すっかり日が短くなって、朝晩も涼しくなった。
今朝はミストのような細かい霧雨が降っている。
傘を差さずに自転車で走り抜けると気持ちがいい。
この2ヶ月間ほど、表面的にはいつも通りの毎日がのたりのたりと続いているようで、精神的にはしんどい日々だった。
と、ようやく抜けてみて思う。
ずっとどこか上の空だった。
分かりやすく泣いたり落ち込んだりとかはなく、でも、気がつけば一点をじいっと見つめていたり、深いため息がついて出たり。
分かりやすい出口がないからこそ、そうなってしまうんだろう。
溺れるように日々を過ごす中で、いくつかの出来事やきっかけが重なり、仕方なく覚悟を決めて向き合い、更に徹底的に沈み、そこでようやく底をつく。
底は、暗くて寂しく、でも穏やかで静かだ。
これからの人生も、また何度もあの場所に行くことになるんだろう。
日常というのは、鮮やかにスパッと鋭くはいかない。
鈍くて切れ味の悪い、錆びた古い包丁みたいなかんじだ。
切られた傷から常にじわじわ血は出続けているのに気付けないし、痛いかさえも分からない。
何が自分の身に起こっているのか、自分が本当には何を感じているのか。
日常にまみれて暮らしていると、あらゆるものがごっちゃになって、何のせいでどこがどれくらい痛いとか、どんどん分からなくなる。
無力感や辛さは通奏低音のようにいつもあった。
でも、日常の中には楽しい瞬間や笑いもたくさんあって。
うちの中にいるちっちゃい人はなにしろ可愛いし。
そのたび紛れて。
それでなくとも私は順応性が高く、どんなことでもすぐに慣れてしまう。
誰だってまあこんなもんでしょとすぐに自分をあなどる。
そうして、ちゃんと考えて対処すべきことをどこまでも先送りする。
決断なんて、出来るだけしたくなんかないのだ。
私の自虐的な笑いにくるんだ吐露を、笑わず逸らさず、両手を包みこんでさすりながら、そんな風に思うことはない、全然そんなことはないんだよ、と言われて、びっくりするということがしばらく前にあった。
緩んでふと泣きたくなったけど、自分の内側はすっかり乾いていて、涙は出てこなかった。
人は誰かにいたわられて初めて、自分が痛かったということに気付けるものなのかもしれない。
それまでは、ずっと鏡を見てない人みたいに自分をないがしろにして生きている。
改めて自分の身をまじまじと眺めてみたら、結構なダメージをくらってよれよれのボロ雑巾みたいな自分に、うわっなんだこれってドン引くことになる。
どれだけ上手くやろうと思ってさまざま対策を立てたとて、このサイクルは定期的に繰り返される。
自分の気付かなさや、体力のなさによる粗雑さで他人を深く傷つけたことたちへのつけはしっかり回ってくる。
他人のほんの些細な言葉や仕草に傷ついてしまうことや、自信のなさからあれこれ憶測し過ぎて空回りして、勝手に恥入って後悔して悶えたりする、エゴの苦しみも知らぬ間に大きなだんごに育ってだんだん耐え難くなってくる。
他の何か穏便で可愛らしいものでごまかし、逸らすことで自分を癒そうとするのだが、いっときはうまくいっているように見えても、なくなることはない。
だんだんと澱のように問題は蓄積していく。
そしてついに、にっちもさっちも行かないどん詰まりの場所に立ち尽くす。
そこまできて、やっと観念してちゃんと話さなくっちゃ、何かを変えなくっちゃと重たすぎる腰を上げることができる。
もっと早くて問題が小さいうちに、小さい勇気をもって逃げずに向き合うということがこまやかにできればいいのだろうと思う。
でもそれは、武道の達人みたいなことで、常にある種の覚悟と共に生きているということだから、言うは易しでまあまあ難しいことのように思える。
気付けばお腹の力がふにゃ〜と抜けている自分のような人間にとっては、中年になってそれなりに人生経験を重ねても尚、やっぱり難しい。
多分死ぬまで私はしょうもないままで、覚悟を持った立派な人にはなれない。
間違い続け、いがみ合い続け、くよくよし続ける。
もうそれでしょうがないじゃないか、と思う。
その時々の自分がかき集められるだけのささやかな愛をもって何とか対処していくしかないじゃないか。
泣いても笑っても、もうとうに折り返し地点を過ぎている。
だからせめて、出来るだけ気分良く今日を過ごしたい。
一個でも楽しいことをやってく。
それが基本ラインだと今思っている。
まるで詰まりが取れたかのように、人とのやりとりが一気に増えるのは、抜けたサイン。
誰からも連絡のなかった日々から、一気に変わって、物事がうわっと動き出す。
こちらから誰に宣言したわけでもないのに、いつも不思議で仕方ない。
今回もなんとか生還できたらしい。
この平和がいつまで保つかは分からんが、ひとまず今日に感謝するのみ。
今日は、これから初めての人に会いに行ってきます。

