
この物語の中の人物たちは、基本的に誰ひとり、思っていることをはっきりと口に出さない。
感情を露わにして相手にぶっつけることを良しとしない。
夫婦は、言わずもがな、あうんの呼吸なのだとされた時代。
でも女の心は、本当のことを知っている。
男の裏切りも、その弱さも愛も、何もかも。
ゆったりと微笑みながら、素知らぬふりをしている。
相手に対しても、自分自身に対しても、見て見ぬふりでぎりぎりまで通そうとする。
でも、心の奥に押し込められた愛憎が勝手に消えて無くなることはない。
何かのきっかけで、その感情は溢れ、暴れ出す。
かりそめの平穏はみじめに破綻する。
痛みや恥で覆われた感情の発露は、ぎょっとするような大胆さをとり、時に珍妙で滑稽な騒動も引き起こす。
向田邦子は、本音を押し殺して、言わずに済ませて生きようとする人たちを描く。
だからこそ彼女の作品の味わいは、いつだってこんなにもコメディで、同時にせつないドラマで、ぞっとするほどホラーなのだ。
この作品の持つムードは、どうしても昭和54年当時でないと成立しない。
令和に置き換えては、まったくドラマにならない。
なぜなら、あえてものごとをはっきりとさせない、曖昧な余地というものが、今の社会では相当失われてしまっているからだ。
象徴的なもののひとつが、黒電話。
作品の中で幾度も、出し抜けに電話のベルが鳴る。
交渉の余地なく応答を求める、そのきっぱりとしたベルの音は、それが誰からの呼びかけなのかが、電話に出てみるまでは全く分からない。
受話器を取る前に、いちいち誰かを想像し、悪い予感に怯え、あるいは待ち焦がれた知らせだと思い込んで焦り、躊躇をし、小さく覚悟を決めて「もしもし」と言うのだ。
作中、電話のベルが鳴るたびに、私はすごくはらはらどきどきした。
今は、いろんなことが避け難くあけすけになってしまった。
美学や粋さといったものは、あけすけさの前に簡単にくじかれ、無価値なものとして貶められていった。
通りの街灯が、防犯の名の下に、真っ白なLED電球にどんどん差し替えられていくみたいに、時代の流れと共に、陰影は全てつぶされ、全部が煌々と照らされていく。
それは無粋なだけではなく、人にとってとても暴力的なことなんだと思う。
ジェンダーや性に対する意識も、40年前と今とではかなり違っている。
この作品では、夫の不貞に苦しめられる妻という構図が繰り返し登場する。
というか、ほとんどみんなそれと無縁でいられないみたいなことになっている。
今の感覚で眺めると、こんなに耐えてまで男と共に生きねばならないものだろうか、と率直に思えてくる。
不倫とは何なのかが、この作品を見たことでよりクリアに分かった気がした。
夫が別の女性と関係を持つ、隠れて家庭を持つということに対して、恋愛感情をベースとした男女間の感情は当然あるものだろう。
でもそれとは別に、当時の夫婦関係があまりに不平等だということが大きく関わっていると思う。
この時代は、妻は夫に対して忠実であることを強い社会圧で強制しながら、夫が妻に不誠実であることは、社会的になかば容認されていた。
夫に忠誠を尽くせと公然と要求されながら、その相手が自分をないがしろにすることは黙って受け入れろと言ってくる。
そんなの、一般的な人間関係に置き換えて考えてみたら、理不尽を超えてたんなる病的な関係だ。
でもそれが、4、50年前には、特に珍しくもない一般的な夫婦像だったのだ。
もちろん、男女の関係性は、正しさや合理性だけではかれるようなものではない。
大事なのは、互いが自分の意思に基づいて自分で選べるということ。
けれど当時は、時代が古くなればなるほど、妻の側が自分の思いを貫くことによって社会的に何重にも罰せられるという構造があった。
女性が自分の意思で結婚をしない自由もないに等しかった。
だから、夫の不貞は、本質的には個人間の恋愛問題というよりは、より社会の中の女性の尊厳の問題なのだと思う。
この作品の中では、パートナーを人として軽んじ、不誠実に扱うという行いを、「浮気」というライトな言葉であらわし、不誠実な相手に対する怒りや悲しみを「やきもち」という色恋の感情にすり替えた言葉で語る。
妻自身がその言葉を使ってしまうことが、根深いと思う。
自分の感情を「やきもち」という軽い、何より間違った言葉で言ってしまうことは、自分自身を軽んじ、自分のされたことを自ら矮小化するに等しいことだからだ。
この物語の夫婦関係は、母親のありよう、長女、次女のありよう、年の離れた三女、四女のありようでそれぞれ違う。
人物の個性の違いだけではなく、時代の空気を反映させて、グラデーション的に異なるものになっている。
この作品の中で、男たちとの関係性に彼女たちがどう向き合うか、夫婦の関係性をどう捉えるかということは、ほとんどその女性の生き方そのものに近い。
そのさまを、40年後の世界から眺める私。
あいも変わらぬところもあり、全く違う部分もある。
これは、日本版若草物語。
四姉妹って、ある意味完璧な関係性なのかもしれない。
とても完結的に機能する形であり、他者が入り込む余地がない。
私は妹ひとりだけど、姉妹って実に気のおけない存在で、かけがえがない。
異性の兄弟ではきっとこうはいかない。
それが四人って、結構無敵かも。
四姉妹を演じた俳優たちは、魅力的で文句なし。
のみならず、脇役に至るまでキャスティングが素晴らしかった。
衣装や美術や撮影は、昭和50年代の空気感をノスタルジックに再現し、どこかホウ・シャオシェンの映画を思わせた。
祖母の家のアルバムをめくった時のような懐かしさ、でもどこか新鮮で。
あからさまな裸は出てこないけれど、随所に湿り気のあるエロティックな表現が際立っている。
文楽や能をじっくり見せるシーンもあり、かつての日本が持っていた美を描き出そうとする意欲が垣間見える演出だった。
いずれにしても、みっちりとお金をかけて作りましたという完成度であった。(さすがNetflix)
端正で隙のない美しさを堪能した。
逆に、劇中の音楽や前後のクレジットはすごく現代的でスタイリッシュ。そのコントラストもおしゃれ。
濃密なのにセンスの良さで軽みを出しているのが好みだった。