
ロングランになっているこの作品を、ようやく見た。
あっぶなかったー、これを見逃すところだったとは。
たった58分とは全く思えないほど、濃密で至福の時間だった。
冒頭から心奪われ、最後まで逸らされることなく、呆然と物語を浴びたという感じ。
色んな映画を観てきたけど、この作品の独特の満足度の高さは特筆すべきものだと思う。なんなんだこの満足感。
人が作った手触りや体温を強く感じさせる作画でありながら、少しもあらを感じさせない。
高い技術に支えられた自在で制限のない映像表現が人物の心情を鮮やかに伝えるさまに、何度も目を開かされた。
京本が藤野をどんだけ尊敬しているか。
藤野は何に生きる甲斐を感じて、どれほど傷ついているか。
ふたりの間に交わされた感情のかけがえのなさ。
ああ!
漫画は間と余白の味わい、優れたアニメーションは全方位的に解像度を上げてくる。そして映画は調和の芸術。
物語に力があるからこそ、どちらの表現も素晴らしく、堪能した。
藤野と京本の没頭する後ろ姿に何度も涙が出た。
取り憑かれて一心不乱に描き続けることが幸福で、同じものに取り憑かれ、感覚を共有できる友が隣にいることが幸福で。
もちろん結果を必死に目指すし、評価は新たな活力になる。ずっと認められなければ当然つらい。
でも、一番はつくっている時間。
つくっていくプロセスそのものに満たされている。
すぐれた創作は、常に時代の主流の価値観を揺るがすアンチテーゼであり、解毒剤になっている。
この作品は、人の生きている甲斐、人の幸福とはなんだろうということに、観る者を立ち返らせてくれる。
何かを勝ち取ること、得ること、評価されること、愛されること、色々うまくいってること、笑顔、朗らかな笑い声。
そういう幸福のイメージみたいなものを私たちは漠然と持っていて、そのイメージにできるだけ近づこうとする。
それも間違ってるわけじゃないんだろうけど、少なくとも本質ではないから、どこまでいってもズレのようなものはきっと埋まらない。
「分かりやすい幸福のイメージ」は、結果に付随するご褒美のようなものだから。
幸せのさなかにある時、人はむしろ無表情だったりする。
ちょっと口を尖らせて息を詰めるようにして一心に絵を描き続ける少女たちのように。
髪もボサボサで、寝不足で目の下にクマを作って、お風呂も食事も後回しで、いい作品を協力して作ることしか頭にない。
他の楽しそうなこと全部、和気あいあいや恋や友情の一切に背を向けて。
華やかさも美しさも笑顔も特にない、この地味極まりない状態こそが、藤野と京本にとってしびれるほどに幸せな状態である。
達成したり、得たり、報われることはあくまで結果であって、幸せはプロセスの中にある。
幸せとは、自分のやりたいことに全集中している状態のことであり、時間がすっぽり消えるほどの忘我のことなのだと思う。
それをすることで、もう今この瞬間に叶えられている。
過去も未来もない。
たとえ誰かの理不尽な暴力によって死んでしまったとしても、もちろん悲しいしつらいし寂しくてたまらないが、彼らの過ごした時間の幸せは一つも目減りすることはない、損なわれない。
だから、つくることのできる人間は、ただただ没頭してつくることによってのみ、人生の辛さを乗り越えていく。
京本を失った藤野はひたすらに描き続ける。
やがて日が暮れて夜になっても、顔を上げることさえせず、描き続け描き続ける背中を見せて、物語は終わっていく。
孤独な藤野の人生の全てを肯定するような清らかな響きのエンディングテーマにじーんと痺れて、なかなか席を立てなかった。
この素敵な作品を作ってくれてありがとうという気持ち。