昨年末受けた子育て講座の中で教わった、ナイスな子育てハックのひとつが「実況中継」。
例えば、散らかしたおもちゃを末っ子自身に片付けて欲しい時、早くおもちゃを片付けな、サーイ!とただ繰り返すのではなく、目の前の末っ子の行動を逐一言葉にしていく。
そうすると、彼はおもしろいように片付けはじめる。
「お?トミカを手に持ったぞ?そーれーをー、今、おもちゃカゴに入れました!
おっと次に手にしたのはー?救急車だ!救急車もおもちゃカゴに入れた!すばやい判断ですっ」
てな具合に、スポーツ実況的テンションで、見えたまんまを言葉にしていく。
このハックのポイントは、私がよそ見をせず子供にアテンションを向け続けているということが、実況で可視化されることにある。
いかに日頃いろんなことに気が散って子供をしっかり見られていないか、自分を情けなく思うと同時に、うきうきとお片付けをしている目の前のこの子はなんて愛されたい生き物なんだろうな、と胸がきゅんとする。
「私は子供だけじゃなくて、例えば同僚にもこれをやるんです。
『コピー取ってくれたんだね』とかあえて言う。
あなたを見てたよ、と伝えることで、ちょっとほめてる感じになるんです」
と、雑談の中でメンターが言っていた。
これってどんな人との関係性においても大事にしたいこと。
なぜなら人は、他者に認識されることによって、自分の存在の確かさを感じられるからだ。
幼児だけじゃない。人は「認識されること」を求める生き物だ。
このことは、前記事の「私はいったい何に苦痛を感じているのだろう?」に対する答えにもつながる。
さまざまな事件の何がやるせなくつらいかって、個々の事件の悲惨さとその是々非々もさることながら、「加害や不正を告発された社会的強者の誰もが、説明責任を放棄してひたすら沈黙でやり過ごし、世間の関心が別に移ったと思われる頃に、しれっとこれまで通りの活動を再開しようとすること。そして、その態度がすっかり常套化していること」にあると思う。
どれほど客観的事実が明らかになり、説明を求められようとも、彼らは事実関係や自分が加害した相手について、自らの口で言及することを頑なに拒み、逃げ隠れる。
事実を決してまともに認識しないという姿勢を貫くことによって、苦しみや被害を訴えた人の存在は、丸ごと無視され、透明化される。
「その事実にまともに向き合えないほど自分は恥ずかしいことをした」ということを棚に上げ、自分を批判した第三者を名誉毀損で訴える、いわゆるスラップ訴訟であくまで他者を金と権力で威圧し、黙らせようとする者さえいる。
その者は言う。
「疑惑が今も残存しているかのような情報発信があるが、法的な和解はすでに成立している」と。
あたかも法的にクリアした時点で「自分は無実になった」のだから、これ以上は免罪されるべきだと言いたげだ。
でも、そもそもまともな説明が一度もされていない時点で、いつまでも『疑惑が残存』するのは当たり前なんじゃないだろうか。普通に考えて。
法的にクリーンということと無実とは、全く別のことである。
裏金議員65人が一斉不起訴になって、彼らは法的に無罪放免になったけれど、無論、彼らは無実ではないし、裏金という事実が世界から消えてなくなることもない。
単にこの国では、検察がもうまともに機能していないという以上の意味はない。
世間の追及が苛烈な時期を沈黙によってやり過ごした権力者は、人々の非難の声が届かない安全な場所で、あったことを無理やりなかったことにして、これまで通りを続ける。
確かに世の中の情報の消費スピードは早く、少し時間が経てば表面上は静かになったように見える。
一見、もうみんな忘れたようにも思える。
でも、誰かの尊厳を踏みにじったまま、何ひとつ引き受けず、変わらず享受し続けている卑怯な者を、人をそんなに簡単には忘れないと思う。
私自身を振り返った時、自分が誰かや何かに傷つけられたこと、ねじ伏せられたことを、普段は忘れたみたいにして生きているんだけど、ふとしたきっかけでぶわっと記憶が蘇り、しばし怒りや悔しさで胸が苦しいようなことがある。
逆に、自分が誰かを損なったこと、加害したことは、あっさり忘れていることが多い。何年越しで親しい人から「あのとき」と非難されるようなことがあると、え、そんなことあったっけ?と心底驚き、身が縮む。
そういう時、自分の身勝手が恥ずかしく情けなくなる。
でも多分、私だけじゃなく、人は自分にとって都合の悪いことを認識することからなんとか逃げよう(忘れることも含めて)とするものなのだと思う。
それが相手を致命的に傷つけることになっていても、人は自分を守るために、「それをまともに認識しない」ということをごく自然にやってしまう。
自分の過去の傷つきに対する記憶の長さや感情の強さは、どれも同じではない。
大きく分けて、「どこかの時点でもういいやと思って時間と共にだんだん忘れていくこと」と、「何年何十年経っても思い出すとカッとなるほどの痛みや恥ずかしさを感じ、いつまでも引きずるもの」がある。
それを私はことの深刻さ度合いや、自分の性格が執念深いせいだとありていに考えてきたが、「認識」というフィルターを通して改めて考えてみた時、どうもそうではないんじゃないかと。
実は「結局のところ、その事実は正しく認識されたのか」ということが、相当関係しているのではないかと。
加害した者の非認だけでなく、自分自身の認知の歪みも含めて、「正しく認識されなかった事実」は、いつまでも溶けることない冷たく凍った塊として胸の奥に存在し続ける。
まるで永久凍土みたいに。
当事者の口で語られること、認識されることを求めている事実から目を逸らし、うやむやにしたままで、それらが勝手に消えてなくなってくれることは、基本的にないのだと思う。
時間も、別の何かへの関心も、それとこれとは別であり、所詮取って代わるものではない。
誰かが踏みにじられて、それがなかったことみたいになるたび、目に見えない何かが、澱のように少しずつ溜まっていく。
そういうことが何年も積み重なってきた結果、今この社会にはやり場のない巨大な怨嗟が、出口を求めてぐるぐるとぐろを巻いているように私には感じられる。
時折何かをきっかけとして、その時直接攻撃できる叩きやすいへまをした者、あるいは反撃される心配のない少数派の弱い誰かに向かって、いろいろなものがないまぜになった負の感情が、一斉にぶわっと噴き出す。
あらゆるSNSでの炎上、ヘイト、差別の激しい言説の中にそれらが垣間見える。
でもそれは、本来異議申し立てをしたい、怒りを向けるべき対象には手も足も出ないために、より身近で弱く、攻撃することの効果を実感できる者に八つ当たりしているに過ぎない。
その場しのぎのガス抜きであり、短期的な憂さ晴らしだから、「気が済む」ということがなく、いつまでもしつこく病的に繰り返される。
自分を加害する者からいろんなものを自己責任化され、尊厳をないがしろにされていることに、内心深く傷つき、怒り、苦しんでおり、不安であやうい状態にある人が大勢いる。
そのことへの自覚が薄いまま、「自分はあくまで自分自身の正義に基づいて言動している」という主観を持っている、その“状態”のひとつが「ネトウヨ」なのではないかと私は思っている。
だから、価値観、政治信条を問わず、ネトウヨ的な人はいる。
意見的にはリベラルでも、表現がネトウヨみたいな人っていっぱい見かける。
自分の怒りや悲しみに無自覚で、それゆえ自分の考える正義に中毒しているという点では右も左もないから。
そういう人々は、SNSを養分にしながら、社会への不満や不全感と比例するように身近でも急速に増えているように個人的には感じている。
加害や不正を告発された芸能人や映画監督は、つまりは政治権力者たちの振る舞いを「公的対応」として安易に模倣したわけだが、残念ながら彼らは為政者ほどの特権は持ちあわせてはいないし、いわゆる「人気商売」でもある。
不正や犯罪をして、説明も償いもしないで済ませている政治家や資本家をはじめとした権力者は、時間と共にその不正や犯罪を忘れられ、許されて、再び好意的に受け入れられたわけではない。
その権力のおかげで、強引に同じ場所に居座っているだけだ。
だから、「彼らが許されたのだから、自分だってまたあの場所に戻っていいはず」と言いたげな仕草を見せるお笑い芸人に対して、人々は「ん な わ け あ る か」と一斉に異議申し立てをすることになる。
あくまで事実の認識に向き合おうとしない彼は、自らのこれまでの所業に加え、社会の中で増幅された憎しみもまとめてぶっつけられて「どうして自分だけがこんな目に」と理不尽に思っていることだろう。
やったことや言ったことは、基本的に取り返しがつかない。
それでもできるだけの責任を果たそうとした時、加害者がすべきことは、謝罪の言葉を述べることや、涙ながらに反省する姿を見せることではない。
まず何よりも、被害者の言葉を身に受け、それをまさに自分がやったのだ、と加害者が口に出して復唱することである。
(「〈性〉なる家族」より)
自分が事実を認識しているということを、言葉にして相手に伝えるということ。
加害や不正をした者にもさまざま言い分はあるだろう。
しかし、事実を認識することにあくまで向き合わないまま、どれだけ時間や法律を盾に自己正当化してみても、いつまで経ってもそのことは終わることがないだろう。
自分のしたことを認識しないで済ませることを、軽く見てはいけない。
今、誰にも何も言われていないからと言ってあなどってはいけない。
「事実を事実のままに認識された」ということをもってでしか、溶かされない感情がある。
そう考えると、日頃目にする色々な公的な謝罪や声明の「いろいろな意見をいただいています」や、「誤解を与え、不快にさせてしまったことにお詫び申し上げます」といった言い方が、いかに悪手かよく分かる。
事実の認識をあえてうやむやにし、他責化しながらの謝罪なんて、不快感を与えるだけで逆効果でしかないということが。
一方で。
ちっぽけな個人にとって、現実とは悔しいけれど「こんなもん」である。
認識されなかった事実はいつまでも消えないものだけど、だからって自分の納得のいくように他者が認識してくれるなんてむしろ稀で、ほとんどのことは自分の思い通りになんかならないし、涙を呑むことの方がずっと多い。
人生とはいかに負け慣れるかだ、っていうくらい。
そんな報われないことやままならないことも多い人生を、私がこうしてまずまずハッピーに生きられているのは、子育てすることや働くこと、映画や本や誰かと話をすることなどの毎日の体験を通じて、自分にはどうすることもできない他者ではなくて、「私自身の認識を少しずつ新たにする」ということを自然と楽しみながらやり続けているからなんだろうなと思う。
自分の認識の歪みや思い込みに気付く瞬間に出会うことは、確かに挫折感や恥ずかしさも感じることなんだけど、私にとっては何よりもわくわくすることだ。
生命力がぐっとあがる、力が湧く感覚があるのは、「私が今、それを認識した」ということが、自分の中の永久凍土を少し溶かすからなんだと思う。
そしてそのことをできれば、隣にいる誰かに吐露してみるのがいいと思う。
その人が「そっか」と言ってくれた時に、また少し溶けるものがあるから。
自分自身の身に起こったことに加え、世の中で起こるさまざまなことは、感謝や喜びといったポジティブな感情だけではなく、苦痛や怒りといったネガティブな感情も避け難くもたらす。
苦しみも痛みもなくなることは残念ながらなく、いなしながら共に生きていくしかない。
私が心がけたいことは、自分が何に怒ったり悲しみを感じているかを認識し、見当はずれのものごとに安易な憎しみや怒りを向けないこと。
そして、解決がなくとも、報われなくとも、自分の認識が変わることで少し自分で自分を軽やかにしてあげることだけはできる、自分に元気がない時はそんなこと到底無理に決まっているから、ふてくされてじっとしているしかないが、余裕がある時はちょっとだけギアを入れて、自分の認識を新たにしてみようと試みること。
そして、これは私の2025年の個人目標、誰かに私を認識して、と求められた時には出来るかぎりの愛をもって応えたい。