
大晦日の夜は、家族が寝静まった後にスパークリングワイン飲みつつ、このノルウェーのドラマをひとりで観ていた。
はた、と時計に目をやると、すでに2025年になっていた。なんともしまりのない年越し。
スペイン領カナリア諸島の小さな島で大噴火が起こり、大量の土砂が海に流れ込み大津波を引き起こす、その前兆から津波の直後までを描いた、いわゆる自然災害もの。
VFXがすごくよくできていて、それだけでも一気見できてしまう。
高度に科学技術が発達した社会の中では、ほとんどのことは人間の力でコントロールできるかのような錯覚に陥る。
でも昔も今も、大規模な自然災害に対して人間は圧倒的に無力だ。
正月早々不謹慎なことを書くが、私はこうした作品を観ていると、恐怖とやるせなさと同時に、どこかせいせいするような感覚を覚える。
人知を超えた自然現象を前にして、人間のちっぽけさを思い知らされ、普段の暮らしの中で心のほとんどを占めているしがらみ、日常レベルの何もかもが一瞬にして吹っ飛び、「とにかく共に生き抜くのみ」という強く分け隔てもないシンプルなモードに入る、それだけに心がいっときフォーカスされるからだと思う。
もちろん作りごとと分かって見ているゆえの甘い考えなのだけど。
本作では、科学技術や情報は時に人の命を救うほど価値のあるものだが、それを決定権をもつ人間がどのように取り扱うかによって命運が分かれるということが、分かりやすく描かれていた。
一人ひとりの人間の命よりも別の何かを優先することをはばからない世界においては、価値ある技術も貴重な情報もあらゆる智恵も、隠蔽されたり黙殺される可能性と常に隣り合わせにある。
どれほどAIが発達し、便利な道具に取り囲まれ、インターネットが膨大な情報を蓄えたとしても、それをして「人間社会が進歩した」ということにはならない。
そこはごっちゃにしてはいけない重要ポイントだと思う。
人間それじたいは大して進化していない。それは歴史や昔の書物が教えてくれる。
便利で安全な世の中になったことで、五感をはじめとした身体能力や個々人の資質は、見方によってはむしろ劣化しているのかもとさえ。
手にしている道具は変われど、人間は結局ずっとおんなじようなことを繰り返しているし、おんなじようなことに怒り悲しみ喜んでいる。
あらゆる技術や見識や情報を運用するのが人間である以上、全ては不完全な人間という存在の支配下に置かれる。
それが人間社会の限界。
本作における権力、スペイン政府の要職にある者たちは、一貫して秩序と慎重を言い訳に保身的な態度に終始する。
みずから何かを発信したことによって生じるあらゆる責任を、誰も引き受けたくない。
しかしそのことによって、状況は雪だるま式に悪化し、何もかもが手遅れになっていく。
状況が確実になるまでもう少し様子を見よう。規則だから、誰々の許可が必要だ。
そう言って緊急事態にさらされている人々を救うことに後ろ向きな人々は、悪事をはたらこうとしているわけでも、別段邪悪なわけでもない。
所詮ひとごとなだけだ。
「保身のための無為」を選択することは、スケールは違えど誰にでもある。
責められないため、軋轢を生まないため、損をしないため、やぶへびにならないため、あえて発言しない。伝えない。行動しない。
あらゆる日常的な人間関係の中で、多くの人がやっている。
何かを「しない」ことは、ゼロであると捉えられがちだ。
また、「保身」は字面からして受け身な印象でもある。
しかし実際のところ、保身とはそんな穏便なものではないとこの作品は教えてくれる。
保身による無為は、時と場合によってきわめて暴力的で致命的なものになりうる。
なぜなら保身は多くの場合において、恐怖や不安といった防御的な感情に支配されて、あらゆる道理や理性を脇に置き、なりふり構わず目先の自己都合を優先するからだ。
保身ほど、合理的な判断とは関係なく早まった判断がされやすいものはない。
さらに無為は具体的な言動がないのだから、責任が可視化されにくい。
保身による無為は常に無責任性を帯びている。
だからこそ、危機的状況において保身による無為は、最悪の結果を引き起こすことに繋がりやすいことを知っておく必要がある。
意図的な無為は無謬ではなく、加害になりうるということは、自分自身、肝に銘じておきたい。
想定外の自然災害に対して、人間のできることは多くはない。
できることは、為政者や決定権者の「責任を取りたくないし取るつもりもない」という姿勢は、集団や組織にとっての最大のリスクとなる、それは個人の能力や知識なんかよりずっと考慮されるべきことなんだということを人々が理解して、可能な限りその状況を避けることくらいだ。
この作品の教訓。