしさや傷つきから逃れるために、じゃあ生きた人間をまるっとなくしてしまえばもうつらくない、という思想は、やっぱり本末転倒なのだろうと思う。
考えがとっ散らかってしまったけれど。
機械化によって失われたもっとも大きなこととは、これまで生身の人と人のコミュニケーションの中で交わされてきた双方向のやりとりが、人間が機械に入力するという一方通行に変わったことだと思う。
資本側は、「コミュニケーションとは目的に即した文字や画像や音声のやりとりのことである」と規定した上で、人間を機械に置き換えてくる。
でも本当は、コミュニケーションとは、そんな貧しく画一的なものではないはずだ。
生きた人間同士のコミュニケーションって、どんなに何気ない平凡なやりとりであっても、複数の感覚器官や感情や感性が同時に動員される、きわめて有機的なものだ。
私たちはごく自然に相手の顔色や表情、声音や匂いといったものから「気」や「間」のようなものも含めて、目に見えないものや数値化されない微妙で複雑なものも同時に感じ取りながら、予測や経験値や思いやりや倫理観といった複数の要素を反映させながら、いろんなことを考えつつ相手とコミュニケーションをしている。
こうやって書くとすごいことみたいだが、多分人間って個人差はあれど、雑談レベルでもそういうことを日常的にやっているものだと思う。
機械やAIには、目に見える明確に指示出しされた単一のタスクを処理する速さや正確性や専門性の高さだけは確かにある。
単一タスクだけなら機械のスペックが上回るかもしれないが、総合的に判断したら、機械が人間より優れているなんてことは、やっぱりあり得ない。
だから、AIが人間を超えるとか、機械に人間の仕事が奪われるとか、当たり前のように言われているが、少なくとも人間対人間の領域においては、機械が人間と同じだけのことを代替するようになったのではない、ということは言えると思う。
機械が一部を担い、残りの要素はまるっと顧客の自己責任として、それを「機械化してもつつがなくまわっている」ことにしているだけ。
また、機械を介在させて、顧客の要望や疑問や困りごとに生身の人間が応答するまでの距離を意図的に遠く、困難にしたことで、顧客の声がどこにも届きようがなくなったことを「問題は存在していない、ゆえに順調である」ということにしているだけ。
なんちゅうずる賢く悪どいことだとは思う。
でも、それが資本主義の合理的な生存戦略だ。
資本主義の至上命題の一つは、「人件費の削減」だから。
これからも資本主義は、自己利益が増大すること、金が儲かるだけのことを、みんなにとっての幸せであり夢なんだとうそぶきながら、いろんなルール変更を進めていくのだろう。
そして、機械化によって、私は再発見する。
温かい体温を持ち、多様な感覚器官と感情と経験値と倫理観を持った生身の人間が、誰かの言葉を受け、それに対して何かを返し、なんならちょっと笑えるようなやりとりをしたりすることがいかに豊かなことなのか。
人間が人間であるということだけで、なんてすごいことなのか。
この社会は、その人がその人であることをいつも足りないと言い、もっと優秀なネジになれと強要し続ける。
競わせ、劣等感に苛むように仕向け、人間の価値を意図的に軽んじる。
そんな価値観だけで人間の全てを判断できると思っていることことのおかしさを思う。
そして思う。
時短なんてクソだ。
「時短」は、効率のために時間を切り刻むことだから、どれだけやっても余裕は生まれないし、心の平穏もない。
どれだけ時短をやっても、時間は常に足りない。
効率を手放した時、時間は目の前にある。
コスパやタイパやスペパに躍起になるほど、余裕は失くなり、どんどんケチくさくなってしまうような気がする。
みんなでこの社会の中で幸せに生きていくという観点で考えた時、普通に人間がひとりそこにいるだけで、たくさんのことができるし、確実に誰かを生かしている。
ある程度の時間と心の余裕をもって、人間としてそこにただいることでいろんなことが解決されるってこと、実は結構あるのだと思う。
人間は、人間である時点でめちゃくちゃ能力がある。
だから、これはあくまで私個人の考え方だけど、人はこれ以上すごくなる必要なんてなくて、がんばったり工夫するのは趣味の領域と考えるべきなんだと思う。
基本は、その人がその人に合った場所で、自分の興味や好奇心を追いかけて楽しく生きれば、世界に何かが還元されるんだと。
今のところ、おおむねそんな風に思っている。
というか、資本主義の価値観の向かい風をびゅうびゅうと顔に受けながらも、足を踏ん張って、何とかそっちに向かいたいと思っている。
今後、どれだけ機械化やAI化が進んだとて、私はますます広告や誰かのもっともらしい言葉を真に受けず、自分を機械よりも劣った取るに足らない存在のように思い込まないように気をつけながら、落ち着いた構えでやっていこう。
Offline is the new luxury.
(オフラインは新しい贅沢)