末っ子が発達診断を受けるにあたって、市の子育て講座を半強制で受けることになり、今、第二回が終わったところ。
隔週で2時間の講座がなんと5回。私は相当しぶしぶであった。
だって「子どもを怒鳴ってはいけません」とか、それができれば苦労せんわいというような正論を今さら座学で聞かされるとか、罰ゲームすぎませんか・・・
でも参加してみたら、そういう分かりきったことをやる場ではなく、思いがけなく学び多いものだった。
脳の発達という観点から、幼児という生き物の特性を知った上でのアプローチも面白いし、何より「ままならない他者とのコミュニケーションをいかに和やかなものにできるのか」に対する人間心理をふまえたさまざまな工夫には気付かされることが多かった。
これは幼児だけでなく、老人や思春期の子どもや同僚やパートナーや、つまり他人全てに対して応用できる有益なメソッドだと思う。
それが、「子育て中でいっぱいいっぱいの親」に向けて、相当誰にでも分かりやすくポイントを押さえたものとしてツール化されている。ありがたい。
例えば、「今から私の言う通りにしてみてください」とメンターが言う。
で、「座らないでください」「目をつぶらないでください」などと指示される。
あれ、ちょっとギクシャクする。
自分がやってみることで、否定形で言われた言葉ってこんなに受け取りにくいのか、と驚く。
次に「ちゃんとしてください」って言われる。
もう苦笑するしかない。
ちゃんとってあいまいすぎる。
でも、これらは普段自分が子供に対してしょっちゅう言っていることである。
そっちは行かないでー!って言うのではなく、ドアの横に立ってね、と言う。
信号よく見て!じゃなくて、青に変わったら渡ろうね、と言う。
ちゃんとしなさい、じゃなくて、電車の中では大声を出さずにまっすぐ座ろうね、と言う。
そういう、否定形とあいまいを具体的な指示に変換するという小さな工夫で、相手の言葉がぐっと受け取りやすくなることを知る。
今回、個人的にすごく使えると思ったツールが、「そっかあ〜」である。
末っ子の言うことがどれほど無理筋でも、解決は一旦脇に置いて「そっかあ、まだ遊びたいよね」「そうだよね、分かる分かる」と、まずは受け取ってみる。
ものの試しと思って習ったままに家でも実験してみたら、あまりに効果が目に見えて笑った。
「もう十分遊んだでしょ」とか「食べ過ぎだからもうだめ」というような返しをすると、ますます激しくごり押ししようとするけど、「そうだよねー」というだけで、ひゅっと目に見えてトーンダウンする。魔法の言葉だー。
でも考えてみれば、誰に対してだって同じことなのだった。
その場で否定されれば誰でもカチンとくるから、受け入れられないことでもまずは「なるほど、おっしゃること分かります」と言うことなど、社会ではままある。
自分だって他人への気遣いでそういうことをあんまり意識もせずに自然にやっている。
でも、私は子供に対しては平気で雑に横暴になるのだ。
そういう自分の暴力性に気付かされてハッとした。
何も考えずにまずは「そーだよねえー」と言うことは、自分自身もふわっと緩めることも体感した。
つまりコミュニケーションからジャッジメントの要素を省いていくことが肝要なのだと思う。
小さなライフハックをゲットしたという気持ち。
今日の講義では「コントロールの効かない激しい怒りのピークをやり過ごすには」についての話が面白かった。
「カッとなった時、あなたはどうやってクールダウンしているか」と一人ずつ聞かれた。
その中で一人の方が、以前病院に勤めていた時のことを教えてくれた。
病院のカウンター内の仕事は、病や不快や不調を抱えた余裕のない人々とのやり取りになるので、嫌な目に遭ってしまうことがどうしても起こる。
そんな職場で彼女は、ドアの前で「ショートコント!」と自分に向かって小声で言ってから、いつもカウンターブースに入っていたのだという。
「ここから先起こることはみーんなショートコント」って自分に暗示をかける。
わあめっちゃいいな、ちょっと可愛いし。
この話を聞けただけで今日来た甲斐があったな、と思ったことだった。
私は常々思うのだけど、人生の困難さを軽くし、幸福度を大きく高めるのは、「小さな工夫」だと思う。
ひとひねりのある理にかなった言動をできた時、人生のクオリティーは目に見えてぐっと一段ひき上がる。
不満や不便や不足を、自分を鍛えることで克服しようとする、つまり(比喩的な意味で)何かしらの専門家になろうとするというアプローチも取りがちだが、多分なにもそんな困難でハードなまわり道をすることはなくて。
すごくならなきゃいけないってことはなくて。
どんな分野においても、ちょっとした工夫で解決する部分は相当あるように思う。
でも、工夫をするためには、その分野に関する基本的な見識というものが必要になる。
子育てで例えると、「思考・判断・自己抑制・コミュニケーションなどを司る、ヒトの脳の前頭前野という部位は、12歳頃までは非常に未発達で、12歳を境に急速に発達していく」という科学的事実を知っており、それを前提とできるかどうか。
子育ては待つことが大事、とお題目のように言われる。
では、なんのために待つのか。
「大人の都合で子どもの意思をないがしろにせず、焦らず余裕を持って接することで、子どもがの意思が尊重される」みたいなことが模範解答だろうか。
でも、子どもの脳の特性に即して考えた時、待つことへの根拠はだいぶ変わってくる。
つまり、「幼児は意思の方向転換に時間がかかる生き物だから、一定の時間がかかるものという構えで接する」というソリューションになる。
ここでの「待つ」とは、自らのエゴを抑え、子どもの意思に配慮し、辛抱強く寛容に接するということではない。
そんなしんどく、立派な親になれという意味ではなくて。
「待つ」とは、単にひとつの要望を通すのに一定の時間をかけるという意味のことになる。
日が暮れたから帰ろう、と末っ子に伝えて「やーだー!」と言われた時、普通はあれこれ技を繰り出すことでなんとか従わせようとするわけである。
なだめたり、すかしたり、脅したり、怒鳴ったり。
互いにままならないことに自分も末っ子もヒートアップして、大声でわーわーやりあうことにもなる。
そういう時、子供はどんなにしんどくても許してくれない鬼軍曹、理解不能な小さなモンスターみたいに思える。
でも。
技を繰り出す必要なんてなかったのである。
子供は脳の構造上、素早く方針転換ができない生き物である、それだけ。
なんとしても従いたくないのではなくて、従う気は全然あるが、ままならないだけ。
融通の効かない暴君ではなくむしろ「お母さんが喜んでくれることをして、ほめられたら嬉しい」素直でかわいい生き物なのである。
だから、一定時間、普通のトーンで「帰ろー」と繰り返しておればいい。
何回か繰り返したら、「んー分かったー」ってなるタイミングが来るとのんびり信じて。
子どもは、幼児の時でさえ、母を苦しめるモンスターではない。
基本、母親を喜ばせたい、笑顔が見たいと思っている。
私たちが思うより多分ずっと強く、純粋に。
幼児はまだ未熟だから大人のようにはそつなくできないけど、大人よりずっとひたむきに「わたしがぼくが、パパやママを幸せにしたい」って思っているのだ。
その考えに思い至ると、なんだか胸がいっぱいになる。
そんな風にかけねなく自分のことを思ってくれる人がこの世にいるって、なんてありがたい、幸せなことなんだろうなって。
頭では分かっているつもりでいたこのことに、改めて立ち返らせてくれた大事な時間になった。
とはいえそんな今日でさえ、末っ子との関わりはとてもほめられたものにはなってない自分に自己嫌悪。
めげずに一歩一歩定着させていこう。
そんな3人目の子育て中の日々。