都知事選が終わった。
私が応援する候補っていつも落選するので、この感じも正直なところ慣れている。はぁ。
ただ、同じタイミングでイギリスで政権交代が起こり、フランスでも市民の草の根運動の結果、極右政権の誕生を阻止したということがあっただけに、もしかしたら東京でも奇跡が起こるかもってちょっと期待してしまった。
ポリタスTVで津田大介さんが言っていたとおり、私たちにはまだまだ絶望が足りないのかもしれない。
ちょっと落ち込んで、またよいしょと立ち上がり、負け続け、負け慣れ、それでもやり続ける。
おかしいと思ったことをおかしいと言い続ける。
しぶとく明るくこつこつとデモクラシーを積み上げていく。それを続けるしかないんだろう。
今回は、希望と危機感が入り混じった気持ちにさせられる選挙だった。
希望は、まず投票率が60%を超えたこと。
そして蓮舫氏のような対話的な姿勢を持つ人が候補のひとりだったこと。
ちょうど本書を読んでいる最中だったので、候補者たちを対話的観点から観察していたが、蓮舫さんの対話に対する姿勢はなかなか見事だったと思う。
対して、小池氏、石丸氏はどちらもかなり非対話的だった。田母神さんは天然だった・・・。
蓮舫氏は、マイナンバーや原発やコロナワクチンにも賛成の立場で、全部を支持できるわけではない。
それでも、対話が可能だと感じさせてくれ、社会的弱者やマイノリティーの権利を尊重する考えを持つ政治家が選択肢として存在したことは、救いだった。
アメリカみたいにトランプかバイデンか、みたいなことだったらきっとつらすぎた〜。
それにしても、「聞かれたことに答えることができる」ことが高評価になるってどうなんだろ。政治家のレベルどんだけ低いのか。
一番の希望を感じたのは、市民の意識の変化の兆し。
若い世代を中心に、ひとり街宣が3000人以上、都内の駅72箇所以上で広がったことは象徴的だった。
背景に、世界中で連帯が広がっているガザ侵攻への抗議デモがあると感じる。
この国では市民の権利についての教育がほぼなく、私のように、政治や人権に無知なまま大人になる人が大半だ。
メディアは政権批判をしないし、日常でも政治の話はタブーとされてほとんど会話にのぼらない。
そんな社会にあって、市民が思いを持って街に出るというひとつの行動様式、こういう政治参加の仕方があると認知されたことは今回のひとり街宣につながっている気がする。
数は少なくとも、0と1の違いは大きい。
基本は黙って粛々と現状に順応しようとする、普段声を発することのない市井の人々が、当事者意識を持って意思表示をしたということは、すごく大きな変化だ。すぐに結果は出なくとも。
2019年のイギリス総選挙で、市民は新自由主義政策であらゆるものを民営化し、貧富の差を拡大させた保守党に怒り、労働党を熱く応援したが、労働党は惨敗した。
けれどその5年後のまさに今、労働党は勝利することになったのだから。
選挙に行かないことがダサく見える空気感が生まれつつあるのもとてもいいなと思いながら眺めていた。
一方、危機感について。
ひとつは先日も書いた通り、メディアだ。
今、石丸氏のインタビューが炎上している。
開票特番でのインタビュー動画が大きく拡散されて、いろんな人がいろんなことを言っている。
確かに、痛ましいほど会話のキャッチボールができていないさまに驚く。
けれど、このことは、投票前に知られないといけなかったことのはずだ。
選挙前にメディアは何も報じず、一方でTikTokで勇しく何かを言い切る石丸氏の15秒の動画は大量投下され続けた。
選挙が終わったこのタイミングで彼の人となりに触れて人々は驚き、口をきわめてこき下ろしている。
繰り返すが、選挙はもう終わっている。
メディアは、人々に判断に資する情報をまともに届けなかったのだし、私たちは最低レベルの情報を知ることすら叶わないまま、投票を迎えた。
そして、それは極めて組織的に、意図的に行われた。
報道の自由ランキング70位というのはそういうことなんだと私たちは痛感する必要がある。
今回、デモクラシーに対して最大の妨害をしたのは、メディアだ。
そして、どこまでも自浄作用のきかない自民党利権政治の盤石さには、ほとほとげんなりしているが、多くの人が指摘しているように、やはり石丸氏(的なもの)が一定の支持を得ているという背景を怖く思っている。
近年の他の選挙でも、反自民票が維新あるいは維新的なものに投じられるという現象が起こり続けていた。
そのことにまともに向き合わないままでここまで来た結果があらわれたと感じる。
自戒を込めて書くけれど、上から目線のインテレクチュアルなリベラル層が、右派を蔑み頭のおかしい人のように扱うということの深刻な弊害があると思う。
そうした態度に右派が深い恨みを抱き、それはヘイトや誹謗中傷として社会に跳ね返ってきている。
その構図に人々が自覚的になり、もっと謙虚に意見が異なる相手に耳を傾け、なんとか会話をしていかなければ、もうどうしようもないところにきているのだと思う。
私がこの本を読んだ動機のひとつもそこにある。
言うは易しで、とても難しいことだけれど。
本書が繰り返し述べている会話の鉄則がある。
それは、誰かと良い会話をするためには、正論で相手を追い込んだり、事実で矛盾を突いたり、否定することをやってはいけないということ。
相手を防御的にさせてしまった時点で、その会話は終わる。
そして、もっとも細心の注意を払うべきことは、決して相手をはずかしめないこと。
相手が恥ずかしさを感じずに済むような対応をいつも心がけること。
そのためには、相手への想像力と親切心。われこそが正しいという傲慢な思い込みを自分が持ってしまうことに自覚的であること。
本書はさまざまな会話の工夫を提示しているけれども、つまるところ「北風と太陽」の北風にならない方法を教えてくれている、とも言える。
この本においては、論破って完全な失敗の会話である。
北風をごうごうと吹き散らかして、相手が守りに入って心を閉ざし、あるいは呆れたり諦めたり絶句することを、「勝った」「説得した」と勝手に変換しているだけのこと。
その場で反論しないことと、人が納得して考えを変えることは、全く別のことだ。
人に恥をかかせるということは、その人との関係において、極めて長期的で深刻なリスクを生む。
その当たり前のことを、本書で改めてロジカルに解説されると、そら恐ろしくなるほどで、それほど人を侮蔑し、嘲笑することの代償は高い。
多くの場合、どれだけ時間がかかっても、何らかの方法で復讐をされることになる。
時には、その人の人生を台無しにすることもいとわないくらいの勢いで、全存在をかけて復讐されることもある。
不可避的に恨みをかうこともあるのが人生だが、他者からそんな風に思われることは、誰にとっても到底わりに合わないことだと思う。
こんな当たり前のことをあえてくどくどしく書いたのは、今回、小池氏や石丸氏を見ていて、人を侮蔑し嘲笑することをこの人たちはとても軽く考えているんだなと思ったからだった。
そういう人たちが、今のこの国の社会で権力を持つ立場にあることを残念に思う。
橋下徹やひろゆきや石丸氏のような語り振る舞いをする人は、私の周囲にはいないけれど、メディアでは普通に見慣れているし、子供が真似しているのも見るし、若い世代が彼らをそれなりに支持していることにもたびたび接する。
彼らは、旧態依然としたまどろっこしいものや、既得権益(に見えるもの)に激しくノーを突きつけて、それらを後先考えずぶっ壊し、奪うことで、人々の溜飲を下げてきた。
彼らはかなりパワハラ的DV的で、私は見ていて怖いし苦しいけれど、喝采する人々は、少なくとも自分が言われてる側とは感じないのかもしれない。
言っている人と自分を同化して、どこか復讐心を満たしているのかもしれない。
それは、典型的なポピュリズムの心の動きだ。
それで世界で一番成功したのがヒトラーという人だ。
今こそ、維新的なものが支持される構造について、私たちはもっと知ろうとしなくちゃいけないと思うし、そういうものに心を寄せる人の思いを聞いてみたい。
本書は、そんなことを考える端緒を与えてくれた一冊になった。