みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

支配と被支配

朝食の時に認知症の義父の話になった。

今のお父さんは、掃除、洗濯、入浴はもちろん、歯磨きもお湯を沸かすことも、電子レンジでチンすることも、もう難しい。

生活にまつわる動作がほぼできない状態で、周囲に店がほとんどない山上の一軒家で一人暮らしを続けていると言うとよく驚かれる。

でも今は日本全国至る所に、お父さんのようなお年寄りは実はたくさんいると思う。

 


夫氏はかなり周到にケア体制を整えている。

介護職の方々にも感心されるほど。

使える社会福祉を全て活用し、自己負担のケアも加えつつ、毎日誰かしらの目や手が入る体制にし、食べ物が決まった時間にきちんと届かないとパニックになるお父さんのために、12時と17時には必ず食事が目の前にあるように整えている。

そしてお父さんに了解を取った上で(とはいえ忘れてしまっていると思う)リビングにカメラを設置して、自宅の様子を遠隔で見られるようにしている。

 


それでも日々いろんなことが起こりまくり、対応を迫られる。

用意周到な人が大抵そうであるように、夫氏は突発的なことに圧迫されることがとても苦手だ。

夫氏の携帯には、多い日は10回20回とお父さんから電話がかかり、ほぼ同じやりとりが繰り返される。

最近では、お父さんからの電話には夫氏はかぶせるように話すことが増えた(「私の食事は、」「大丈夫だから。待ってたら届くから。じゃあね」)。

彼は電話に出ないようにしたり、怒ったりはけしてしない。

だけど、先日ご飯を持って行った時も、お父さんは私たちに気を遣ってすっかり縮こまって力なく笑っていて、普段通りのたわいもない会話をしながらも、せつなかった。

 


よく言われることだが、認知症の人はあらゆる記憶を片端から忘れてしまうようになっても、感情は残る。

お父さんは、一見全部忘れてしまっているようでも、周囲の人々の小さな苛立ちや、呆れや、彼の主観をもう誰もまともに取り合わないことなどを、敏感に感じ取っていると思う。

お父さんの主観としては、毎日出し抜けに知らない人が現れて、自分をどこか(デイサービス )に連れて行ったり、突然家に入ってきて掃除を始めたり、裸にされて風呂に入れられたりしている。

目の前の人が誰かも分からず、すごく混乱したまま、なだめすかされながら従う。

毎晩冷えたお弁当を冷たいまま一人で食べる。

怖いし、みじめだし、何よりとにかく不安だろうと思う。

本人の望みである一人暮らしではあるが、これを「気ままな一人暮らし」とはだいぶ形容しづらい状況にある。

 


家から車で数分の場所にあるグループホームを、ケアマネジャーからはすでに紹介されている。

訪問医療の医師からも、一人暮らしはもう無理があるでしょうと強めに言われてもいる。

「そろそろ自宅とグループホームの二拠点体制にした方がお父さんの不安も軽減されていいのかもね」と私が言うと、夫氏はため息をついた。

高額な入居費用、煩雑な契約、二拠点といっても入居費用をまかなえず実家を処分しなければならなくなるかも、あのモノに溢れた実家を。

そしてお父さんをどう説得するのか。

考えるべきことややるべきことは山のようにある。

状況が刻々と変わっていく中で、「今」お父さんがより安心してなるべく機嫌良くいられるベストの選択をしていくのは、至難の業だと思う。

 


「『彼のためにはそうした方がいい』って、他人はそれぞれ自分の経験則に基づいて良かれと思って好きなことを言う」

夫氏の声に苛立ちが滲んでいる。

「押し付けるつもりはなくて。

 お父さん自身がどうしたいかを知ることがまずは大事と思う。

 忙しいと思うけど一度皆で集まって、」

私の言葉にかぶせるように夫氏は言う。

「集まったからってそんな簡単に解決するようなことじゃない。

 第一本人の意思っていっても、どうしたいか聞いても、もう自分でも分からないんだ。

 これまでの長い付き合いで知っている彼の像から、ある程度推測してやってみるしかない。

 そうして目の前に差し出されたものが『これじゃない』ということだけは分かるんだ」

 


目の前のひとりの認知症の年老いた男性を前に、当事者研究とか対話みたいな言葉たちはみるみる色褪せていく。

そんなものは認知症の老人には全く通用しない。

認知症でなくても本当は、口に出した言葉がその人の真意とは限らない。

思いは瞬間瞬間で移ろう。

それを人間の真実だと心得るなら、「本人を尊重する」なんて、一体どうやってできることだろう、と途方に暮れてしまう。

 


認知症の人のケアにおいては、どうしたってどこかで、主となってケアする者が決定権を委ねられ、結果的に本人に何かを押し付けざるを得ないことが起こる。

決断の責任は、決断した人(ケアする者)が引き受けなくてはならない。

全部いいよいいよと相手の言うままに従うこともできない。

誰もに自分の人生や自己都合や、自分の体力気力の限界というものが存在する以上。

ケアすることによって、ケアする人は避けがたくに支配者のポジションに置かれ、ある側面において加害者化される。

 


考えてみるとそれは、お父さんのことだけではない。

今家にいる4歳の幼児の育児においても同じ。

PTSDの状態にあった頃の娘氏のケアだって同じだった。

 


人間の支配と被支配の関係性を描いたヨルゴス・ランティモスの奇天烈な映画と、自分の小さな身の回りのことがすっと重なっていく。

私は、ここ数年の夫氏が抱える深い怒りと苦しみの一端に、ようやく少し触れたような思いになる。

 


彼は、基本的にみんな自分のやりたいように自由にやって幸せでいてよ、自分もそうしたいし、と思っている。

彼は誰も自分の思う通りに支配したくなんかない、ほんとうに。

彼がそういう人だということは、長年の付き合いでよく分かる。

でも、家族それぞれが自立できない属性を抱えている。

認知症の年老いた父親。

学校に行っておらず精神的に不安定な娘。

多動の4歳児。

経済的に自立できない妻や息子。

 


自分の考えを言語化したり、やるべきことの道筋をつけられない者に対して、できるだけ相手の望み通りにと思って、あれこれ思い悩み、自分の譲歩できるギリギリまで譲ってできる限りのことをしてみたところで、完全な満足を与えることなんてできない。

もちろん感謝もされるが、こんなことしてほしいわけじゃない、こんなもの別にいらない、そんなことしたくなかったって、にべもなく却下されることもある。

余計なお世話だとか横暴だとか非難されることすらある。

 


社会の要請によって夫氏は、自分が全く望んでいない「本人の代わりに何かを決め、結果的に何かを強要し、加害しうる者」として規定される。

その丸ごと全てが、きっと彼には心から理不尽なのだろうと思う。

 


もうひとつ思うことは、誰かを支配し、その手中に置くということは、特定の心の動きを誘発するということだ。

つまり、人を暴力的にするということだ。

ランティモスの映画が描いていた重要なことは、支配する人とされる人は、共依存関係にあるということである。

ランティモスは、支配者を加害者、被支配者を被害者として描かない。

むしろ、支配されたがる人が支配してくれる人を求めた結果として、そのようになっているようにさえ見える。

 


ケアされる者(被支配者)の持つ特定の性質や振る舞いが、決定権を持ってケアする者(支配者)の支配性や暴力性を助長する。

被支配者の性質とは、例えば、不安な人であることや怯える人であること。

被支配者の振る舞いとは、例えば、自分では何も選択しないことや決めないこと。

もちろん、それらを責めたいのではなく、病気や属性や状況が選びようなくその人にそうさせている。

 


大抵の人は、機嫌良く生きていたい。

自分の裡にある暴力性など感じたくはない。

でも、子供や老人の世話をする中で、多くの人が自分の裡にある暴力性を否応なく突きつけられる。

完璧にやろうとすればするほど、こうありたいと思う自分との落差は大きくなり、理想とかけ離れた惨めで横暴な自分を突きつけられる。

 


私も誰かをケアをする中で、自分の暴力性にぞっとすることはたびたびある。

でも、私はおそらく夫氏ほどにはしんどくも悲観的でもない。

どうしてだろうと考える中で、自分の欠点が、自分を救ってくれていることに気付かされる。

ふまじめで身勝手。空気読めない。一気にのめり込み、すぐ飽きて冷める。都合の悪いことはすぐ忘れる。すぐに諦めてさじを投げる(放置する)。我慢がきかない。

どうせ私はだめだめでこんなもんだわ、と自分を低く見積もっている(自己肯定感低め)。

欠点が、自分を守る盾になっている。

 


逆に言うと、夫氏がよく気がつくこと、気が利く(相手の欲しているものが分かる)こと、いろんなことをしっかり覚えていること、計画性があって丁寧に最後までやりぬくこと、我慢強いこと。

そうした長所と言える性質は、今の彼を追い詰めていることにつながっているように思える。

長所と短所が表裏ってよく言われるけど、こういうことなのかも、と実感する。

 


でも、個人の性質もあれど、夫氏と私とのなによりの違いは、やはり男女の違いだと思う。

社会的な決定権を有する属性の多くは、男性優先である。

「社会的にきちんとする」ことへの要請は、父親、夫、長男という属性に、より重く厳しくのしかかる。

成人男性は、好むと好まざるに関わらず、支配的な役割をまっとうすることを常に社会に期待される。

逆に成人女性は、好むと好まざるに関わらず、男性のサポートメンバーとしての役割をまっとうすることを常に社会に期待される。

それが家父長制。

男か女かによって、その人の望ましい生き方を勝手に社会が決める制度。

 


そこでは、支配的な役割を負いたくない男性や、サポートメンバーでいたくない女性の意志は強く抑圧される。

役割とその人の資質や希望がたまたま合致しておれば問題は少ないが、合致しない人はハードライフになる。

その点においては、女性も男性もひとしく家父長制に生き方を幅寄せされて苦しめられているといえる。

どちらの方がよりこうむっているとか、安易に比べられるようなものではない。

 


だが、今の世の中では、女性が不当な扱いを受け、男性は下駄をはかされて有利な立場にあぐらをかいているという表現で語られることが多い。

確かにそういう男性もいるのだろうが、誰かに指図したり、身の回りのことを全部誰かに世話させたり、人を支配したりするのが、男性皆がしたいことってわけでもないだろ、と普通に思う。

 


ていうか、生き方のバリエーションが基本たった2パターンという雑さも、男と女どっちかという単純すぎるジェンダー観も、あまりにお粗末すぎて、もはやのれない人の方が多いという現状になっている。

学校という制度にのれない不登校の子供がどこまでも増えていっているように。

ただ、家父長制も学校も、すでに賞味期限切れなのに、じゃあ新たな社会像が提示できているのかといったら見当たらない。

だから結局、この不完全すぎるシステムの影響下から逃れられず、生きづらいまま生きている人が増え続けるということが起こっているように思う。

 


今、家父長制によって、なりたくもない支配者にさせられる男性たちは、社会の要請に応えて責任を果たすことからは自由になれないまま、常に加害者と名指しされぬよう怯え、常に注意深く配慮的で、なんなら女性の立場になって自虐し、いつも謙虚に頑張ることを求められる。

「もはや男を生きるということイコール加害だ」という感覚を、大げさな被害者意識だと笑うことは私にはできない。

むしろ、それが今の社会を生きる男性の偽らざる実感じゃないのだろうかと思えてくる。

 


少なくとも夫氏は、複数の支配的役割を同時進行で果たし続けることに、もうほとほと疲れてしまった、生きるのが嫌になるほどに、そんな様子に私の目からは見える。

夫氏は、私と娘氏が見ていた「虎に翼」を、結局最後まで一度も見ようとはしなかった。

 


妻や子供に暴力を振るうDV男性の言い分は被害者意識で満ち満ちている。

彼らは、自分は妻や子に自分はこんなにも迷惑をかけられ、苦しめられている、と言う。

その心理は、夫氏とどこか通じている。

DVする男に正当性があるなんてことを言いたくはない。

けれど、彼らの多くはそもそも家父長を背負って生きる器では、おそらくないのではないか。

でも社会の要請を真に受けて、そのことに無自覚なまま、キャパオーバーでパンクして溺れているような状態で、自分でも訳の分からない怒りや悲しみに全身を蝕まれているのかもしれない。

そんなことを想像する。

 

 

 

お父さんと夫氏の関係性は、あまりに短期間に大きく変わってしまった。

お父さんは会社を経営してきてお金に不自由なく、多趣味で社交的で友達も多く、自分が一番正しいと信じているような人だった。

私たちはずいぶん頼もしく思ってきた。

それが、少なくとも表面的にはなんの葛藤もなく、全部お任せします、頼みます、って一気になって。

認知症ってすさまじいものだなと思って受け入れつつ、やっぱりまだ慣れなくて、びっくりし続けている自分もいる。

周囲の誰もがお父さんを「じいじ」と呼ぶようになったが、私はどうしても「じいじ」と言えない。

 


けして息子をほめなかった手厳しい父親の生殺与奪権を突然握ることになった夫氏の戸惑いや寄る辺なさは、どれほどのものだろう。

いつか来るものだと頭では分かっていても、実際のところはそうなってみないと分からないことだらけだ。

 

 

 

ヨルゴス・ランティモスのあのへんてこな映画のおかげで、私は夫氏の生きづらさ、ひいては家父長制についてここ何日かつらつら考えることになった。

支配する者とされる者が互いに影響を与え合っているという構図がより腑に落ちたことで、ようやく少し前に進める感覚がある。

だからって、彼の言動全てを笑って許せるわけではないし、娘氏を苦しめる言葉は、思い出すだけで怒りで震えがきてしまうのだけど。

 


夫氏が置かれた状況を私が解決してあげることはできない。

彼自身で気付いて、引き受けすぎているものを手放したり、計画通りに行かずままならぬことや変化にうんざりするのではなく、少しは面白がったり、今彼の目に見えている世界を再構築する必要もあるのかもしれない。

 


そして、今の自分にできるせめてものことは、彼に何かを決めさせることや責任を負わせるようなことを一つでも減らしていくということになるのだろう。

自分の仕事をしっかりとやり、自分の好きなことを勝手に楽しそうにやっている、「大丈夫で機嫌の良い人」であること。

私は私で、彼を心配したり、その辛さをおもんばかったりすることに、もーほとほと飽きた。

いちいち罪悪感を感じさせられることにもうんざりだ。

勝手に生命力が上がるようなことを楽しくやっていこうと思う。

 


ノーと言うことは彼を少しも不機嫌にしないということが、最近ようやく分かった。

彼は、どうしたいかストレートに言ってくれれば悩まないで済む、という考え。

でも最近まで私は、自分がどうしたいと相手にはっきり言うことはわがままだと思い込んでいた。

こんだけ長く一緒にいてこれだから、これからも幾つものことをすれ違いや勘違いのままで付き合っていくんだろうと思う。