夜明け前、目覚めて階下に降りてリビングのカーテンを開けると、向かいの家の壁に月の光が差し込んで、はっとするほど明るい。
そういえば昨夜、帰宅した夫が大きくてきれいな満月だったと言っていた。
しばらく朝の散歩をやめていたけれど、月が見たくて久々に部屋着のまま外に出て、痺れる寒さのまだ薄暗い町を歩いた。
身体の中の空気が丸ごと入れ替わったみたいでせいせいした。
そしてほんのひととき、ぽかんとした余白を味わう。
私は日中は何かと目について、あれこれぐるぐると考え、せわしなく動き回っている。
基本、朝起きてから夜寝るまでノンストップで、余白はあんまりない。
ぼんやりすることと休むことが苦手で、うまくできない。
若い頃はそんなではなかった。
もっと普通にぼーっとしていた。
それが変わったのは、やはり長男を産んで、時間を相当やりくりしないと生活がカオスになる暮らしに一気に変わってから。
常に少し先を予測して組み立てるも、相手はままならぬ自由な生き物ゆえ、各種やらかしによって予定は頓挫しまくる。
その都度頭をひねりながら、予測のつかない状況をなんとか修復しようとする。
それでもその日のタスクを消化できないことなんてしょっちゅうだった。
それらもろもろをクリアした先にようやく辿り着いた「私の時間」、でも、子供の世話と家事に追われているうちに、結局今日も結局お預け、みたいな。
そんな毎日の繰り返しの中で、時間に対する感覚が変わっていったのかな、と思う。
でも、やがて上の子どもたちが育って手がかからなくなり、末っ子が保育園に行くようになってひと息ついても、やっぱり私はずっと「忙しい」。
時間がないという感覚が、すっかり染み付いてしまっている。
私が忙しいのは、もはや家族や何かのせいではない。私自身の問題。
なんとかしたくて暮らしの中で工夫や実験を重ねているけれど、まだまだ気持ちが急いているな、と思うことは多い。
加えて、スマホという秒単位の余白すら埋めてくる恐ろしい代物がある。
自分も含め、多くの人ががちょっとした隙間ですらスマホを手に取ってなんとか見ようとする仕草だったり、電車の中で座席に座る人がずらり一斉に首を同じ角度に傾けてスマホの画面に見入っているさまを見るにつけ、私に限らず多くの人にとって「何かをしたり見聞きしたりすることから離れて、自分をゆったり休ませること」は、結構難しいことになってしまっているのかも、と感じる。
スマホは便利だけど、人の人生の時間を奪う怖いものだから、本当はもっと用心深く接しなくてはいけない。
時折そう気を引き締めてみても、必要に迫られて手元に置く状況に甘んじているうち、いつの間にかずるずると生活の大部分にスマホは侵食している。その繰り返し。
件の子育て講座で、女性は子どもを産むと脳が変わるという話を聞いた。
子どものいる女性は、いつも自分のことを後回しにして、子どもや家族のことを考えて暮らしている。
責任感とか愛情とか思いやりとかのレベルではなく、当たり前みたいにそういう思考回路に身体レベルで変化するのだという。
むしろ、自分優先でなにかを考えようとしても、うまくできなくなってしまう。
かたや夫はそうではない、女性と違ってこれまでと変わらずてらいなく自分の都合優先でものを考える。
そのギャップで、子育て中の夫婦はぎくしゃくすることがままある、のだそうだ。
いち動物として考えた時、産後の女性が子を育てるというミッションを前にして、思考も含めて身体ごと母モードに変容するというのは、妙に納得性を感じる話だ。
同時に、好むと好まざるに関わらず、その思考回路の変化によって、「自分の望みとはなんなのか」「私は何をどうしたいのか」は見失われやすくなる。
さらに「一旦母モードに切り替わった女性は、基本的には一生そのままで、元には戻らないらしい」と聞いて、まじか、とちょっとおののいた。(出典は聞いていないのであくまで話半分で)
私のように元来が自分本位な人間は、たとえ出産したとて、ではこれからは一生自分を後回しにして誰かのケアをする人生で、と言われてもまあ納得できない、そこには葛藤がある。
スタンスは人によってさまざまだと思うが、多かれ少なかれ一旦母モードに入った女性たちは、どこかの地点で「自分の人生を自分の手に取り戻す」作業に、ある種の引き裂かれ感や困難を感じながら取り組むことに直面するのかもしれない。
もちろんそのままでハッピーならノープロブレム、無理にシフトチェンジしないで済むに越したことはないと思う。
でも私自身は、まだ幼い末っ子がいて現実的に難しい部分もあるけれども、人生の折り返し地点もとうに過ぎたし、もう役割重視ではなく、だんだんと自分自身に立ち返っていきたいという思いが強くなっている。
今すぐ何をどうするってわけでは全然ないが、心持ちのうえで。
それにしても、ギャルだろうが老婆だろうが、子を持つ女性全般にふとした時に感じる一種の同志感ってなんなんやろ?と長年不思議に感じてきたのだが、それって、「お互い大変な出産育児をしてきましたよね」というようなありていな仲間意識とかではもちろんなく。
多分、やりとりの中で「空気レベルで自分を後回しに考えてしまう、しかしいざとなったら誰よりも肝が座っている族」の匂いみたいなものをふと嗅ぎ取った時、その自分ではどうしようもない業をお互い生きてますよね、ということへの連帯感とリスペクトなのかも、とこのことを知って改めて思うことだ。
昨日は母子二人きりだったので、せがまれるままに末っ子とよく遊んだ。
公園でひとしきり遊んでから、近くの海岸へ。
風も波もそれほど強くなく、清々しいお天気だった。
砂浜からは、松竹映画のオープニングみたいな、雪をきれいにかぶった見事な富士山が見えた。
末っ子は波打ち際を歓声を上げながら走り回り、結局靴下も靴も濡らして、ひたすら巻貝ばかりを拾い集めていた。
予定もタスクも忘れて、あー元気でかわいいなあ、空気が美味しくて気持ちがいいなー、としばし幸せな時間だった。
役割に囚われ、いつも心を少し未来に飛ばして「やるべきこと」のためにあれこれ備えようとし、迷ったり悩んだりもして疲れ果ててしまうのが「お母さん脳」なのだとしたら、今に集中し、目の前にあるものをただ真っ直ぐに眺めることは、ひとつの処方箋と言えるのかもしれない。
しんどい時ほど一旦全部を脇に置いて何も考えず、今目の前にあることを一所懸命手を動かしてやるのがきっと正解。





子を産みて行方不明になりしわれを探しにゆけり桜の森へ
大口玲子