凪のような場所にやっと出て、ひと息ついているところ。
定期的に不可避的なstruggleの状態がやってくる。
いつの間にか、すっぽりと落ち込むように、気がついたらそこにいて、何もかもが裏目に出るっていう心境に支配されている。
それでも日常をつつがなくやっていかねばならないので、人知れずもがいてもがいて、苦しみながら色々考えたり、何か/誰かに助けを求めてみたり、知ろう学ぼうとしてみたり、対話してみたりする。
もう半ば諦めて、開き直ったくらいの気分になったところで、ようやく小さな光明が見える。ほんの少し何かが解消されたような、浄化されたような心持ちがあって、そこを起点にだんだんと上向いていく。
そして、山の中腹みたいな開けた明るい場所に登り着く。
別段、何かが解決された訳ではなく、大して分かった訳でもない。ただ漠然と、しみじみとした感謝と幸せと安定を感じる。
あたりを見回すと、空気は清々しいし、景色は美しいし、人は優しい。
この歳まで生きてくると、自分の人生は、つくづくこういうサイクルの繰り返しだね、と思う。
どうしてずっと平らかで生きておれないのだろう。
自分の精神にとって良いことも悪いことも、意図的にコントロールすることができない。
もちろん、現実世界での特定の出来事はある。出会いや別れや始まりや死や。
でも、あらゆる物事から何のエッセンスを受け取るかは、その時々の自分のありようにかかっているので、結局何も自分でコントロールできてる気がしない。
ぐるぐる堂々巡りをしながらぶざまに生きている。
これを繰り返すしかないのが人生かと思うと、考えるだに面倒くさく、くたびれる。
でも、修行を重ねた高僧とかになって、ずっと凪みたいな人生を手に入れられたとしても、それはそれで退屈そうだな〜とも思うのだ。
以前誰かが人間の歴史は、俯瞰で見ればぐるぐると同じところを回り続けているようだけど、横から見ると、じりじりとほんの少しずつ上向いているのだ、と言っていた。
人生もそうなのかも。にぶい螺旋のようなものなのかも。
基本は三つ子の魂百までで、おんなじことを繰り返しているのだけど、毎回struggleの海の中で手足をばたばたさせてるうちにささやかな何かをつかんで、自分の人生に生かしていく。
周期的に気がついたらダメになってしまうのは、自分が未熟なゆえだと長年思ってきたけれど、絶え間ないバランス運動の一環なのだと受け止めると、少しは気持ちが楽になる。
同時にそれは、struggleは一生ついてまわるということを意味している。あーあ。
人生に対しては、何にせよ図太く。そして茶化してごまかすことはせず、でも何もかもにおかしみや面白みを見出していくという姿勢が良いような気がする。
「どーんといる」と形容するのがぴったりみたいな女になりたいものだなあと思う今日この頃。