みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「センチメンタル・バリュー」

 

2025年ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ合作/原題:Affeksjonsverdi/監督:ヨアキム・トリアー/133分/2026年2月20日〜日本公開

久々にこれほど見応えのある重厚な人間ドラマを見た、本当にすごい作品だった。

しびれるような充足感と切なさを残す後味があんまりすばらしすぎて、見終えた時、言葉がなかった。

昨日はずっとどこか上の空だった。

 

 

世代を超えて引き継がれていく人の業や歪み。

それでも、加害と被害という関係性を超えて、人と人とがその人がどうしてその人であるのかについての納得性を見出すことができる、それは希望に似ている。

でも同時に、けして癒されることのない絶望を認めることでもある。

 

人として歳とともに成熟できる人と、何かが欠けたままの人とは何が違うんだろう。

きっと欠けた人とは、世界を信じられないから、たのみになるものが自分だけで、自分という人格だけで世界に対峙している。

だから、視野が狭いし、防御的であり攻撃的である。

欠けた人は、今見えている表層における正義だけを手がかりに言動する。

「今」と「自分」しかないからこそ、激昂したり、絶交したり、恍惚したりできるのだ。

成熟している人とは、その人の中に歴史が入っている。

自分が、「自分そのもの」だけではなくって、今の自分を形作っているものがいっぱい合わさってその人になっている。

自分そのものの他に、その人を支えてくれる心強い「サポーター」がその人の中に存在する。

成熟している人は、自分の中にあるチームを総動員して、ものごとに対峙する。

一見煮え切らないように見えたり、事なかれ主義に見えるかもしれないけれど、そうではない。

多様な視点と文脈を持っているということだ。

 

欠けた人は、生々しく血が流れる傷を抱えて苦しんでいて、成熟している人は、一定の調和の中にある。

欠けた人は、未熟なのではなくて、その苦しみが癒されない限り、あるパターンから抜け出すことができない。

成熟している人は、本人の努力というよりは、より恵まれた条件を持っていた人と言えるかもしれない。

欠けた人を救うために有効な手立ての一つは、家族と社会の歴史に向き合うこと。

人は、過去に自分が受けた被害を認め、そのことに対して正当に怒り、嘆き悲しむプロセスがを経てはじめて、自らの加害性や暴力性に思い至ることができる。

 

才能があるとか、社会的に重要な存在だからという理由で、何かを免責されたり、他者を粗雑に扱ってもいいというのは思い違いだ。

才能は良くも悪くも副産物であり、才能に人生を捧げる必要なんか本来はない。

それは本当は倒錯的なことだ。

でも、お金や名声が多くの人に勘違いをさせてしまう。

実際のところ、誰しもそのようにしか生きられなくてそう生きている。

人には上も下もない。

 

いろいろな複雑な文脈だったり、取り返しのつかない時間だったり、生まれながらの不公平な所与の条件だったりが渾然一体となった人間の世界に私たちは生きていて、いろんな素敵なことや残酷なこと、楽しいことや悲しいことにまみれている。

コントロールできないことも多い中で、私たちに確実にできる役に立つこととは、多分、他者に優しくするということ。

それが人間を生きるということの値打ちなのかもしれない。

だから、生きているといろんなことがあるけれども、人は、歯を食いしばってでも、できるだけ他者に優しくあらねばならないんだと思う。

 

 

とりとめのない言葉の断片のほんの一部分を、湧き上がるまま、まとまらないままに置いておく。

言葉にならないものをただ抱えていたい。

作家の誠実さと作品の美しさにただ感謝したい。

「ブゴニア」

 

2025年・アイルランド・イギリス・カナダ・韓国・アメリカ合作/原題:Bugonia/監督:ヨルゴス・ランティモス/118分・2026年2月13日〜日本公開

ヨルゴス・ランティモスの新作は、「陰謀論」を信じ込んだある男が、「地球を救うため」に、狂気的な行動にはしる物語。

ど直球に「今っぽい」モチーフ、ベタと言ってもいいくらい。

 

しかし本作は、20年以上前に公開された「地球を守れ!」という韓国のカルト映画のリメイクである。

そちらは未見だが、ストーリー展開はほぼこの作品と同じとのこと。

SFが予見した世界の側に、実際の未来の方がまるで寄せていってるみたいに思えることってしばしば起こる。

ひとりの人間がなにかを想像するということの大きさと、一度具体的にイメージされたものの実現化に集合意識が向かうことの、面白さとそら怖ろしさを感じる。

 

ドラマチックでどこかドリーミーな美しさと、えぐるように支配と被支配の関係性を見せる作風はランティモスでしかないが、本作はアリ・アスター的ユーモアも際立っていた。

怖さやグロテスクさの中に、思わず吹き出してしまうようなすっとぼけた滑稽味が随所にあって、声を出さずに笑うのに苦労した。

あまりに不謹慎な笑いすぎるのだ、まったく人が悪い。

 

ラストの地球上全ての人間「だけ」が絶命した世界の描写が延々と続くさまが圧巻だった。

静謐で完璧に美しい絵画を見ているような、どこかうっとりするような感覚に胸が高鳴った。

マネキン人形のように転がる人間たちをよそに、動物たちや虫たちは何事もなかったかのように、彼らの生の営みをひたむきに続ける。

聞こえるのは小鳥のさえずりと、雨音だけ。

こうして人類が死に絶えたことで、地球は救われ、世界は秩序と調和を取り戻したのであった。

ふむ。

 

 

今は「ポスト・トゥルースの時代(The post-truth era)」だと言われる。

ポスト・トゥルースとは、直訳すると「脱事実」になるわけだけれど、人々が各々の信念や感情を優先するあまり、客観的事実やデータを軽視したり無視したりしてはばからない社会状況のことを指す。

多くの人々が、受け入れがたい気まずい事実よりも、自分を正しい側に、変わらなくてもいい側に置かせてくれる流言や根拠のない噂話のようなものの方をすすんで信じようとする。

だから「陰謀論」が横行する。

どこかに悪意を持った存在がいて、特定の意図を持って犯罪を計画している。

その脅威から身を守らねばならぬ、そのための排除や攻撃は正当なことだし、むしろ正義の行いなのだ。

対立を煽り、自己利益を増長させようとする、あるいは憎しみを見当はずれなものに向かわせようとする者は、耳元でささやくようにして陰謀論を吹き込む。

そのようにして、根拠のうすい、あるいは全くの出まかせのストーリーで、人の心の暗い炎に薪をくべる。

情報環境はどこまでもエコーチェンバー化し、誰もが自ら信じ込んでいるものを繰り返しなぞるようにして強化し続けている。

気づけば人と人との間には、修復不可能なほどの隔たりが存在している。

対話不可能な時代。分断の時代。

 

陰謀論は人の感情を煽りたて、人の心を洗脳的に支配するためのものなので、えてしてショックバリューの大きいものになる。

だから冷静な頭で判断して、論理飛躍していたり荒唐無稽な話は、陰謀論である可能性が高いというのが、デマを見分けるためのひとつの判断基準であった。

でも今、そんな基準など、まったく通用しない。

 

最近だけでも、エプスタイン文書とか統一教会と自民党の癒着とか、客観的事実があまりに狂ってて、現実が陰謀論みたいすぎて、その事実を受け取ろうとすると自分がまるで陰謀論者みたいに思えてくる。

しんどすぎるし、もう耳を塞ぎたい。

 

「ブゴニア」は、そんなくらくらするような、倒錯的な現実感覚を追体験するような作品だった。

なんでもない日常の描写に、常に大仰な世紀末的な音楽があてられているのは、狂気の中を生きているテディ(ジェシー・プレモンス)の精神のありようそのものだ。

「自分の働く会社のCEOミシェル(エマ・ストーン)はアンドロメダ星人で、地球を侵略しようとしている」とテディは固く信じている。

そんな荒唐無稽なことを考える自分はやっぱり狂っているのかもしれない、でもいろいろな事実を総合して考えてみると、どうしてもそうだとしか思えない。

「宇宙人なんて、そんな馬鹿げた話があるわけがないじゃないの。あなたは病気なんだと思う。かわいそうに」

ミシェルに理詰めでそう言われたテディは激昂し、暴れて暴力を振るう。

テディは惨めなくらい完全に混乱している。

この世界には拠って立てる確かなものが何もない、あまりに訳が分からない。

確かなのは、健気に蜜を運ぶミツバチだけだ。

 

ところが、結局のところミシェルは実際にアンドロメダ星人だったのだ。

実に「今」っぽい。

 

何に拠って立てばいいのかを、このところわたしも見失いかけている。

毎日地味な家事をこなして、子供を抱いて、夜には平和な絵本の世界を読み聞かせる。笑顔で働き、誰かとたわいない話をする。

日常の中に、素敵な出来事や、優しい気持ちを交わし合う瞬間はいくつもある。

でも同時に、正気の沙汰とは思えないようなニュースが毎日流れてきて、それに対する権力者たちの開いた口が塞がらないような言い草に、言葉にならない怒りと無力感があって、苦しい。

どうにか立て直していかなくちゃ、と思いながら、結局お酒ばっかり飲んでいる。

 

「グッドワン」

 

2024年アメリカ/原題:Good One/監督:インディア・ドナルドソン/89分/2026年1月16日〜日本公開

17歳のサムが、父親とその男友達と3人で、森で3日間キャンプをする。

あらすじにすると「ただそれだけ」な映画って、良い映画である確率が高い。

本作もしかり。

 

余白が心地良く、心理描写は繊細でリアルで、言葉少なく、無駄なシーンがひとつもない。考え抜かれて削ぎ落とされた末の89分という短さもいい。

ひととき日常からずれて、ふっと息がしやすいような感覚、森の匂いを嗅ぎ、音を聴き、自然の中にいる心細さや怖さを身近に感じる。

良い意味でアメリカ映画らしくない、「間」を味わう作品だった。

 

かつて17歳の女性であった自分のことをありありと思い出していたし、同時に、今、子供に接している時の親の自分の、大人の粗雑さや身勝手さを苦しく感じながら見た。

 

17歳って難しいとしか言いようがない年頃だ。

サムは、ほぼ大人の身体を持っているが、その変化にまだ馴染みきってはおらず、女性の身体を持て余している。また、サムはクィアでもある。

キャンプ中に、父とその男友達の目から逃れて、森の中でこっそりタンポンを交換するシーンが何度か出てくる。

何食わぬ顔で、また合流する。

女性の体に関することは、基本的に男性の目に触れることはない。

生理は、女性にとっては当たり前のことだけど、男性にとってはまったく想像もつかないことだという隔たりが端的に描かれていて、はっとさせられる。

 

サムの心は、まだ子供らしさが残る。

屈託なくいられる子供時代を失っていくことへのさびしさと不安がないまぜにあり、大人からは当然庇護されるものだという甘えと信頼を持っている、それゆえに従順でもある。

自分の気持ちを言語化して人に適切に伝えることはまだうまくできず、押し出しの強い父親に何かを堂々と主張できるような強さも自信もない。

いい子(good one)でいたい。

彼女の中には、大人たちが否応なく背負っている責任や、難しい状況の中で粘り強く妥協点を見出すようなしぶとさやしたたかさも、まだない。

どれほど賢くスマートに見えたとしても、17歳は過渡期であり、圧倒的に経験値が少なく、社会的に不完全な、脆弱な存在だ。

でもだからといって、その人が浅はかで愚かということにはならない。

身体的・社会的に立派な大人であっても、他者への想像力や配慮に欠けた未熟な人はいくらでもいるのだから。

 

サムの父親は、サムの意向を尋ねるということを一切しない。

そんなことまるで思いつきもしないかのように、サムの意見は自然にスルーされる。

そこには悪意はないのかもしれないが、当たり前の敬意が欠けているということに、親はなかなか気付けない。

親子の関係が赤ん坊から始まっているということもあると思う。

生まれたての赤ん坊は、自力で生きることは全くできない存在だから、基本的に全部親が察して、与えて、整えてあげる。

子供はずっと一緒にいて、だんだんとそばで育っていく。

関係性における強者の側にある親が、意識的に都度都度アップデートをしなければ、幼い頃のままの関係性をずっと引きずるということが起こる。

近代の暮らしでは、少数部族社会のような通過儀礼などは存在しない(あるいは形骸化されている)から。

 

未成年は、時と場合に応じてしっかり子供として扱うべき存在であり、同時にあらゆる他者と同様に、人として敬意を払うべき存在である。

でも、大人が未熟だと子供との間に適切な線引きができない。

サムの父親のように、子供をどこか自分の所有物、付属物のように思い違いしてしまう親もいるし、逆に私のように子供の未熟さや不安定さに大人としてしっかり対峙できない、友達親子みたいになってしまう親もいる。

 

 

この作品は、人の中に深く内面化されたジェンダーに対する役割分担意識の持つ暴力性を丁寧に描き出している作品でもある。

17歳であっても親子であっても友達の娘であってもクィアであっても、女性として期待されることがある。

無言のうちに求められるサービスがある。

男たちは、それを自分たちが当然受け取る権利があるという前提に立っている。

(逆に、男性も、女たちから男性ゆえに期待され、当然のように求められることがある。どちらも苦しいことだ。)

 

ある種の人は、その人の性的指向における対象を、しばしば客体化してしまう。

つまり、意思を持った個人としてではなく、自分の欲望や行為を受け取る操作可能な対象として扱ってしまう。

それは例えば、ふとした無防備な瞬間に、父親の友人マットが、まるで気の利いたジョークのように、サムの女性性を自分のために使おうとする言葉の中に、ごくさりげない形であらわれる。

 

そういう暴力性に、私たちは、日常の中で出し抜けに出合う。

「Black box dairies」で、証言で私を助けてください、と頼んだ伊藤さんに刑事は、「じゃあ私と結婚してくれますか」と言った。

曖昧で、でもねっとりとしたセクシャルなニュアンスが含まれた何か。

言われた側にとってはひとつも笑えない、でも笑うことを強制されるような、『ジョーク』という形でオブラートに包まれた何か。

 

さっきまで人と人として会話していたはずなのに、いつの間にかずらされている。

信頼していた存在や、きっぱりと拒絶できないような立場の者から突然「そういうもの」を向けられることが、どれほど受け取る側にとって怖く、気持ちが悪く、人としての尊厳を削られるようなことか、言う側はマットのように全然分かっていないことも多い。

強制しているわけではなく、なんといっても「ちょっとした冗談」なのだから、それくらいのことと、とても軽く考えている。

 

通常、そういう暴力性に、私たちは慣らされていく。

「そうした冗談」には「ハ、ハ、ハ」と乾いた笑いを返し、それ以上ことを大きくしないように、言った者に恥をかかせないように注意深く受け流す術を覚える。

けれど、17歳のサムにとってそれは、これまで生きてきた子供の世界に大きなひびが入るような、とてもショックなことだった。

そう、それは本当はそれくらいのことなんかじゃない。けしてない。

機嫌良く酔っ払っているマットの肩越しに、長く映し出されるサムの愕然とした悲しみの表情が忘れがたい。

 

翌朝、その出来事を勇気を出して父親に訴えた時、父親は「楽しい時間」に水を差すようなことを言うな、とそれを「なかったこと」として扱おうとした。

サムは「おおかみと七匹のこやぎ」みたいに、父親のリュックのポケットに石ころを詰め込んでから、黙っていなくなる。

ようやく再会したサムに「なんで突然いなくなったのか」「とても心配したんだぞ」と父親は叱りつける。

サムがなんでいなくなったのか、やっぱり彼らには分からないのだ。

サムは雄弁な表情を浮かべて、でもただ黙っている。

 

くたくたにくたびれた父親は、サムに「帰り道の車の運転をしたいか?」と尋ねる。

これまでのサムは、父親の意図を察して、すすんで「自分が望んでそうしたいのだ」という返答をするような「いい子(good one)」だった。

でも、サムは「いや、しない」と端的に返す。

作品の最後の最後に、父親はようやく丁重にサムにお願いする。「申し訳ないが、車を運転してはくれないか」と。

 

私にとってすごく重要なことが詰まっている作品だった。

これからも何かの折に既視感をもってぶわっとイメージが蘇る、そんな作品になると思う。

 

2026/2/21加筆修正

「クィア・アイ ファイナル・シーズン」

 

2018年〜2026年アメリカ/原題:Queer Eye: More than a Makeover/原案:デイヴィッド・コリンズ/10シーズン・各エピソード約50分/2026年1月21日〜シーズン10配信

マンネリを感じて、いつの間にか見るのをやめてしまっていた「クィア・アイ」がシーズン10をもって終了と知って、久々に見た。

最後ということもあって、ファブ5のメンバーもすごく思いを持って臨んでいるように見えたし、いくつかのエピソードは困難なケースで、それを丁寧に解きほぐしていく過程は見応えがあった。

やっぱりこの番組は、人間のいとおしい、素敵な瞬間をいくつも垣間見せてくれる番組だな。

 

ファイナルシーズンの舞台が、首都ワシントンD .C.であることは象徴的だ。

合衆国が排外主義の独裁者の暴政下にある今だからこそ、ファブ5たちが変わらぬ彼ららしさで愛を広げていることに、とても勇気をもらえた。

 

こうして改めて振り返ると、彼らがサポートする人たちは、一貫している。

クライアントたちの背景は人によってさまざま違い、それぞれに異なる事情、属性、何かしらの不遇や困難の中にある。

そういう状況の中で、時間や精神的な余裕や、自分を肯定する気持ちを持てなくて、自分を後回しにしたり、ないがしろにしたりしている。

人生の手綱を何者かに明け渡し、自分を無価値と感じながら、ルーティーンに埋没したり、虚になったりして、自責と無力感に浸っている。

 

ファブ5は、そんな人たちに自分を再発見し、自信を取り戻し、自分を愛せるようになるための手助けをする。

言葉にしてしまうとあまりにも陳腐なのだけど。

それを具体的なてこ入れが、ファブ5たちの持つ5つの要素だ。

言い換えると、この5つの要素をその人なりに満たすことは、人が自分を受け入れ、人生を立て直す大きなきっかけになると言うこともできるだろう。

 

気分が上がるような髪型とお化粧、自分を丁寧に扱い、いたわるためのスキンケア。(ジョナサン)

自分の外見や体型の特徴を客観視して受け入れ、自分の長所を生かす似合う衣服を身にまとう。いろんなシーンに対応できる衣類のバリエーションを持つ。(タン)

食べることへの意味と価値を感じ、食べるものをこしらえる心の余裕を持つ。(アントニ)

美しく清潔で、自分のライフスタイルに合わせた快適な住居に住む。(ボビー/ジェレマイア)

誰かに自分の心の中にあることをじっくりと聞いてもらい、今、自分自身にある問題の存在を認め、他者に助けを求めながら、自分を変える気力や勇気を持つ。(カラモ)

 

突然カラフルなイケメンのクィアたちがにぎやかにやってきて、弱っていたり、傷ついて殻に閉じこもっているような人に対して、寄ってたかって短期間でこんな大改造をするというのは、なかなかのショック療法ではある。

でも、それが許せてしまうのは、彼らが誰のことも作品のための素材や道具にはしないからだし、誰のことも上から目線でジャッジしないからだ。

人に上下を作らないフラットさと、その人の尊厳を尊重する節度ある態度が守られている。

それは、一見お気楽に見えるファブ5のそれぞれが、深いトラウマと脆弱さを抱えた存在であることと切っても切り離せないものだ。

底抜けに明るい人の絶望は深いんだな、と彼らを見ていると感じる。

クライアントとの関わりの中で、時折漏れ出る彼らの癒されない苦しみや弱さが、世界への恐怖が、彼らが助けたい人びとの傷つきに呼応する時、優しさが生まれる。

親しさとかあらゆる外的条件とは関係なく、ただの人同士が痛みと悲しみを共有するひとときは、すぐに消え去る儚い瞬間かもしれないけれど、人の心を長く温める火種となると思う。

 

目に見えているものはほんの表層でしかないことを、違うことはこわくないということを、ファブ5はたくさん見せてくれた。

8年間ありがとう、これからのそれぞれの活躍を楽しみに。

若い3つのサンプル

昨日は、選挙結果に落ち込む気分を振り払うようにして、いつもよりたくさん喋り、たくさん笑ってよく働いた。

雪をかぶった畑は、いつもとは様変わりしていて、空気は澄んで、息を吸い込むとせいせいとした。

昨日は仕事があってありがたかった。

 

同僚と雑談する中で、そういえば選挙行きましたか?と聞くと、

いつも優しいキャンプ好きのTさん(20代男性)は、「これまで選挙に一回も行ったことなかったんすけど、今回なんか盛り上がってるし、行っといた方がいいのかなと思って行きました」と言っていた。

介護職と農園のダブルワークをしながら海外移住の準備をしているNさん(20代女性)は、今の高齢者介護を取り巻く環境はおかしいと思う、利用者さんはみんな口を揃えて「早く死にたい」と言うんです、とさびしそうに言っていた。

でも、それと今の政治への批判は彼女の中で繋がっておらず、変な言い方だけど、まるで動かしがたい天の采配みたいな、誰か人間が意志を持ってやっていることではないみたいな話しぶりで、特に怒りとかも感じていないようだった。

 

たった2つのサンプルだけど、考えさせられた。

この国に権利教育や人権教育がほとんどないということ。

報道が事実を伝えないことを長年重ねてきたこと。

不況以外の日本を知らない若い世代の人たちにとっては、これが社会のスタンダードであること。

他にも、歴史を学ばないことや、SNSの存在や、経済状況によって促される選択肢や思考の幅寄せや、世界情勢など。

それらいろんな複雑な要素の起結として、社会を構成する一人ひとりの人たちがいる。

 

ひとつの結果が今目の前に示されているということを思う。

今回、与党に投票した人の中には、「自分が何に信任を与えたのか」をよく分かっていない人が、相当数いるのではないかと思う。

社会で起こっていることをほとんど知らないあるいは興味がないし、知ろうとすることに時間を割くことがなんらかの理由でできない人が、身近にもごろごろいる。

 

昨日、パリの息子氏と電話した。

3年前に彼を送り出した時、130円台だったユーロは、今185円になった。

これからも円安が改善する見込みは薄い。

たった3年で、いろんなことが大きく変わった。

予想に近かったことも、全く想像できなかったこともある。

いずれにしても、高等教育に高いお金がかからないヨーロッパであっても、我が家の経済ではもう、日本からはさすがに支えきれない。

自由に生きたらいいけど送金は今年度で一旦打ち止めで、と昨年のうちに彼には話している。

「今後どうしていくか、まだはっきり決めていないけれど、昨日の日本の選挙結果、あれが日本の民意なのだとしたら、自分とはかなりずれが大きく、戻ってもきっと生きづらいだろうなと思う。できれば、これからも日本以外で生活していく方法を模索したいと思っている」と、息子氏は言っていた。

ま、私があなたでもそう言うだろうよと普通に思う。

もとより、ヨーロッパで楽器一本抱えて生きていくことは、簡単であるはずがない。

でも、今フランスにいて彼は生きやすそうだし、彼が日本以外に足場を持っておくことは、私たち家族にとって(特に娘氏と末っ子にとって)、この先結構重要なリスクヘッジになるのではないかと思っている。

 

これからも会えないのは、私は寂しいけど、でも応援する。

誰しも、自分の生きたいように生きる権利がある。

いろんな条件があって、簡単ではないけれど。

自分の望まぬ戦争とか兵隊なんて論外だし、こうやって書いていてもまさかと思いながら書いているけれど、ほんとうにそう思う。

 

そして、やっぱりこの社会の仕上がりにうなだれているし、一人の大人として若い人たちに謝りたいが、それでも、まず自分が朗らかに笑って、優しく親切にある、言うべきことを勇気をもって言うっていうのを、日々の態度としてあらわすことを地道にしていきたいと思う。

許さないし、忘れない

朝起きたら庭が真っ白、雪景色だった。

何年かぶりにまとまった雪が降ったのが、選挙の当日になるとは。

天気予報を見たら、沖縄以外日本列島全部に雪だるまのマークがついていた。

さっき、もこもこに着込んで、パウダースノーの雪が降る中を投票に行ってきた。

それなりに人は来ていたけれど、投票に来られない人もきっと大勢いると思う。

帰り道、車椅子を息子さんらしき人に押されて、雪に打たれながらゆっくりと投票所に向かうお年寄りがいた。

 

投票を済ませて出口を振り返り、写真を一枚撮った。

許さないし、忘れないという思いをこめて。

今回の選挙はあらゆる意味において、違憲

 

この厳しい季節に「私でいいかどうかを問う」というほんとうにばかげた、やる必要のない選挙を、850億円もの国費を浪費して、突然強行した。

その当の本人は、討論の場にも現れないまま、一方的に仲間の前で演説をするだけで、ほとんど誰の取材や質問にもまともに答えることをしないまま、当日になった。

彼女には、人々に説明すべきことが、とてもたくさんあったはずなのに。

 

選挙に勝ったら、「民意を得た」としてそれが何かは分からない「国論を二分すること」を、憲法改悪を、させて欲しいと言うが、こんなアンフェアな選挙が民意であるはずもない。

いろいろあまりに卑怯すぎると思う。

 

戦争も差別も嫌だ。当然だ。

そう言うと、そんなきれいごと、敵に額に銃を突きつけられたらどうするんだ、と言う人がいる。

そんな言い方をする人には、あなたは想像力がきわめて貧困なのだと伝えたい。

 

そもそも「戦争をしないために」政治ができることは、たくさん、たくさんあるはずだ。

国と国が戦争に至るには、外交の失敗など、偶然を含むいろいろな出来事の失敗が積み重なり、事態の複雑化と悪化が進行し、進行したその果てに、戦争に至る。

その大事な過程を全部すっ飛ばして、眼前に銃を突きつけられるという究極の瞬間だけを引き合いに出して、軍国化を納得させようだなんて、あまりに稚拙な言い草だ。

究極最悪の状態だけを突きつけて、よりよい理想を語ることは現実的じゃない、お花畑だって言う。

そんなものは、人間の知性も世界の複雑性も全部無視して、暴力的にただ単純化する幼稚なロジックでしかない。

そんな単純な世界観を信じこんでいる方がよっぽどお花畑だよ、と言いたい。

 

でもその幼稚なロジックを、政治家たちは、毎日生き生きと口にしていた。

「もしも他国から攻められたら」「外国に乗っ取られたら」と、意気揚々と話していた。

ほんとうにほんとうにくだらないと思う。

 

不安や怒りを煽り、人をなびかせようとする者たちがあまりに多い。

人としての節度というものが、かなぐり捨てられている。

騙す者の言葉を真に受けて、脊髄反射的な感情を惹起される人たちがいる。

その感情は、ほんとうに自分のものか、本質はどこにあるのか。

今は、それを見極めるのがとても難しい世の中だ。

こんなにも分かり合えない、こんなにもかけ離れている。

そのことにずっと傷つき続けていた。

 

私の願いは、他国と戦争にならないために何ができるかを語れるような人に、国民の代表になってほしい、ということだ。

対話のあとに

昨日、久しぶりの哲学対話。

対話会であったことはよそで話すことはできないから、会えて良かった、この時期にやれて良かった、とのみ置いておく。

 

対話会をすると、どんなにいい時間を過ごしても、ほぼ必ず、あとでわけもなくぐーっと沈み込んだり、いたたまれない気持ちになったりする。

いつもしんどいなあ、こりゃ向いてないんだろうなあ、と思ってきた。

でもそれは、悪いサインではないのかもしれない、と最近思うようになった。

 

ほとんどの人は、基本的に何か話したいことや聞いてもらいたいことがあって、幾つものハードルを乗り越えて対話会にやってくるし、もちろんそれでいい。

でも、私は自分が話したいことは特になく、いつも聞きたくてそこにいる。

といっても、自分だけが自己開示をしないのは不誠実だと思うから、一所懸命ひねり出して何かしら下手くそに話すが、まあ下手くそなので、気まずい空気すら流れる。

淀みなくユーモアを交えて話すみたいなことに憧れるが、永遠に無縁で、きっとずっとこうして独りこりこりと書いているのがお似合いさまだ。

 

哲学対話なんてようは場をしつらえるだけで、私がやっていることは、その場で発される一つひとつの言葉を大事に、心からおもしろく思って、一心に聞くということだけ。

自分を虚にして自分のジャッジメントを入れないで、相手の話をひたすら真摯に身体ごと受ける感じで聞く。

それは、自分の心のガードを外して、自分を不確かで無防備な状態に置くということだ。

どこかアメーバみたいに自分がぼやけている感じがある。

だから、誰かの言葉を受けてぐらぐら揺るがされるし、これまで抱きしめていた考えとは違うものが何かしらぐあーっと内部に入ってくる。

 

そういう不安定さや変化は、安定していたい身体にとっては危機だから、何かしらネガティブな反応が呼び起こるのも不思議ではないのかもしれない。

というかそもそも対話って、全然違う考えと体を持った他人同士が、わりと密着状態で顔を突き合わせて、自分とは違う意見を表明し合う時点で、異和や気まずさや何かしらのハレーションは伴うもので、快か不快かと言われたら本来不快寄りのもののはずだ。

 

自分が揺るがされる、自分が変えられるということを、私は好むけれど、同時にそれを不快に、不安に思う自分もいるのだと思う。

だとしたら、落ち込むのは「今日もよく聞けました」というサインだから、良いことと思っていいのかも。

だから、今朝もしっかりもやもやしているが、それでええんや、と自分に丸をつけてあげる。

 

何より私はやっぱり対話が好き。

どんな考えとかは関係ない、人の「ほんとうの言葉」を聞きたい。

もちろんほんとうの言葉は、別に対話の場に限らず、アートや、生活の中での人との関わりの中にもある。

それはどうどうと流れる川の流れの底にある砂金みたいに、時折きらっと光っては、私の胸を熱くする。

でも、なにしろ川の流れは強くて早いし、その時々にやらなければいけないことが私たちにはたくさんあるから、砂金の輝きを一瞬感じて、それきり見過ごしてしまうことも多い。

 

対話という場をしつらえるのは、静かで小さな泉の周りに集うことに似ている。

まんなかにある小さな泉にぽとん、ぽとんと言葉を落とす。

それをみんなでしばしじっと眺めるようにして味わう。

言ってみれば、ただそれだけのことなんだけれど。

でも、それを一期一会で出会った人たちとやれるって、すごくないですか。

私は素敵なことだと思う。

 

ほんとうの言葉を話す人は皆いとおしいし、本当にかわいらしい。

自分もいとおしく、かわいらしいものと感じる。

そういうことを感じられるひとときを持つことで、少し世界を信じられる。

 

だから、毎回いたたまれなくなっても、自分をみっともなく感じても、対話を続けていきたいな、と今回思えた。

感謝。