ヨハン・ハリ著/作品社/2021年
「麻薬と人間」読了。
スマホを手にして以来、読書体力がすっかり落ちてしまった自分にはもうこんな分厚い本は読み通せないかも、と思いつつ手に取ったが、あまりにすごい内容で、昼間は前日に読んだ部分をつらつら考え、早く次を読み進めたくて夜が待ち遠しいくらいの日々だった。
縦横無尽で深い関係者への取材、膨大かつ横断的な資料文献の総括が、フラットで謙虚な眼差しに貫かれて人間の真実が浮かび上がっている。
人間の業の切なさに満ちた、ドラマチックな人間の物語の集積でもあり、読みながら何度も涙した。
この世の仕組みそのものに言及している。その普遍性に、何度も唸らされた。
この本によって認識を新たにしたことはたくさんあるが、大切と思う箇所を備忘録としてあげておく。
(あらゆる薬物を厳罰化する世界的潮流を作った米連邦麻薬局初代局長の)ハリー・アンスリンガーの主張はあまりに頑迷で常に妙だった。
しかしなぜ、このような人物が大勢を納得させることができたのか?
その答えは、ハリーが一般市民や国会議員から受け取った手紙の山の中にあった。
誰もが説得されたかったのだ。
入り組んだ不安に対して簡単な答えを示して欲しかったのだ。
こうした人々を見下すことができれば、優越感に浸ることができる。
人種、不平等、地政学といったような、複雑な根深い問題はひとつまみの粉と錠剤に集約される、この粉と錠剤を世界から一掃できれば複雑な問題は消えてなくなる、とそう言って欲しかったのだ。
恐怖を象徴的なシンボルに置き換えて、そのシンボルを破壊すれば恐怖も破壊されるはずだと期待することは、人間の自然な気持ちだ。
人類史以来、繰り返されてきたことだ。
十字軍や魔女狩りから現在に至るまで、ずっと。
複雑で簡単に解決できない問題に向き合い続けることは耐え難いので、悪者はこれで、これさえなくなれば全部解決する、というメッセージに安易に飛びつく。
それが本当かどうかは関係がない。耳に心地よければいい。
そして、そのメッセージに従いさえすれば、「問題は終わる」のだ。
「そういうこと」にしてそこにある現実の問題を「なかったことにする」ことが、人間世界にはどれだけあることだろう。
人間の子供たちは、幼い時にぐるぐる回ってみたり、朦朧とするほど息を止めてみたりする。
意識を変えてみたいと言う好奇心ーー全く新しい、それまで経験したことのないような恍惚感を味わってみたいと言う気持ちーーが気分が悪くなるのは嫌だという気持ちにまさるからだ。
人間がそのような連続する興奮を求めなかった社会はこれまでに存在していない。
紀元前2000年のアンデスの高地では幻覚を誘発するハーブを吸うためのパイプが作られていた。
西暦700年の中国ではアヘンが生産されていた。
「薬物は、古来から場所を問わずに広く使われていた」とアンドリュー・ウェール医師は言う。「これが人間の基本的欲求ということだ」
意識を変えたいという欲求は、人間の第4の欲求だとシーゲル教授は指摘する。
食べたい、眠りたい、セックスをしたい、そして意識を変えたい。
全ての人はこれらの欲求から生物学的に免れることはできない。
これらの欲が、人間に開放感と安堵感をもたらすからである。
2000年もの間、世界中で期間限定の祭りや儀式の場で、リラックスや開放感やエクスタシーを味わうために薬物は用いられ続けた。
大規模なドラッグパーティーが、官僚や寺院によって節度をもって使われ続けてきた。
薬物摂取への願望を抑圧することは、性欲を否定してきた歴史にも似ている。
依存症は、生きている人間ほぼ全員の生活に一定の役割を果たしてきた。この歴史的事実を否定しようとすることは、無駄な努力であるのみならず、私たちのごく本質的な部分を切り捨てることでもある。
意識を変えたいという基本的欲求を、初めに否定したのは初期キリスト教だったと本書にはある。「神を感じることがキリスト教以外のことで起こってはならない」と。
どんなジャンルのことであれ、「そこに存在する」ものを無理矢理「存在していない」と捻じ曲げることは、基本的に間違っているというひとつのセオリーがあると思う。
人間都合で人間本来のネイチャーを強引に歪めて否定し、それと倫理観を結びつけて語ることが、私はとても苦手。それをする人ほど正義感に燃えていて、対話が成立しにくい場合が多いことも含めて、本当に苦手。
でも、そうは言っても、自分を省みてもあるものをあると認めることは、ほんとうに難しいことだとも思う。
観念して認め、こだわりを手放せずにぐずぐずしている自分を眺めて、はー残念だねと思い、そうして初めて心の片隅にふっと小さな風穴が開く感じを、繰り返し経験し、そのプロセスにだんだん慣れることが、自分にとって年をとることの一つの意味だったようにも思うくらいだ。
20世紀を通して、私たちは豊かになった。
だが他者とのつながりは弱くなった。
親しい友人の数が平均的にだんだん減っている。
私たちはだんだん孤独になっている。
その結果、だんだん依存症になっていく。
現代社会には数え切れないほどの利点がある。
だが、強いストレスをもたらす独特の原因もある。
「細分化され、寸断され、全てが自分一人の肩にのしかかるーーそんなことはこれまでの人類の発展にはなかった。どの社会の発展過程においてもなかった。」(ブルース・アレクサンダー)
落とし穴はもうひとつある。
孤独と同時に、私たちは毎日一日中ひっきりなしに大掛かりな広告によってーー夢と希望を全く別の方向に向けるようにささやかれている。
モノを買って消費しよう。
経済全体があらゆる見せかけだけのニーズや欲望を訴えて、一層強化しようとすることで成り立っている。
商品を売りつけようとしているわけだから。
結果として、モノを持つことで満足し、満たされたと思いたがる社会になっている。
我々は互いに切り離され、代わりに物欲で満足するように仕向けられている。
だが所詮、モノが提供してくれるのはこの上なく薄っぺらい満足感でしかない。
薬物戦争が始まったのはそういう社会だった。
そのような過程が見られるようになった20世紀はじめーー薬物戦争が登場したのはその直後だ。
私たちが依存症からの立ち直りを考えるとき、問題は依存者個人にあり、本人か仲間とともに解決すべきと捉えている。
依存者を「道徳的欠陥のある人」と捉えている。
そうではない。問題は文化にある。焦点を合わせ直す必要がある。
「社会の回復」を考え始めるべきなのだ。
そうすると、対策について向き合うべき問いは変わってくる。
脅し、強制することでどう怖がらせればいいかということではない。
どうすれば孤独を感じたり、恐怖を抱いたりせずに済む社会にできるのか。
より人との健全な関係性を持てるのか。
どうすればモノを消費することではなく、だれかといることに幸せを感じられる社会を作れるのか。
そういう問いになるはずだ。
薬物を使うのは、その人が抱えている苦痛による症状でしかない。
生きるつらさや苦痛を紛らわすために、薬物を使ってやり過ごしたいと思うのであって、薬物成分そのものに耽溺しているということではない。
だから短期間なら薬物をストップすることは可能でも、心に抱えている根本的な問題、トラウマを解消しなければ、いずれ元に戻る。
自分のことを分析する、気づきを増やし、自分のことを理解することが必要だ。
そして自分がどういう態度を取っているのかに気がつく必要がある。
例えば、依存者(傷ついてトラウマを抱えている人)は、感情を表に出したり、嘘を交えずに自分の話をすることができない。
安心して感情を表現したり、本当のことを言える環境になかったから。
依存者は感情を外に出すことが恐怖なので、怒りや悲しみの表情をするのをとても嫌がる。
あまりに辛い経験をした人は、感情を持たないという方法以外知らないということがよくある。
彼らはそんな自分自身がコントロールできなくなることを避けるために薬物を摂るのだ。
今の便利な世の中では、人間は一人でも生きていける、と思われている。
私も一人でも大丈夫と思いたい。
他者とは基本的に面倒臭く、ままならぬものであるから。
人間関係には素敵な側面もあるが、傷つく側面も多々あるので、一人でいることでそれを回避したいと思うのは、自然な感情だとも思う。
しかし群れで生きる人間という生物にとって、他者とのつながりがない状態は、やはりとてもリスクの高いことなのだと思う。
孤独でありながら心身を健康に保つことは非常に困難だ。
薬物をとる動機じたいは、楽しみなどの軽いものも含まれるが、依存症になる人は、「正気を保てないくらいに人生がつらい状態にある」人がほとんど。
薬物の化学成分そのものが、人を狂わせると私たちは信じ込んでいるのだけれど、薬物依存症になる人の割合は、アルコールと同じ10%程度で、残りの90%は身を持ち崩してなどいない。
ただし、社会が薬物を犯罪化した場合、アンダーグラウンドで違法に取引される薬物のほとんどはより儲けるために危険な物質を混ぜ込んだり、意図的に中毒性を高めている。
こうした悪質で品質の悪い薬物をとると体が一気にぼろぼろになってしまう。
薬物を犯罪化する以前の1900年代初頭までの、医師が処方したヘロイン、モルヒネや薬局で買えたアヘンは、サプリメントに近いものだった。
「国家による薬物の犯罪化」が薬物を危険なものにしてしまった。
だとしたら、必要なことは、薬物依存者を摘発逮捕して、辱めを受けさせ、罰することだろうか?
生きるのがつらすぎるほど人生が困難な人々が依存症になっているのだから、彼らのつらさに耳を傾け、支援することが必要なことで、罰したり閉じ込めたりして解決することはなにひとつないと思う。