帰省中、祖父母の家で退屈した娘氏が、2階の押し入れから昔の家族アルバムを引っ張り出して、随分没頭して連日眺めていた。
祖父母の子供時代の写真は、今からもう60年以上前のものになるわけだけど、そのセピア色の写真たちの中の人たちは、ほとんど歴史上の人物みたいな佇まいをしている。
そこに映っていた中心人物が、すっかり老人になって目の前にいる。
時間は確かに地続きなんだと感じたと、感心して言っていた。
彼女は写真をやる人なので、かつて写真というものがもっと高価で貴重で、デジタルのような安易なやり直しはきかない中、一枚一枚大事に緊張して撮られていたことが写真にあらわれていることにも感銘を受けていた。
すっごくいい写真が多いし、これ一体誰が撮ったの、と思うような独特な写真も多かったと。
今は、誰でもそれなりの写真が撮れるようカメラが進化しているし、ほんのひと手間でフィルターなどの加工で簡単に格好がつく上、大体こういう風に撮ればいい感じになる、人物写真ならこう撮るし、風景や食べ物の写真ならこう撮るし、みたいなことが染み付いている。
そんな風にして手くせで撮られた「いい感じ風」の写真に私たちはすっかり慣れきっていて、SNSなどで日々大量に投入される写真に何かに飽き飽きしてしるような感覚もあって。
現代の前提が全く共有されていないなかで撮られた、一枚一枚に気合いのこもった写真は、デジタルネイティブの彼女にとってはきっと斬新だったろう。
また、写真を撮るとなったら、おちゃらけてみたり、良く見えるポーズをとってみたり、少なくとも笑顔を作ったりってことを、私たちは自然にやってると思うのだけど、この時代の人々においてはそういうマナーも前提されてないわけで。
みんなヤンキー映画の人たちみたいに、だらりとハスに構えて剣呑な表情でカメラを見据えているのが面白くってしょうがないと、娘氏は大笑いしていた。
でも、人としての本物感が滲み出ていて、なんともしれない迫力もあるのだと。
私の高校時代の卒業アルバムも興味深かったそうで。
「今って橋本環奈とかAKBみたいな見た目をした若い女の子が本当に多く、なんでみんなこんなに似通っているんだろう、友達同士で撮った写真がみんな似すぎていて気持ちが悪いと思っていた。
おかーさんの卒アル見たら、人って一人ひとりこんなにも違うんだってびっくりした。
あーいかにもモテそうだなって思うようなアイドル的な見た目の子は学年でせいぜい数人で。
これが本来人間として当たり前で、あんなにみんなが似た顔立ち、似た雰囲気なのはやっぱりおかしいことなんだって分かった」と言っていた。
今は動画でヘアメイクのテクニックなんて簡単に学べるし、ひと昔前は脱毛なんて結構高価なものだったけど、今ではかなりお手軽だし、「プチ」整形とか言うし、外見をいじるハードルがすごく下がっているということもあるだろう。
韓国のポップカルチャーの影響もあって、女性だけじゃなく男性もどんどん似てきている感ある。
「そこは正直ざまみろって思う意地悪な気持ちもあって。毛が生えていてはいけないとか、これくらい細く、白くなければならないとか、髪はこうで服はこうでなければイケてないみたいな、そういう圧を女性ばかりが圧倒的に強く受け続けてきて、絶えずジャッジされてきたんだから。
でもね、希望も持ってるんだよ。これからは男も女と同じようにルッキズムの沼にどんどんはまっていく。全員が苦しくなって、どうにもならなくなって、そしたらもうええわ!ってどこかの時点でばーんとちゃぶ台返しみたいにならないかなって。
片側だけが苦しくても、片側には苦がなければ、なかなか変わっていかないものだから」
スマホを手にして以来、私たちは大量の写真を撮るようになった。
撮りっぱなしで放置された大量の写真は、最終的にはどうなっていくんだろう。
こうやって振り返れるようにどこかのタイミングで形にしておかねば、何かあった時に全部データが消えてしまった!なんてことになりかねない。
と、思いはするけど、なにしろ写真は日々どんどん増えるし、結局手をつけられないままこの先もずっとそのまま溜め込んでいくような気もしてしまう。