みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

許さないし、忘れない

朝起きたら庭が真っ白、雪景色だった。

何年かぶりにまとまった雪が降ったのが、選挙の当日になるとは。

天気予報を見たら、沖縄以外日本列島全部に雪だるまのマークがついていた。

さっき、もこもこに着込んで、パウダースノーの雪が降る中を投票に行ってきた。

それなりに人は来ていたけれど、投票に来られない人もきっと大勢いると思う。

帰り道、車椅子を息子さんらしき人に押されて、雪に打たれながらゆっくりと投票所に向かうお年寄りがいた。

 

投票を済ませて出口を振り返り、写真を一枚撮った。

許さないし、忘れないという思いをこめて。

今回の選挙はあらゆる意味において、違憲

 

この厳しい季節に「私でいいかどうかを問う」というほんとうにばかげた、やる必要のない選挙を、850億円もの国費を浪費して、突然強行した。

その当の本人は、討論の場にも現れないまま、一方的に仲間の前で演説をするだけで、ほとんど誰の取材や質問にもまともに答えることをしないまま、当日になった。

彼女には、人々に説明すべきことが、とてもたくさんあったはずなのに。

 

選挙に勝ったら、「民意を得た」としてそれが何かは分からない「国論を二分すること」を、憲法改悪を、させて欲しいと言うが、こんなアンフェアな選挙が民意であるはずもない。

いろいろあまりに卑怯すぎると思う。

 

戦争も差別も嫌だ。当然だ。

そう言うと、そんなきれいごと、敵に額に銃を突きつけられたらどうするんだ、と言う人がいる。

そんな言い方をする人には、あなたは想像力がきわめて貧困なのだと伝えたい。

 

そもそも「戦争をしないために」政治ができることは、たくさん、たくさんあるはずだ。

国と国が戦争に至るには、外交の失敗など、偶然を含むいろいろな出来事の失敗が積み重なり、事態の複雑化と悪化が進行し、進行したその果てに、戦争に至る。

その大事な過程を全部すっ飛ばして、眼前に銃を突きつけられるという究極の瞬間だけを引き合いに出して、軍国化を納得させようだなんて、あまりに稚拙な言い草だ。

究極最悪の状態だけを突きつけて、よりよい理想を語ることは現実的じゃない、お花畑だって言う。

そんなものは、人間の知性も世界の複雑性も全部無視して、暴力的にただ単純化する幼稚なロジックでしかない。

そんな単純な世界観を信じこんでいる方がよっぽどお花畑だよ、と言いたい。

 

でもその幼稚なロジックを、政治家たちは、毎日生き生きと口にしていた。

「もしも他国から攻められたら」「外国に乗っ取られたら」と、意気揚々と話していた。

ほんとうにほんとうにくだらないと思う。

 

不安や怒りを煽り、人をなびかせようとする者たちがあまりに多い。

人としての節度というものが、かなぐり捨てられている。

騙す者の言葉を真に受けて、脊髄反射的な感情を惹起される人たちがいる。

その感情は、ほんとうに自分のものか、本質はどこにあるのか。

今は、それを見極めるのがとても難しい世の中だ。

こんなにも分かり合えない、こんなにもかけ離れている。

そのことにずっと傷つき続けていた。

 

私の願いは、他国と戦争にならないために何ができるかを語れるような人に、国民の代表になってほしい、ということだ。

対話のあとに

昨日、久しぶりの哲学対話。

対話会であったことはよそで話すことはできないから、会えて良かった、この時期にやれて良かった、とのみ置いておく。

 

対話会をすると、どんなにいい時間を過ごしても、ほぼ必ず、あとでわけもなくぐーっと沈み込んだり、いたたまれない気持ちになったりする。

いつもしんどいなあ、こりゃ向いてないんだろうなあ、と思ってきた。

でもそれは、悪いサインではないのかもしれない、と最近思うようになった。

 

ほとんどの人は、基本的に何か話したいことや聞いてもらいたいことがあって、幾つものハードルを乗り越えて対話会にやってくるし、もちろんそれでいい。

でも、私は自分が話したいことは特になく、いつも聞きたくてそこにいる。

といっても、自分だけが自己開示をしないのは不誠実だと思うから、一所懸命ひねり出して何かしら下手くそに話すが、まあ下手くそなので、気まずい空気すら流れる。

淀みなくユーモアを交えて話すみたいなことに憧れるが、永遠に無縁で、きっとずっとこうして独りこりこりと書いているのがお似合いさまだ。

 

哲学対話なんてようは場をしつらえるだけで、私がやっていることは、その場で発される一つひとつの言葉を大事に、心からおもしろく思って、一心に聞くということだけ。

自分を虚にして自分のジャッジメントを入れないで、相手の話をひたすら真摯に身体ごと受ける感じで聞く。

それは、自分の心のガードを外して、自分を不確かで無防備な状態に置くということだ。

どこかアメーバみたいに自分がぼやけている感じがある。

だから、誰かの言葉を受けてぐらぐら揺るがされるし、これまで抱きしめていた考えとは違うものが何かしらぐあーっと内部に入ってくる。

 

そういう不安定さや変化は、安定していたい身体にとっては危機だから、何かしらネガティブな反応が呼び起こるのも不思議ではないのかもしれない。

というかそもそも対話って、全然違う考えと体を持った他人同士が、わりと密着状態で顔を突き合わせて、自分とは違う意見を表明し合う時点で、異和や気まずさや何かしらのハレーションは伴うもので、快か不快かと言われたら本来不快寄りのもののはずだ。

 

自分が揺るがされる、自分が変えられるということを、私は好むけれど、同時にそれを不快に、不安に思う自分もいるのだと思う。

だとしたら、落ち込むのは「今日もよく聞けました」というサインだから、良いことと思っていいのかも。

だから、今朝もしっかりもやもやしているが、それでええんや、と自分に丸をつけてあげる。

 

何より私はやっぱり対話が好き。

どんな考えとかは関係ない、人の「ほんとうの言葉」を聞きたい。

もちろんほんとうの言葉は、別に対話の場に限らず、アートや、生活の中での人との関わりの中にもある。

それはどうどうと流れる川の流れの底にある砂金みたいに、時折きらっと光っては、私の胸を熱くする。

でも、なにしろ川の流れは強くて早いし、その時々にやらなければいけないことが私たちにはたくさんあるから、砂金の輝きを一瞬感じて、それきり見過ごしてしまうことも多い。

 

対話という場をしつらえるのは、静かで小さな泉の周りに集うことに似ている。

まんなかにある小さな泉にぽとん、ぽとんと言葉を落とす。

それをみんなでしばしじっと眺めるようにして味わう。

言ってみれば、ただそれだけのことなんだけれど。

でも、それを一期一会で出会った人たちとやれるって、すごくないですか。

私は素敵なことだと思う。

 

ほんとうの言葉を話す人は皆いとおしいし、本当にかわいらしい。

自分もいとおしく、かわいらしいものと感じる。

そういうことを感じられるひとときを持つことで、少し世界を信じられる。

 

だから、毎回いたたまれなくなっても、自分をみっともなく感じても、対話を続けていきたいな、と今回思えた。

感謝。

「帰ってきたヒトラー」

 

2015年ドイツ/原題:Er ist wieder da/監督:デヴィッド・ベンド/116分

末っ子に続いて、夫氏も寝込んでしまった。私の予定は全キャンセル。

1/30から2/12まで、YouTubeで全編無料公開されているので、合間に見た。

軽いコメディタッチがベースの作品で、するっと見られる。

 

このところの政治報道は、日本もアメリカも、シュールの域に達していて、もう私はキャパオーバー。

個々の事象についてよりは、「人間とは」を考えるみたいな方向に振れている。

 

この作品については、ラストシーンのヒトラーの言葉に全てが集約されているから、それを置いておく。

1933年当時、大衆は私に扇動されたわけではない。

彼らは計画を明示した者を指導者に選んだ。

私を選んだのだ。

 

怪物?

私が?

なら怪物を選んだ者を責めるんだな。

選んだ者たちは、普通の人間だ。

優れた人物を選んで、国の命運を託したのさ。

 

なぜ人々が私に従うか、考えたことはあるか?

彼らの本質は、私と同じだ。

価値観も同じ。

 

私からは逃れられん。

私は、人々の一部なのだ。

 

そこには良いこともあった。

現代にタイムスリップしたヒトラーは、キャラの立ったTVタレントとして大衆の前にあらわれ、公共の電波を通して自信と確信をもって率直に語り、どんな論戦にも堂々と対峙し、市井の人びとの話には耳を傾け、にこやかに応え、彼らを励ました。

ヒトラーは時空を超えて尊大なままで、差別的な思想や暴力性を特に隠しもしなかったけれど、人々はそれを「コミカルなキャラクター」と捉えて、見たいものしか見なかったし、ヒトラーもとくに聞かれなければ黙っていた。

彼は、常に自分のままで正直に人々に語りかけていただけで、嘘をついて騙したわけではなかった。

ほとんどの人々は、「明確な答えをくれ、自分を肯定してくれる者」にどんどん魅了され、なびいていった。

 

アニメで出てくるような分かりやすい、醜悪な大悪人なんて、現実には存在しない。

危険な思想を持つ者がすごく好感が持てて、共感できる要素も一方であるのは、ごく普通のことだ。

ヒトラーは、「良いこと」もしたし、チャーミングな、可愛げのある人物だった。

でも同時に彼は、一つの民族を皆殺しにするべきだと確信して、それを実際にやった。

 

誰かが設定したゲームのルールに参加して、そこでの是非を考え悩んでいる時点で、罠にはまったようなものだ。

 

「自分自身の基準」をいかに持つか。

人としての尊厳を手放さないというコアを持ちながら、同時にいかに自分を疑い、学び、検証し続けるか。

民主主義とは、市民一人ひとりがそのめんどくさい作業を引き受けることと引き換えに得られるものだから、どんな理由であれ、その作業を大多数が放棄してしまった時、それは独裁者に命運を委ねることを引き受けることを意味する。

 

今、世界のいろんな国で、答え合わせのように起こっていること。

 

胃腸炎

土曜の夜、末っ子が突然、夕飯に食べたものをマーライオンみたいにだばーーっと勢いよく吐いた。

リビングの座布団も、子どものお気に入りのサメの大きなぬいぐるみも、床も、あらゆるものがゲロまみれになった。

それまでの穏やかな空間は一変して、大騒ぎ。

 

それでも我が家は大人が3人いるから、大変だけど心が折れることなく、チームプレーで現場復帰することができる。

娘氏はこういう時、本当に手際が良い。

人手があるのは本当にありがたいことだ。

 

それからは、吐くものがなくなるまで断続的に嘔吐は続き、吐くものがなくなっても泡を吐き、結局深夜救急に駆け込むことになった。

深夜の病院の少し気だるいような空気の待合室、絶え間なく聞こえてくる赤ん坊の泣き声を聞きながら、頬の赤い子どもを抱いてぼんやりと待つ時間。

夫氏は隣のベンチで気絶したみたいに寝落ちしている。

 

身体はだるいしうすら寒いし、しんどいんだけれど、どこか甘い気持ちでじっと座っていた。

こうして目の前のことだけが全てで、真夜中に互いの体を寄せ合ってじっとしているということの確かさ。

私たちが運命共同体であるということ、私たちは急に降りかかってきたものにおろおろし、その時々でできることをするしかない、小さき者であるということを感じていた。

 

流行性の胃腸炎という診断だった。

浣腸をして、お腹の中のものを全部出してから、しばらく様子見したのち、特に薬をもらうこともなく家に帰った。

生まれて初めての浣腸をされた末っ子は、ものすごく珍妙な顔をしていたが、3分間うんちをすることをなんとかがまんしていた。

 

落ち着いた対応で見通しをクリアに説明してくれたお医者さん、深夜の2時半だというのに、お花のような明るい笑顔で末っ子を励まし、配慮しながら接してくれた看護師さんに感謝の気持ち。

こうしたイレギュラーな医療の恩恵を受けると、社会のインフラがいろんな人によって支えられて機能していることを改めて実感して、安心するし、感謝の思いが湧いた。

 

やっぱり大事なのは、この国に暮らす人たちが安心して暮らしを営めることなんだと思う。

弱い人たちを支えるためにある社会のインフラは、地味で目立ちにくく、健康で大丈夫な時には見えにくいものだけれど、お金があってもなくても、いつでも、いざという時に助けてもらえる場所や制度があるということは、人が安心して生きていくために本当に大事なものだ。

 

高市氏が首相になってから、社会インフラへの分配を減らして個人負担を増やす方向が加速している。

なかでも、石破氏が凍結を決めた方針をくつがえして、高額療養費制度の月負担額が一気に38%も増えたニュースは、ショックだった。

高額療養費制度は、国民皆保険と並んで日本が誇る優れた制度だったと思う。

国民全体がどんどん貧しくなっている時だからこそ、死守しなければならない制度だったのに。

そのことが大して報道もされず、話題にならなかったこともとてもショックだった。

今後は大病や大けがをしたらお金のない人は詰みます、という社会に向かって大きく舵を切ってしまったという重たい事実も、高い支持率を見ると、よく知らないという人がたぶん多いのだろう。

人々の暮らしが二の次でしかない彼女が首相であることによって、安心を奪われたり、経済的により圧迫されていく可能性が高いことを思うと、気が重い。

選挙で、一人ひとりが考え、権利を行使して、与党に不信任が下されることを願っている。

 

 

末っ子は、断続的な浅い眠りを繰り返し、起きるたびに少しずつ水分を摂らせながら、昨日はずっとそばで過ごした。

今朝起きたら、目に力が戻っていて、熱も下がっていてほっとした。

明日は元気に登園できるといいなあ。

もらえたりもらえなかったりすることについて

療育での面談に続いて先週は、末っ子の通う保育園での支援ミーティングがあった。

半年前、末っ子の観察支援のために外部の療育の専門家が定期的に入ることを、保育園の先生たちはそれほど歓迎していなかったと思う。

けれど、半年ぶりに三者が顔を合わせた時、先生たちの感じが全然違っていた。

担任の先生たちは、めちゃくちゃメモを取っていて、保育の中で気づいたことをたくさんお話ししてくれた。

末っ子を見てくれている療育の先生は、末っ子の支援を通じて、親の私たちはもちろん、保育園の先生にもいろんな学びの機会を提供してくれているのだと感じた。

先生たちの子どもとの関わり方のちょっとした変化が、ただ末っ子にとってのみ良いことではなくて、先生自身にとって、ひいては保育園全体にとっても良いことにつながっていくことが感じられて、とても嬉しかった。

末っ子の持つ特性の幾つかは、多分一生続いていくものなんだと、療育の先生の話から実感する。

そもそも「治る」という言葉が適切ではないというか。

でもそれが「ある」ことを、親を筆頭とした周囲の人たちが共有していて、それにどう対処して行けばいいかのいくつかのアイデアがあれば、不安はだいぶ少ない。

そして、末っ子は日々すくすくと成長している。

ひとまずこれで、春からの体制が整った。ほっ。

 

感謝を感じながら帰宅したものの、私はどうにも居心地が悪く、夕飯の支度をしながらだいぶお酒を飲みすぎた。

こんなにたくさんの忙しい方々に、私たちのためにわざわざ集まってもらい、貴重な時間をもらって手厚く見てもらっているということが、どうしても気が引けて苦しくて。

だって本当は、子どもに関わる人たちが顔を合わせてその子について話し合うことは、希望する全員に対してなされるべきことなんだろうと思うからだ。

どんな子でも、一人ひとりの子どもはそれぞれの宇宙を持っていて、話が尽きないくらいものすごく面白い存在だ。

周囲の人たちがその子について考えるべきことは、どんな子であってもいっぱいあるはず。

子どもは素晴らしい自分の力を持っているけれど、周囲がケアしなくても大丈夫な子はいないし、自力で全部なんとかできるほど大丈夫で余裕があり、悩みのない親もそれほどはいないはず。

子どもによって効果的な関わりや工夫は千差万別で、まだ人としてまっさらな柔らかい状態だからこそ、ほんのちょっとした入力で機会が得られることもあれば、思い込んで長い間心の傷つきになってしまうようなことも起こりうる。

ある程度、そうした人生のあれこれは、巡り合わせと思っておおらかに受け止めるべきことだということは分かってはいるけれど、この半年、一定の個別対応を受けた結果の末っ子の変化や成長は明らかなので、喜ばしい反面、心苦しさがある。

 

その気持ちを、ご飯を食べつつ夫氏に話したら、

「たまたま今、そういう子どもへの支援がぼくらの住む自治体に存在していて、運良く制度につながって、その制度をいい感じで使えている。

うまくつながれない人もたくさんいるだろうし、制度が自分に合っていない人もいるだろう。

その制度はちょっとしたさじ加減で来年にはあっけなくなくなってしまうものかも知れない。

そうしたいろんなことが、実は自力ではほとんどどうしようもない。

 

この社会にはいろんな社会福祉があって、それぞれの面で恩恵を受けられたり、受けられなかったりして、でこぼこしている。

ある分野に関しては手厚い福祉を受けられても、別の分野では、何の助けももらえず自力でどうにかしてと言われる。

人によって税金の納め方だってでこぼこしている。

公平性を求めるのは、なかなか難しい。

だから基本、今自分にとって助けになるものが先方から提示されたら、それを粛々とありがたく受け取るということなんだと思うよ。」

というようなことを話してくれた。

ちょっとだけ気が楽になった。

 

こういう時、自分はこの夫さんで良かったなと思う。

意見が合う時、合わない時はもちろんあるけれど、こちらの投げた球を、どんなくだらない球でも、彼は言下にあしらったり、茶化したり、逸らしたりすることなく、基本面倒くさがらずに打ち返してくれる。

 

こういうやりとりを、いちいちまじめすぎてうっとおしいという人も多かろうと思う。

でも、私も末っ子と同じで、生きている中でぶつかるいろんな「なぜ」を自分なりに納得しないと、受け入れらないし、従えない、次に行けないめんどくさい人だから、私にはちょうどいい。

中立なんてない

今回、「Black Box Diaries」を巡ってさまざまな意見が飛び交う中で、いわゆる「リベラル」の論客やジャーナリストの少ない人たちが、伊藤さんに対して辛辣な意見表明をしているさまを、なんとも言えない気持ちで見ていた。

昨年、印象に残った本のひとつが古賀史健著「集団浅慮」だったのだけど、日本におけるいわゆる「リベラル」の言論空間は、右翼的な言論空間と表裏のような存在なのだな、と思った。

つまり、どちらもムラ的な「凝集性の高い集団」であり、どちらも集団浅慮に陥っている、ということ。

 

凝集性(集団凝集性)とは、集団や組織に対する忠誠心、団結力や結束力、一体感、仲の良さのことを指す。

凝集性の高いグループは、メンバーにとってのアイデンティティ、誇りであり、安心や自尊心の拠り所となる。

だからこそ、内輪の友好的な関係性を保ちたいと切実に願う。

それがエスカレートして、グループの同調圧力は高まり、集団内の暗黙のルールに従うことを求め、異論を許さず、異端者を排除し、「平和」を保とうとする心の動きが生まれる。

ごくシンプルに言うと、集団にとっての非同調者を、道徳的倫理的な意味における悪・愚か者と規定し、自らに都合の良い情報を拾い集めて、ストレスのかかる対立や議論を避け、自らの正義のみを信じ込もうとしている心理状態を「集団浅慮」と言う。

 

元々は、右翼であれ左翼であれ、それが正しかろうがヘイトだろうが、社会にとっての非主流な考えを提示している時点で、彼らは「日本社会という凝集性の高い共同体」における異端者の立ち位置にある人々だったわけだけど。

その異端者たちが連帯して、また凝集性の高い共同体を作って、彼らにとっての「裏切り者」を糾弾する、というフラクタルの構図が繰り返されてるの、めっちゃ人間ぽいなと思う。

また、「我こそ中立の立場からものを言おう」というスタンスをしょって、一見配慮的な意見を語るジャーナリストや映像関係者や識者の言論が、自らも仲間内の論理を深く内面化していることに無自覚なために、部外者から見たら大きすぎるピットフォールをシンプルに突かれて、それでことごとく粉砕していくさまも、なんだかなあという感じだった。

 

普段、知識人・良識人として社会正義を語っている人が、一皮剥けばローカルなルールを絶対正義として誰かをバッシングすることに突き進むさま、対話や説明や議論を拒絶して自らの正義に閉じこもるさま。

それは、彼らが日頃こき下ろしている右翼的な人たちのありようとほとんど変わらないようにも見えた。

やっぱりどれだけ孤独でも、何かに所属することや、誰かの何かを鵜呑みにすることには注意深くあらねばならないということを、ひとりの偏った人間として思ったことだった。

つまるところ、「何が正しいか」だなんて、私のような者には分かりっこない。

自分なりに考えた上で、いつも拠り所にしているのは「壁と卵があったら、私は卵の側につく」というシンプルな方針だ。

人は弱い生き物だから、基本案件ベースでしか連帯してはいかんのだ。

 

政治の世界でも中道を掲げる政党があらわれたけれど、みずから中立とか中道を標榜するなんて、おこがましいし、マユツバだなと思う。

だいたい、原発再稼働を容認し、憲法の緊急事態条項に賛成する団体のどこが「中道」なんだろうと普通に思う。

 

中立なんてない。

「私はこうありたい」があるだけだ。

「Black Box Diaries」

 

2024年アメリカ・イギリス・日本合作/原題:Black Box Diaries/監督:伊藤詩織/102分/2025年12月12日〜日本公開

 

この世界において「若い女性」とは、一体どんな存在なのか。

この作品は、その本質をはげしい痛みをもって浮き彫りにしている。

程度の差はあるとは言え、日本だけに限ったことではない。

だからこそこの作品は、多くの国で強い共感と同情をもって受け入れられたのだろう。

 

若い女性」は、社会の中で求められ、守られ、甘やかされている存在と考えられている。

彼女たちは若く美しく、未来への選択肢はその手の中にあるかのように、見える。

でも、かつて若い女であった私はよく知っている。

若い女性が、社会の中でいかに客体化されやすく、つまり一人の尊厳を持った人間としては扱われにくく、その人権は容易に軽んじられ、踏みにじられるかということを。

若い女性」は、この社会の中で、弱者性を帯びたあやうい存在だ。

 

25才のジャーナリスト志望の就活学生だった伊藤さんの身に起こった痛ましい性犯罪、それを公に訴えて自らの尊厳を取り戻そうとする闘いは、「境界線を越えたひとりの若い女性」に対して、この社会の人々が、いかに彼女を黙殺し、あるいはその声をふさぎ、無力化させることで事なきを得ようとするか、社会的スティグマに彼女をどれほど無遠慮に晒すかを、残酷な形で可視化することになった。

 

皮肉なことに、被写体(伊藤さん自身)の姿を通して、若い女性を取り巻く現実がさまざま垣間見えるのみならず、映画外においても、全方位からの忠告・指摘・教示・バッシングといったさまざまなマウンティング行為や批判に伊藤さんが長期間さらされ続けているその状況こそが、若い女性の現実をリアルに映し出している。

 

従順で、美しい笑顔と魅力的な若い肢体で目を喜ばせ、しかし身の程はわきまえ、強い者に逆らわず、男性たちに気まずい思いをさせず、この社会の「サポートメンバー」として献身的であること。

そしていずれは母として妻として、子孫を産み育て、各々の家庭のサポートメンバーとして生きること。

身も蓋もなく言えば、それが家父長制が若い女性に期待することである。

加えて今は、低賃金労働者の役割を担うことも求められている。

 

社会が想定する「若い女性」という役割の範疇にとどまってさえいれば、彼女らは確かにある側面においては持ち上げられ、一定の優遇を受けられるのかもしれない(その「優遇」を本人が欲しているかどうかは関係なく)。

というか、この社会は、彼女らが境界線を越えぬよう、手を替え品を替え画策してきたのだし、さまざまな言い分を持ち寄って、彼女らが境界線を越えることを思いとどまらせようとしてきた。

 

境界線をひとたび越えた時、彼女らを歓待していたはずの社会は一転する。

これまでの猫なで声を翻し、無慈悲で冷淡な存在に豹変する。

そして、彼女らの異議申し立てや怒りや悲しみや苦しさを、まるっと「なかったこと」にすることで、「全体の平和」を死守しようとする。

 

伊藤さんに起こった痛ましい出来事。それは確かにとてもひどいことである。残念だとは思う。

しかし、そのような目を背けたくなるような性犯罪がこの社会のそこここに存在するという事実を認めること、そして社会の中で強い力を持つ成人男性を、一介の女子学生が公然と告発し、法的に罰しようとすることは、この社会にとって極めて気まずく、「出過ぎたこと」である。

「傷もの」になってしまったことはお気の毒だけれど、悪夢だったときれいさっぱり忘れて、ことを公にせず、なかったこととして生きていく方が、あなたの身のためだ。

「あなたの幸せのために」、ぜひそうした方がいい。

 

それが被害に遭った伊藤さんに対する、この社会の多くの人々の一般的な対応だった。

少なくとも、伊藤さんが被害を告発する以前の8年前の日本では、それがスタンダートだった。

 

警察とのやりとりを録音した音声では、複数の警察職員が被害届を出すことを伊藤さんに断念するよう繰り返し促している。

「何時何分という証拠を出せないのであれば」と、まるでそれが彼女の落ち度であるかのように責める捜査員もいた。

それでも伊藤さんが引き下がらなかったことで、警察は動かざるを得ず動いたものの、警視庁の中村格は、法の手続きを破ってまでも山口の逮捕を直前で差し止めた。

どうせ若い女性がまともに声を上げることなどできないと高を括っていたのだろう。

 

実名で顔を出して告発しようとする伊藤さんに、彼女の父親は言った。

「普通に幸せになってもらいたいから」告発は思い止まってほしい。

誰かいい人を見つけて、結婚して家庭を持ち、実家の近くに住んでずっとみんなで仲良く幸せに暮らすことが望みなのだ、と。

「でも、沈黙することは私にとっては幸せではないの」と、伊藤さんは言った。

 

おそらく高い確率で使われたデートレイプドラッグによって朦朧とした状態の中、うわ言のように何度も帰りたいと訴える伊藤さんを助けることなく、ホテルに送り届けたタクシー運転手。

山口に引きずられるようにして部屋に連れ去られる彼女を、ただぼんやりと見送ったホテルのドアマンとスタッフ。

そこには、この社会の性犯罪に対する致命的な想像力の欠如があらわれている。

今自分が目の当たりにしている状況が、きわめて異常で危機的であるということへの認識を持てなかった、あるいは成人男性に歯向かって事を荒立てる事を避けたいがために違和感から目を逸らし、結果的に見殺しにした。

彼らは何年も経ったのちに、伊藤さんの要請に応じて一定の協力的な姿勢を示すが、被害に遭った伊藤さんが、なぜこれほどまでにへり下って懇願し、涙を流して感謝しなければならないのだろうか、と思わずにはいられなかった。

元担当刑事は、「自分の身が危うくなるような協力など当然できない、私は組織の人間なんだから。あなたが養ってくれるのか、結婚してくれるのか」とおどけた調子で言った。

 

伊藤さんから中村格を突撃取材したことを聞いた先輩格のジャーナリストたちは、そんなルール破りの取材をしたのか、と失笑するような態度を見せた。

(のちに、彼女を担当した弁護士や複数の「リベラル系」ジャーナリストや識者たちは、伊藤氏が重大なルール違反をしたとして、この作品を激しく非難することになる)

 

声をあげた伊藤さんに連帯する声が上がった一方で、匿名の誹謗中傷も凄まじいものだった。

意図的にデマを拡散し、「枕営業」と嘲笑する女性漫画家や女性の国会議員もいた。

次第に彼女は、日本に住むことができなくなった。

 

加害者の山口は、伊藤さんを名誉毀損で訴え、彼女に1億3000万円を要求した。

自身の犯罪が確定した今も、メディアに出演するなどの活動を続けている。

 

裁判所の前で出くわした伊藤さんを、「ああ!あの強姦された人!」と大声ではしゃぐように言う高齢女性がいた。

伊藤さんは一貫して断っていたが、伊藤さんを支援したい、何かしたい「善意の」人たちが押しかけるように集まり、支援者団体を立ち上げた。

彼女は「女性の地位向上のアイコン」として、さらに矢面に立つことを余儀なくされた。

 

ひとりの若い女性が自らの尊厳を取り戻そうとした時に、これほど社会の全方位からあらゆる種類の矢が飛んでくる。

映像は、その理不尽さと彼女の寄る辺なさを改めて突きつけてくる。

追い詰められた彼女は、一命は取り留めたものの、絶望して自死をはかったことが作品内で明かされている。

 

しかし、彼女は再び立ち上がり、民事裁判で勝利することになる。

山口の上告を最高裁が棄却し、山口の有罪が最終確定したのは2022年。

25歳だった伊藤さんは、33歳になっていた。

 

 

映画が終わって、隣の娘氏を見ると、だいぶ泣いてぐったりした様子だった。

もうご飯は食べずにこのまま帰る?と、言ったら、「いっぱい泣いたら腹減った」と娘氏は言った。

 

やけくそのようにもりもりとランチを食べながら聞いた、今まさに「若い女性」を生きている、中年の私にはもう感じえない、娘氏の感想。

なんだか、バトンを渡されたっていう気持ちになった。

映画を見て、すごく落ち込んだんだけど、同時に希望をもらえた感じがしている。

 

普段、壁がすごおおおく高いところにそびえているのを見上げながら生きているという感覚があるんだけど。

あのばか高い壁をひとりで乗り越えるなんて到底無理、そう絶望して、はなからあきらめて呆然と立っている。

でも時々、自分の立っている地面ごと、ごごごごーっとせりあがってくるような作品に出会う。

そんな時、自分は孤独ではなく、生きていけるって思える。

この映画は、そういう作品だった。

 

「記者会見で告発している人」という切り取られたニュース映像を見ていると、伊藤さんは生身の人間ぽく見えない。

でも(ドキュメンタリー)映画では、伊藤さんはすごく人間だった。

映像は、その人の抱えた複雑な文脈を伝えることができる、すごい力があるものだと思った。

映像を作るなんてもうこりごりと思ったけど、これからも自分の撮りたいものを撮ってみたいという気持ちになった。

 

作品の中に、女性ジャーナリストの集会に伊藤さんが招かれた時のシーンがある。

その中で、先輩ジャーナリストのある中年世代の女性が、絞り出すようにして言っていた言葉が、今も心に残っている。

「私も若い頃に、伊藤さんと似た被害を受けました。

その時は、仕事を失いたくなかったし、自分一人が耐えればおさまるのだと思い、公にはせずやってきました。

伊藤さんが『後に続く世代のことを思っていた』という言葉を聞いて、その考えは当時の自分にはなかったことに気付かされ、今、忸怩たる思いがしています」

参加者たちのそうした率直な自己開示を含む心のこもった連帯の言葉を受けて、伊藤さんは涙を流して言っていた。

「いつも人前に出る時は、裸になって立っているような気持ちでした。今回、初めてブランケットを体にかけてもらったような気持ちです」

 

私は、その中年女性と同じような者だ。

私も若い女を生きてきて、それなりにいろんな嫌な思いをしてきたし、その中には性犯罪と言っていいものだってあったけれど、あの頃、それらに毅然と怒り、抗議することなんて、思いつきもしなかった。

なんとか逃げたり、曖昧に笑ってごまかすようなことしかできなかった。

それは笑うようなことなんだ、あるいはそれは私の落ち度なんだ、私の恥なんだと思い込んでいた。

そうして自分自身を卑下して、誰かに気まずい思いをさせたり波風を立てることを恐れて何もしてこなかったことで、私は自分で自分を愚かで弱い者にし、後に続く世代に対して善きことをほとんど何ももたらさなかった。

この社会は誤った認識を温存し続け、その果てに、2015年に伊藤さんは被害に遭った。

告発当時から伊藤さんの事件は、私の中の何かをすごく強く揺さぶる事件だった。

この事件のことを思うと、自分への後悔や怒りや、伊藤さんへの感謝や申し訳なさや、悔しさや悲しさ、いろんな思いで心がぐちゃぐちゃに乱れる。

このことは、これからもずっと考えていかねばならないことだと思っている。

 

伊藤さんの告発から2年後の2017年、性犯罪に関する刑法(不同意わいせつ罪、不同意性交等罪)が改正された。

もちろん彼女ひとりによって実現したことではなく、多くの人たちの訴えや働きかけがあったことは前提として、伊藤さんのケースが世論を喚起し、改正への最大の決定打になったことは明らかだと思う。

それは、実に110年ぶりの改正だった。

それだけに、伊藤さんが声をあげたことはどれほど大きなことだったのか、それを改めて思い、深いリスペクトを感じる。

これほどの嵐に耐えなければ、自身の尊厳を回復し、社会の現状を変えられないのかと思うと、本当にやりきれない。

でも、彼女はやってのけたのだと思う。

 

19歳の娘氏は「バトンを手渡された」と言った。

本作によって、不快な思いをしている人たちがいるということも認識しておく必要があることとは思っているが、娘氏のの深い実感に根差した思いや、映画を見た自分自身の感情をまずは信じたい。

いずれにしても、時間が、おのずと本質を明らかにしていくのだと思う。