
「プリティ・ウーマン」が1990年。
裕福な男性とセックスワーカーの女性を描いた物語は、30年余りでこれほどまでに違った描かれ方になる。時代は変わったんだなと思う。
コミカルでテンポのいいコメディの要素とロマンチックで美しい撮影が印象的だが、後味はやるせなかった。
乱痴気騒ぎの果て、すごろくの振り出しに戻るみたいに、アノーラは寒々しい我が家に帰っていく。
エンドクレジットの重苦しい無音は、この作品に似つかわしかった。
過去はクソだし未来の展望もない。今が良ければそれでいい。
楽しければ、気持ち良ければ、お金があれば、なんだっていい。
ショーン・ベイカーはいつも、そういうその日暮らしな人たちを描く。
だらしなくてしっちゃかめっちゃかで、頭悪すぎでしょって眉をひそめられる類の人たちだ。
彼らがひどい目に遭うのも貧困に陥るのも、これはさすがに自業自得でしかないよね、と言われてしまうような。
でも彼らのありようは、彼ら自身が選びとった生き方ではない。
その人がそうとしか生きられぬよう、社会環境が幅寄せした結果として、その人がその人のようになっている。
ベイカーはポップに、しかしシビアにその社会構造を浮かび上がらせていく。
たがが外れたような享楽的な振る舞いは依存症的だ。お酒やドラッグと一緒。
それなりにヘルシーな人は、ずっとパリピ(死語)を続けることなんてできない。飽きるから。
それをストッパーが外れたみたいにずっとやっていられる人というのは、おそらく何かしらの問題を抱えている。
何かから目を逸らしたり、その人にとって辛いこと苦しいことや向き合うべきことから逃げるために避け難くそうしている。
だから享楽的な楽しさって、どこか楽しいことをやっているようには見えない、何か苦しみの発露のようにさえ見える。
アノーラとヴァーニャは、見るからに幼い、考えなしのバカップルだ。
彼らは愛し合ってさえいないし、ろくに話もせず、セックスばっかりしている。
でもその享楽的な見た目の裏側に、それぞれの生きがたさと苦しみが垣間見える。
彼らが欲しかったのは、自由と選択肢だ。
アノーラは、貧困に絡めとられ、ストリップ小屋で生きるしかなかったみじめな自分を、大金持ちになることによって救い出したかった。
ヴァーニャは、裕福な両親に人生を支配されることから、アメリカ人になることによって逃げ出したかった。
彼らは共に金の力の前に敗北し、自分を明け渡さざるを得なかった人たちだ。
けれどそれは、彼らに限ったことではない。
この映画に出てくる誰もが、金を基準にものを考え、行動し、人を見上げたりみくびったり、支配したり従わされたりしている。
あまりに金が人生の中心すぎて、誰もそのことに気付いてさえいない。
この作品の中で、雇われ用心棒のイゴールだけが、例外の存在だ。
彼は、人間を人間として見る。
アノーラがセックスワーカーであることや、雇い主が大金持ちであることでイゴールが相手に対する対応を変えることはない。
誰も同じように人として敬意をもって接する。
他の全員が金のあるなしによって当たり前に態度を変える世界の中で、イゴールは異質で、ちょっと鈍くて天然な人みたいにさえ見える。
本当は、彼は人としての品位を持っているだけだ。
この世界の方がいかれているのだ。
でも、表面的な目にみえる物事に引っ張られることなく、フラットにどんな人間もただの人間として眼差すことができる人は、今の世界ではかなり少ないかもしれない。
このいかれた世界で、アノーラが売ることができるのは自分の身体だけ。
作中には性行為や性的サービスをするシーンが何度も出てくるが、あくまで仕事なのでエロさはない。
夫ヴァーニャとの行為ですら彼女にとっては仕事の一環なので。
どれだけ表面的には強気ではすっぱに振る舞っていようと、自分の身体をこういう風に使って、身を投げ出して必死に生きねばならないということが彼女にとっての現実で、それはただ痛ましいことだ。
彼女がどれほどの技術をもっていようと、プロ意識に根ざしていようと、セックスワーカーという仕事に敬意を払う人はほとんどいない。
誰もがアノーラを軽んじ、人間以下の扱いをして当然という雑な態度で接してくる。
夫ヴァーニャも怒れる両親が登場した瞬間に借りてきた猫みたいになって、あっさりと彼女を裏切り、友情さえ示されず、彼女はにべもなく追い払われる。
そのさまを見ていたイゴールは大金持ちの雇い主に向かって「彼は彼女にごめんなさいと言うべきだ」とぽつんと言う。
ヴァーニャの母親は、こんな女に謝るはずがないとヒステリックにせせら笑う。
なぜなら自分たちは大金持ちで、彼女は貧しいセックスワーカーだからだ。
この母親は、自分の息子が相手に何をしたかをまともに認識することもできないし、責任を取ることや謝罪するという人として基本の行為を息子に教えることもない。
大金持ちであることで、金にものを言わせて全てをかしずかせることで、何をやっても許される特権者のように思い違いをしている。
かように金や権力は人を横暴にし、家族を壊し、周囲の人々を損なっていく。
ショーン・ベイカーは「フロリダ・プロジェクト」で、お金があればなんでも揃う、モノにまみれた社会の中の貧困を描いたが、本作では、あらゆる楽しさや快楽や快適さが提供される豊かな社会の中の不幸を描いたと思う。
アノーラとヴァーニャが意気投合したのは、彼らが共に生きることに食傷していたからだ。
便利で豊かな社会に生きながら、彼らは何をしていいか分からず、生きるに値する目標を見出す力を持たない。
それゆえ、こんなに若いのに生に退屈しきって投げやりになっている。
全てが揃った豊かな時代において、幸福なのは「何かを持っている人」ではない。
与えられた枠の豊かさの中にいる自分を自覚して、枠の外に自分なりの喜びや楽しみを見出し、それを求める生き生きとした心を持てること。
そして与えられた枠の外側の世界を自力で構築することができる程度の知性と活力を持っていること。
平たく言うと、心から何かに夢中になって、没頭することができるということ。
それが今の時代の幸福なのじゃないかなと私は考えている。
逆に、環境にスポイルされ、与えられたものをただ漫然と享受する生き方をしていると、人は何をしていいかわからなくなってくるのだと思う。
それがまさにアノーラとヴァーニャであり、そういう意味で彼らはとても似たもの同士だ。
便利で豊かな社会を幸福に生き切ることは、それほど簡単なことでもないように思う。
豊かで、個人に選択の自由が与えられた社会においては、自らの失敗や自分の能力の限界を直視し、自分の意思で何かを選び取り、何かは切り捨てないといけないからだ。
かなりのことが自己責任に帰属されるからだ。
その厳しい現実にあえて向き合いたくないから、「変わり映えのない、自分にとってそれほど悪くはない生活」を、多くの人が曖昧に受け入れて生きている。
もちろん、それもそれで、何も悪いことはない。
しかし、その生き方では、退屈はどうしても避けられない。
それは、豊かな社会を生きる人にとっての宿命みたいなものだ。
豊かな社会で平凡な人生を生き抜くために、私たちみんな、退屈をこじらせて誰かを傷つけたり、死にたくなったり、ニヒリズムに陥らないよう、それぞれの工夫をする必要がある。
できることなら、退屈に侵食されぬよう、没頭できる何かを見つけるに限る。
そして大人が子供にできる一番良いことって、何かものを与えることじゃなくて、枠組みの外側へ彼らをいざなう、可能性への気付きを促すことなんだなと、この作品を見て改めて感じる。
ものではなく、機会。出会い。
それさえできれば多分上出来。
アノーラとヴァーニャは、「こうするしかないんだ、こう生きるしかないんだ」と枠組みの中にいることを強要された子供たちだった。
枠組みの外側に気付かれると都合が悪いから、周囲の大人たちがあえてそれを見せないように、彼らから遠ざけてきた。
狭い枠組みの中でスポイルされフラストレーションを抱えた幼児的な若者の、やみくもで無計画な反逆。
それがアノーラとヴァーニャの結婚だった。
正確には、彼らには自由と選択肢がなかったわけではなかった。
自由と選択肢が自分の手にあるということに気付かせてもらえなかったことが、彼らの不幸だった。
だから若者よ、私よ、「ここしかない、これしかない」という言い方をする人間を、けして信用してはいけない。