みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「帰ってきたヒトラー」

 

2015年ドイツ/原題:Er ist wieder da/監督:デヴィッド・ベンド/116分

末っ子に続いて、夫氏も寝込んでしまった。私の予定は全キャンセル。

1/30から2/12まで、YouTubeで全編無料公開されているので、合間に見た。

軽いコメディタッチがベースの作品で、するっと見られる。

 

このところの政治報道は、日本もアメリカも、シュールの域に達していて、もう私はキャパオーバー。

個々の事象についてよりは、「人間とは」を考えるみたいな方向に振れている。

 

この作品については、ラストシーンのヒトラーの言葉に全てが集約されているから、それを置いておく。

1933年当時、大衆は私に扇動されたわけではない。

彼らは計画を明示した者を指導者に選んだ。

私を選んだのだ。

 

怪物?

私が?

なら怪物を選んだ者を責めるんだな。

選んだ者たちは、普通の人間だ。

優れた人物を選んで、国の命運を託したのさ。

 

なぜ人々が私に従うか、考えたことはあるか?

彼らの本質は、私と同じだ。

価値観も同じ。

 

私からは逃れられん。

私は、人々の一部なのだ。

 

そこには良いこともあった。

現代にタイムスリップしたヒトラーは、キャラの立ったTVタレントとして大衆の前にあらわれ、公共の電波を通して自信と確信をもって率直に語り、どんな論戦にも堂々と対峙し、市井の人びとの話には耳を傾け、にこやかに応え、彼らを励ました。

ヒトラーは時空を超えて尊大なままで、差別的な思想や暴力性を特に隠しもしなかったけれど、人々はそれを「コミカルなキャラクター」と捉えて、見たいものしか見なかったし、ヒトラーもとくに聞かれなければ黙っていた。

彼は、常に自分のままで正直に人々に語りかけていただけで、嘘をついて騙したわけではなかった。

ほとんどの人々は、「明確な答えをくれ、自分を肯定してくれる者」にどんどん魅了され、なびいていった。

 

アニメで出てくるような分かりやすい、醜悪な大悪人なんて、現実には存在しない。

危険な思想を持つ者がすごく好感が持てて、共感できる要素も一方であるのは、ごく普通のことだ。

ヒトラーは、「良いこと」もしたし、チャーミングな、可愛げのある人物だった。

でも同時に彼は、一つの民族を皆殺しにするべきだと確信して、それを実際にやった。

 

誰かが設定したゲームのルールに参加して、そこでの是非を考え悩んでいる時点で、罠にはまったようなものだ。

 

「自分自身の基準」をいかに持つか。

人としての尊厳を手放さないというコアを持ちながら、同時にいかに自分を疑い、学び、検証し続けるか。

民主主義とは、市民一人ひとりがそのめんどくさい作業を引き受けることと引き換えに得られるものだから、どんな理由であれ、その作業を大多数が放棄してしまった時、それは独裁者に命運を委ねることを引き受けることを意味する。

 

今、世界のいろんな国で、答え合わせのように起こっていること。

 

胃腸炎

土曜の夜、末っ子が突然、夕飯に食べたものをマーライオンみたいにだばーーっと勢いよく吐いた。

リビングの座布団も、子どものお気に入りのサメの大きなぬいぐるみも、床も、あらゆるものがゲロまみれになった。

それまでの穏やかな空間は一変して、大騒ぎ。

 

それでも我が家は大人が3人いるから、大変だけど心が折れることなく、チームプレーで現場復帰することができる。

娘氏はこういう時、本当に手際が良い。

人手があるのは本当にありがたいことだ。

 

それからは、吐くものがなくなるまで断続的に嘔吐は続き、吐くものがなくなっても泡を吐き、結局深夜救急に駆け込むことになった。

深夜の病院の少し気だるいような空気の待合室、絶え間なく聞こえてくる赤ん坊の泣き声を聞きながら、頬の赤い子どもを抱いてぼんやりと待つ時間。

夫氏は隣のベンチで気絶したみたいに寝落ちしている。

 

身体はだるいしうすら寒いし、しんどいんだけれど、どこか甘い気持ちでじっと座っていた。

こうして目の前のことだけが全てで、真夜中に互いの体を寄せ合ってじっとしているということの確かさ。

私たちが運命共同体であるということ、私たちは急に降りかかってきたものにおろおろし、その時々でできることをするしかない、小さき者であるということを感じていた。

 

流行性の胃腸炎という診断だった。

浣腸をして、お腹の中のものを全部出してから、しばらく様子見したのち、特に薬をもらうこともなく家に帰った。

生まれて初めての浣腸をされた末っ子は、ものすごく珍妙な顔をしていたが、3分間うんちをすることをなんとかがまんしていた。

 

落ち着いた対応で見通しをクリアに説明してくれたお医者さん、深夜の2時半だというのに、お花のような明るい笑顔で末っ子を励まし、配慮しながら接してくれた看護師さんに感謝の気持ち。

こうしたイレギュラーな医療の恩恵を受けると、社会のインフラがいろんな人によって支えられて機能していることを改めて実感して、安心するし、感謝の思いが湧いた。

 

やっぱり大事なのは、この国に暮らす人たちが安心して暮らしを営めることなんだと思う。

弱い人たちを支えるためにある社会のインフラは、地味で目立ちにくく、健康で大丈夫な時には見えにくいものだけれど、お金があってもなくても、いつでも、いざという時に助けてもらえる場所や制度があるということは、人が安心して生きていくために本当に大事なものだ。

 

高市氏が首相になってから、社会インフラへの分配を減らして個人負担を増やす方向が加速している。

なかでも、石破氏が凍結を決めた方針をくつがえして、高額療養費制度の月負担額が一気に38%も増えたニュースは、ショックだった。

高額療養費制度は、国民皆保険と並んで日本が誇る優れた制度だったと思う。

国民全体がどんどん貧しくなっている時だからこそ、死守しなければならない制度だったのに。

そのことが大して報道もされず、話題にならなかったこともとてもショックだった。

今後は大病や大けがをしたらお金のない人は詰みます、という社会に向かって大きく舵を切ってしまったという重たい事実も、高い支持率を見ると、よく知らないという人がたぶん多いのだろう。

人々の暮らしが二の次でしかない彼女が首相であることによって、安心を奪われたり、経済的により圧迫されていく可能性が高いことを思うと、気が重い。

選挙で、一人ひとりが考え、権利を行使して、与党に不信任が下されることを願っている。

 

 

末っ子は、断続的な浅い眠りを繰り返し、起きるたびに少しずつ水分を摂らせながら、昨日はずっとそばで過ごした。

今朝起きたら、目に力が戻っていて、熱も下がっていてほっとした。

明日は元気に登園できるといいなあ。

もらえたりもらえなかったりすることについて

療育での面談に続いて先週は、末っ子の通う保育園での支援ミーティングがあった。

半年前、末っ子の観察支援のために外部の療育の専門家が定期的に入ることを、保育園の先生たちはそれほど歓迎していなかったと思う。

けれど、半年ぶりに三者が顔を合わせた時、先生たちの感じが全然違っていた。

担任の先生たちは、めちゃくちゃメモを取っていて、保育の中で気づいたことをたくさんお話ししてくれた。

末っ子を見てくれている療育の先生は、末っ子の支援を通じて、親の私たちはもちろん、保育園の先生にもいろんな学びの機会を提供してくれているのだと感じた。

先生たちの子どもとの関わり方のちょっとした変化が、ただ末っ子にとってのみ良いことではなくて、先生自身にとって、ひいては保育園全体にとっても良いことにつながっていくことが感じられて、とても嬉しかった。

末っ子の持つ特性の幾つかは、多分一生続いていくものなんだと、療育の先生の話から実感する。

そもそも「治る」という言葉が適切ではないというか。

でもそれが「ある」ことを、親を筆頭とした周囲の人たちが共有していて、それにどう対処して行けばいいかのいくつかのアイデアがあれば、不安はだいぶ少ない。

そして、末っ子は日々すくすくと成長している。

ひとまずこれで、春からの体制が整った。ほっ。

 

感謝を感じながら帰宅したものの、私はどうにも居心地が悪く、夕飯の支度をしながらだいぶお酒を飲みすぎた。

こんなにたくさんの忙しい方々に、私たちのためにわざわざ集まってもらい、貴重な時間をもらって手厚く見てもらっているということが、どうしても気が引けて苦しくて。

だって本当は、子どもに関わる人たちが顔を合わせてその子について話し合うことは、希望する全員に対してなされるべきことなんだろうと思うからだ。

どんな子でも、一人ひとりの子どもはそれぞれの宇宙を持っていて、話が尽きないくらいものすごく面白い存在だ。

周囲の人たちがその子について考えるべきことは、どんな子であってもいっぱいあるはず。

子どもは素晴らしい自分の力を持っているけれど、周囲がケアしなくても大丈夫な子はいないし、自力で全部なんとかできるほど大丈夫で余裕があり、悩みのない親もそれほどはいないはず。

子どもによって効果的な関わりや工夫は千差万別で、まだ人としてまっさらな柔らかい状態だからこそ、ほんのちょっとした入力で機会が得られることもあれば、思い込んで長い間心の傷つきになってしまうようなことも起こりうる。

ある程度、そうした人生のあれこれは、巡り合わせと思っておおらかに受け止めるべきことだということは分かってはいるけれど、この半年、一定の個別対応を受けた結果の末っ子の変化や成長は明らかなので、喜ばしい反面、心苦しさがある。

 

その気持ちを、ご飯を食べつつ夫氏に話したら、

「たまたま今、そういう子どもへの支援がぼくらの住む自治体に存在していて、運良く制度につながって、その制度をいい感じで使えている。

うまくつながれない人もたくさんいるだろうし、制度が自分に合っていない人もいるだろう。

その制度はちょっとしたさじ加減で来年にはあっけなくなくなってしまうものかも知れない。

そうしたいろんなことが、実は自力ではほとんどどうしようもない。

 

この社会にはいろんな社会福祉があって、それぞれの面で恩恵を受けられたり、受けられなかったりして、でこぼこしている。

ある分野に関しては手厚い福祉を受けられても、別の分野では、何の助けももらえず自力でどうにかしてと言われる。

人によって税金の納め方だってでこぼこしている。

公平性を求めるのは、なかなか難しい。

だから基本、今自分にとって助けになるものが先方から提示されたら、それを粛々とありがたく受け取るということなんだと思うよ。」

というようなことを話してくれた。

ちょっとだけ気が楽になった。

 

こういう時、自分はこの夫さんで良かったなと思う。

意見が合う時、合わない時はもちろんあるけれど、こちらの投げた球を、どんなくだらない球でも、彼は言下にあしらったり、茶化したり、逸らしたりすることなく、基本面倒くさがらずに打ち返してくれる。

 

こういうやりとりを、いちいちまじめすぎてうっとおしいという人も多かろうと思う。

でも、私も末っ子と同じで、生きている中でぶつかるいろんな「なぜ」を自分なりに納得しないと、受け入れらないし、従えない、次に行けないめんどくさい人だから、私にはちょうどいい。

中立なんてない

今回、「Black Box Diaries」を巡ってさまざまな意見が飛び交う中で、いわゆる「リベラル」の論客やジャーナリストの少ない人たちが、伊藤さんに対して辛辣な意見表明をしているさまを、なんとも言えない気持ちで見ていた。

昨年、印象に残った本のひとつが古賀史健著「集団浅慮」だったのだけど、日本におけるいわゆる「リベラル」の言論空間は、右翼的な言論空間と表裏のような存在なのだな、と思った。

つまり、どちらもムラ的な「凝集性の高い集団」であり、どちらも集団浅慮に陥っている、ということ。

 

凝集性(集団凝集性)とは、集団や組織に対する忠誠心、団結力や結束力、一体感、仲の良さのことを指す。

凝集性の高いグループは、メンバーにとってのアイデンティティ、誇りであり、安心や自尊心の拠り所となる。

だからこそ、内輪の友好的な関係性を保ちたいと切実に願う。

それがエスカレートして、グループの同調圧力は高まり、集団内の暗黙のルールに従うことを求め、異論を許さず、異端者を排除し、「平和」を保とうとする心の動きが生まれる。

ごくシンプルに言うと、集団にとっての非同調者を、道徳的倫理的な意味における悪・愚か者と規定し、自らに都合の良い情報を拾い集めて、ストレスのかかる対立や議論を避け、自らの正義のみを信じ込もうとしている心理状態を「集団浅慮」と言う。

 

元々は、右翼であれ左翼であれ、それが正しかろうがヘイトだろうが、社会にとっての非主流な考えを提示している時点で、彼らは「日本社会という凝集性の高い共同体」における異端者の立ち位置にある人々だったわけだけど。

その異端者たちが連帯して、また凝集性の高い共同体を作って、彼らにとっての「裏切り者」を糾弾する、というフラクタルの構図が繰り返されてるの、めっちゃ人間ぽいなと思う。

また、「我こそ中立の立場からものを言おう」というスタンスをしょって、一見配慮的な意見を語るジャーナリストや映像関係者や識者の言論が、自らも仲間内の論理を深く内面化していることに無自覚なために、部外者から見たら大きすぎるピットフォールをシンプルに突かれて、それでことごとく粉砕していくさまも、なんだかなあという感じだった。

 

普段、知識人・良識人として社会正義を語っている人が、一皮剥けばローカルなルールを絶対正義として誰かをバッシングすることに突き進むさま、対話や説明や議論を拒絶して自らの正義に閉じこもるさま。

それは、彼らが日頃こき下ろしている右翼的な人たちのありようとほとんど変わらないようにも見えた。

やっぱりどれだけ孤独でも、何かに所属することや、誰かの何かを鵜呑みにすることには注意深くあらねばならないということを、ひとりの偏った人間として思ったことだった。

つまるところ、「何が正しいか」だなんて、私のような者には分かりっこない。

自分なりに考えた上で、いつも拠り所にしているのは「壁と卵があったら、私は卵の側につく」というシンプルな方針だ。

人は弱い生き物だから、基本案件ベースでしか連帯してはいかんのだ。

 

政治の世界でも中道を掲げる政党があらわれたけれど、みずから中立とか中道を標榜するなんて、おこがましいし、マユツバだなと思う。

だいたい、原発再稼働を容認し、憲法の緊急事態条項に賛成する団体のどこが「中道」なんだろうと普通に思う。

 

中立なんてない。

「私はこうありたい」があるだけだ。

「Black Box Diaries」

 

2024年アメリカ・イギリス・日本合作/原題:Black Box Diaries/監督:伊藤詩織/102分/2025年12月12日〜日本公開

 

この世界において「若い女性」とは、一体どんな存在なのか。

この作品は、その本質をはげしい痛みをもって浮き彫りにしている。

程度の差はあるとは言え、日本だけに限ったことではない。

だからこそこの作品は、多くの国で強い共感と同情をもって受け入れられたのだろう。

 

若い女性」は、社会の中で求められ、守られ、甘やかされている存在と考えられている。

彼女たちは若く美しく、未来への選択肢はその手の中にあるかのように、見える。

でも、かつて若い女であった私はよく知っている。

若い女性が、社会の中でいかに客体化されやすく、つまり一人の尊厳を持った人間としては扱われにくく、その人権は容易に軽んじられ、踏みにじられるかということを。

若い女性」は、この社会の中で、弱者性を帯びたあやうい存在だ。

 

25才のジャーナリスト志望の就活学生だった伊藤さんの身に起こった痛ましい性犯罪、それを公に訴えて自らの尊厳を取り戻そうとする闘いは、「境界線を越えたひとりの若い女性」に対して、この社会の人々が、いかに彼女を黙殺し、あるいはその声をふさぎ、無力化させることで事なきを得ようとするか、社会的スティグマに彼女をどれほど無遠慮に晒すかを、残酷な形で可視化することになった。

 

皮肉なことに、被写体(伊藤さん自身)の姿を通して、若い女性を取り巻く現実がさまざま垣間見えるのみならず、映画外においても、全方位からの忠告・指摘・教示・バッシングといったさまざまなマウンティング行為や批判に伊藤さんが長期間さらされ続けているその状況こそが、若い女性の現実をリアルに映し出している。

 

従順で、美しい笑顔と魅力的な若い肢体で目を喜ばせ、しかし身の程はわきまえ、強い者に逆らわず、男性たちに気まずい思いをさせず、この社会の「サポートメンバー」として献身的であること。

そしていずれは母として妻として、子孫を産み育て、各々の家庭のサポートメンバーとして生きること。

身も蓋もなく言えば、それが家父長制が若い女性に期待することである。

加えて今は、低賃金労働者の役割を担うことも求められている。

 

社会が想定する「若い女性」という役割の範疇にとどまってさえいれば、彼女らは確かにある側面においては持ち上げられ、一定の優遇を受けられるのかもしれない(その「優遇」を本人が欲しているかどうかは関係なく)。

というか、この社会は、彼女らが境界線を越えぬよう、手を替え品を替え画策してきたのだし、さまざまな言い分を持ち寄って、彼女らが境界線を越えることを思いとどまらせようとしてきた。

 

境界線をひとたび越えた時、彼女らを歓待していたはずの社会は一転する。

これまでの猫なで声を翻し、無慈悲で冷淡な存在に豹変する。

そして、彼女らの異議申し立てや怒りや悲しみや苦しさを、まるっと「なかったこと」にすることで、「全体の平和」を死守しようとする。

 

伊藤さんに起こった痛ましい出来事。それは確かにとてもひどいことである。残念だとは思う。

しかし、そのような目を背けたくなるような性犯罪がこの社会のそこここに存在するという事実を認めること、そして社会の中で強い力を持つ成人男性を、一介の女子学生が公然と告発し、法的に罰しようとすることは、この社会にとって極めて気まずく、「出過ぎたこと」である。

「傷もの」になってしまったことはお気の毒だけれど、悪夢だったときれいさっぱり忘れて、ことを公にせず、なかったこととして生きていく方が、あなたの身のためだ。

「あなたの幸せのために」、ぜひそうした方がいい。

 

それが被害に遭った伊藤さんに対する、この社会の多くの人々の一般的な対応だった。

少なくとも、伊藤さんが被害を告発する以前の8年前の日本では、それがスタンダートだった。

 

警察とのやりとりを録音した音声では、複数の警察職員が被害届を出すことを伊藤さんに断念するよう繰り返し促している。

「何時何分という証拠を出せないのであれば」と、まるでそれが彼女の落ち度であるかのように責める捜査員もいた。

それでも伊藤さんが引き下がらなかったことで、警察は動かざるを得ず動いたものの、警視庁の中村格は、法の手続きを破ってまでも山口の逮捕を直前で差し止めた。

どうせ若い女性がまともに声を上げることなどできないと高を括っていたのだろう。

 

実名で顔を出して告発しようとする伊藤さんに、彼女の父親は言った。

「普通に幸せになってもらいたいから」告発は思い止まってほしい。

誰かいい人を見つけて、結婚して家庭を持ち、実家の近くに住んでずっとみんなで仲良く幸せに暮らすことが望みなのだ、と。

「でも、沈黙することは私にとっては幸せではないの」と、伊藤さんは言った。

 

おそらく高い確率で使われたデートレイプドラッグによって朦朧とした状態の中、うわ言のように何度も帰りたいと訴える伊藤さんを助けることなく、ホテルに送り届けたタクシー運転手。

山口に引きずられるようにして部屋に連れ去られる彼女を、ただぼんやりと見送ったホテルのドアマンとスタッフ。

そこには、この社会の性犯罪に対する致命的な想像力の欠如があらわれている。

今自分が目の当たりにしている状況が、きわめて異常で危機的であるということへの認識を持てなかった、あるいは成人男性に歯向かって事を荒立てる事を避けたいがために違和感から目を逸らし、結果的に見殺しにした。

彼らは何年も経ったのちに、伊藤さんの要請に応じて一定の協力的な姿勢を示すが、被害に遭った伊藤さんが、なぜこれほどまでにへり下って懇願し、涙を流して感謝しなければならないのだろうか、と思わずにはいられなかった。

元担当刑事は、「自分の身が危うくなるような協力など当然できない、私は組織の人間なんだから。あなたが養ってくれるのか、結婚してくれるのか」とおどけた調子で言った。

 

伊藤さんから中村格を突撃取材したことを聞いた先輩格のジャーナリストたちは、そんなルール破りの取材をしたのか、と失笑するような態度を見せた。

(のちに、彼女を担当した弁護士や複数の「リベラル系」ジャーナリストや識者たちは、伊藤氏が重大なルール違反をしたとして、この作品を激しく非難することになる)

 

声をあげた伊藤さんに連帯する声が上がった一方で、匿名の誹謗中傷も凄まじいものだった。

意図的にデマを拡散し、「枕営業」と嘲笑する女性漫画家や女性の国会議員もいた。

次第に彼女は、日本に住むことができなくなった。

 

加害者の山口は、伊藤さんを名誉毀損で訴え、彼女に1億3000万円を要求した。

自身の犯罪が確定した今も、メディアに出演するなどの活動を続けている。

 

裁判所の前で出くわした伊藤さんを、「ああ!あの強姦された人!」と大声ではしゃぐように言う高齢女性がいた。

伊藤さんは一貫して断っていたが、伊藤さんを支援したい、何かしたい「善意の」人たちが押しかけるように集まり、支援者団体を立ち上げた。

彼女は「女性の地位向上のアイコン」として、さらに矢面に立つことを余儀なくされた。

 

ひとりの若い女性が自らの尊厳を取り戻そうとした時に、これほど社会の全方位からあらゆる種類の矢が飛んでくる。

映像は、その理不尽さと彼女の寄る辺なさを改めて突きつけてくる。

追い詰められた彼女は、一命は取り留めたものの、絶望して自死をはかったことが作品内で明かされている。

 

しかし、彼女は再び立ち上がり、民事裁判で勝利することになる。

山口の上告を最高裁が棄却し、山口の有罪が最終確定したのは2022年。

25歳だった伊藤さんは、33歳になっていた。

 

 

映画が終わって、隣の娘氏を見ると、だいぶ泣いてぐったりした様子だった。

もうご飯は食べずにこのまま帰る?と、言ったら、「いっぱい泣いたら腹減った」と娘氏は言った。

 

やけくそのようにもりもりとランチを食べながら聞いた、今まさに「若い女性」を生きている、中年の私にはもう感じえない、娘氏の感想。

なんだか、バトンを渡されたっていう気持ちになった。

映画を見て、すごく落ち込んだんだけど、同時に希望をもらえた感じがしている。

 

普段、壁がすごおおおく高いところにそびえているのを見上げながら生きているという感覚があるんだけど。

あのばか高い壁をひとりで乗り越えるなんて到底無理、そう絶望して、はなからあきらめて呆然と立っている。

でも時々、自分の立っている地面ごと、ごごごごーっとせりあがってくるような作品に出会う。

そんな時、自分は孤独ではなく、生きていけるって思える。

この映画は、そういう作品だった。

 

「記者会見で告発している人」という切り取られたニュース映像を見ていると、伊藤さんは生身の人間ぽく見えない。

でも(ドキュメンタリー)映画では、伊藤さんはすごく人間だった。

映像は、その人の抱えた複雑な文脈を伝えることができる、すごい力があるものだと思った。

映像を作るなんてもうこりごりと思ったけど、これからも自分の撮りたいものを撮ってみたいという気持ちになった。

 

作品の中に、女性ジャーナリストの集会に伊藤さんが招かれた時のシーンがある。

その中で、先輩ジャーナリストのある中年世代の女性が、絞り出すようにして言っていた言葉が、今も心に残っている。

「私も若い頃に、伊藤さんと似た被害を受けました。

その時は、仕事を失いたくなかったし、自分一人が耐えればおさまるのだと思い、公にはせずやってきました。

伊藤さんが『後に続く世代のことを思っていた』という言葉を聞いて、その考えは当時の自分にはなかったことに気付かされ、今、忸怩たる思いがしています」

参加者たちのそうした率直な自己開示を含む心のこもった連帯の言葉を受けて、伊藤さんは涙を流して言っていた。

「いつも人前に出る時は、裸になって立っているような気持ちでした。今回、初めてブランケットを体にかけてもらったような気持ちです」

 

私は、その中年女性と同じような者だ。

私も若い女を生きてきて、それなりにいろんな嫌な思いをしてきたし、その中には性犯罪と言っていいものだってあったけれど、あの頃、それらに毅然と怒り、抗議することなんて、思いつきもしなかった。

なんとか逃げたり、曖昧に笑ってごまかすようなことしかできなかった。

それは笑うようなことなんだ、あるいはそれは私の落ち度なんだ、私の恥なんだと思い込んでいた。

そうして自分自身を卑下して、誰かに気まずい思いをさせたり波風を立てることを恐れて何もしてこなかったことで、私は自分で自分を愚かで弱い者にし、後に続く世代に対して善きことをほとんど何ももたらさなかった。

この社会は誤った認識を温存し続け、その果てに、2015年に伊藤さんは被害に遭った。

告発当時から伊藤さんの事件は、私の中の何かをすごく強く揺さぶる事件だった。

この事件のことを思うと、自分への後悔や怒りや、伊藤さんへの感謝や申し訳なさや、悔しさや悲しさ、いろんな思いで心がぐちゃぐちゃに乱れる。

このことは、これからもずっと考えていかねばならないことだと思っている。

 

伊藤さんの告発から2年後の2017年、性犯罪に関する刑法(不同意わいせつ罪、不同意性交等罪)が改正された。

もちろん彼女ひとりによって実現したことではなく、多くの人たちの訴えや働きかけがあったことは前提として、伊藤さんのケースが世論を喚起し、改正への最大の決定打になったことは明らかだと思う。

それは、実に110年ぶりの改正だった。

それだけに、伊藤さんが声をあげたことはどれほど大きなことだったのか、それを改めて思い、深いリスペクトを感じる。

これほどの嵐に耐えなければ、自身の尊厳を回復し、社会の現状を変えられないのかと思うと、本当にやりきれない。

でも、彼女はやってのけたのだと思う。

 

19歳の娘氏は「バトンを手渡された」と言った。

本作によって、不快な思いをしている人たちがいるということも認識しておく必要があることとは思っているが、娘氏のの深い実感に根差した思いや、映画を見た自分自身の感情をまずは信じたい。

いずれにしても、時間が、おのずと本質を明らかにしていくのだと思う。

療育の時間

この半年、土曜日の午前中は、末っ子の療育の親子クラスに通うのが我が家のルーティーンになっている。

親の参加は、夫婦で週ごとの交代制にしている。

昨日は私の番だったが、今回も濃い時間だったなあ。

末っ子自身も土曜日を楽しみにしてるし、親の私たちの学びは多く、子供は美味しい給食も食べられる。

大体3〜7人の少人数で、それぞれの親に加えて2人に1人職員がつくという手厚さ。

毎回取り組むアクティビティには明確な意図があり、自分も子供と共に体験しつつ、他の親子も眺めつつ、末っ子を客観的に見ることができる興味深い時間だ。

 

アクティビティの後には、親だけで30分ほどの振り返りの時間があって、いろんな意見交換をする。

さまざまな異なる特性を持つ子の親の、その日の気付きや最近の出来事や子育ての悩み事がシェアされ、その子なりの成長を認め合って喜ぶ時間でもある。

深い配慮と見識に基づいた先生からの的確なコメントや励ましはもちろん、子供と関わる上での行動や言葉遣いの工夫、どんな構えで子供に接しているか、他の保護者さんの話や考えも、すごく興味深いし参考になっている。

私自身も改めて言語化することで、考えがクリアになる。

親子クラスは結構気を張る時間で、帰りにはいつもぐったり疲れてしまうけれど、誰もが得られるサポートではなく、貴重な機会に毎回感謝しながら参加させてもらっている。

 

昨日は、騒々しい環境かつ見通しの立たない状況に置かれると、いかに末っ子が自分を見失ってしまうかということがつぶさに観察できた。

普段通っている保育園は、いつもわいわいがやがやと賑やかで、大人数縦割りの自由保育。カリキュラムのようなものは基本的にない。

そのような中で、さあみんなで何かをやりましょう(工作やおゆうぎなど)、というシチュエーションになると、末っ子は今目の前で起こっていることが理解できず、いつもぽつんと取り残されていると、保育園での様子を定期的に観察報告してくれる専門職から話を聞いてはいた。

昨日は、その様子を実際に目の当たりにすることになった。

なるほどー、末っ子は普段ちょうどこんな感じで、集団の中で何をどうすればいいか分からず混乱したまま、やみくもに暴れ回り、走り回っているのだろうな、と思った。

大人数の中にあると、お友達がたくさんいて嬉しいんだけど、浮き足立ってわなわなして、完全に外側に矢印が向いてしまって、自分がないがしろになってしまう。

顔は笑っているし、走り回っているから楽しそうに見えるんだけど、同時に強いストレスも感じているのだということが見てとれた。

そして、隅のちょっと隠れられるようなスペースに入ろう、入ろうとする。

一緒に遊びたい他の子供が「わたしもいーれーてー」と何度声をかけても頑なに拒む。

Rちゃんが、末っ子が立てこもっているクッションブロックをドアに見立てて、「あ、かぎがあった、ガチャ」と開けるフリをすると、「これはちがうかぎですから開きません」と中から末っ子が答える。

あ、ここにもあった!ここにもかぎがあった!と何度も違う鍵でドアを開けようとするRちゃんに、「このドアはうちかぎでした」と機転を聞かせて拒否っていたのには思わず笑ってしまった。

結局、しびれを切らした別の子が、強引に末っ子の隠れていたクッションブロックを引きはがすと、末っ子はとても嫌そうで、ちょっと泣きそうな表情もあった。

 

これが公園やプレイパークで起こったことだったら、普段の私は「独り占めしないでみんなで仲良く遊ばなくっちゃだめだよ」と早々に末っ子に注意をしていたと思う。

それがいわゆる一般的な親の声がけだからだし、今は、「迷惑をかけてはだめ」に超センシティブな親が多いので、大人に気を遣うということもある。

でも療育では、子供の言動を大人の都合でジャッジするのではなく、あらゆることを「なぜこの子はそのようにしたり、言ったりしたんだろう」というスタンスで眺めるという基本姿勢で子供に接する。

だから、私も変な気遣いにとらわれたりすることなく、子どもの行動を落ち着いて観察できるのだと思う。

昨日は、一見ただ元気に気まぐれに遊んでいるだけのように見える末っ子が、単なる独占欲や意地悪で他の子を寄せ付けないのではなくて、自分でも無自覚なままにカオスからなんとか逃れて、外界との境界を作って自分を守ろうとしているさまを発見できた。

それは、私にとっては大きな気付きだった。

 

毎回、何かしらそういう発見がある。

ただこの子は多動なんだ、というのではなく、一体何が不安でじっとしていられないのか、どんな工夫やサポートがあれば少し安心できるのか、と解像度高く子どもの行動を見つめることで、末っ子への理解が深まる。

わがまま、かたくな、自分勝手、人の話を聞かない、乱暴や動きの荒さ、人の嫌がることをする、大人に従わない、など、ある種の子どもは周囲の人たちにそういう印象を与え、ネガティブな評価をされる。

受け取る側に余裕がなく、ものごとの捉え方の解像度が低いと、ほんの幼い子どもがやっていることであっても、悪意として受け取られることもある。

ていうか、私自身、末っ子の行動を悪意に変換してしまう瞬間は、ままある。

他者のネガティブな反応の積み重ねで、子どもは自分を否定的にとらえるようになっていく。

幼い頃の私自身がそうだったように。

自分は人に迷惑をかける存在なんだ、自分は身勝手で性格が悪いのだ。

幼い頃、両親にたびたび言われて傷ついた言葉は「お前は可愛げのない子だ」だった。

まあ大変な子どもだったのだろうとは思う。

でも、これって言われたところで子供にはどうすることもできない、ただただ呪いにしかならない言葉だよなとも思う。

私自身は、こういう言葉を末っ子にぶつけたくはないと思う。

療育の助けを受けながら、まず親の私たちが末っ子に対して不完全なのは仕方ないながらも、致命的な加害はしないようにしたいと思っている。

 

週末の親子クラスに加え、支援員が定期的に保育園に訪問して、末っ子の様子を観察報告してくれるというサポートも受けている。

支援員のOさんの、末っ子の様子が生き生きと伝わってくる、同時に鋭い指摘も含む詳細な報告書は、とても勉強になる。

末っ子はOさんによく懐いているようで、Oさんもとてもかわいく思ってくれて真剣に考えてくれていることが話していて伝わってくる。

子育ての味方がいるということに、いつも温かい気持ちになる。

訪問支援は当初は半年間の予定だったけれど、先方から今後も支援を継続したいという申し出があった。

それは小学校に入ってからも続けてくれるというお話で、本当にありがたく思っている。

同時に、末っ子は、やはり専門家から見てそれなりの課題を抱えた子ということなのだろうな〜と実感させられもした。

 

こうした療育機関のおかげもあり、末っ子の特性や課題がだいぶクリアになったこの半年であった。

末っ子は、一見普通に見えるから、関わりの困難さを周囲に理解してもらえることはほとんどなく、私自身の親としてのいたらなさを突きつけられているように感じてしまうことも多かった。

療育のお世話になるようになってから、末っ子も親の私たちも、半年前よりも気持ちがずいぶん安定したなと感じる。

ボーダーの子どもを育てるしんどさのひとつは、周囲の人からの「私にはごくごく普通に見える」「特別なケアを受けるほどではないのでは」という言葉や態度で、親が今感じている困難さの存在自体を否定されてしまうことにあると思う。

昔、私自身も励ましのようなつもりで「全く問題ないと思うよ、普通に見えるよ」と、誰かのお子さんに言ってしまったりしたこともある。

見えるものを見えたままに悪気なく口にしてしまうことは、ある程度無理のないことだと思っている。

そこに悪意がなければ、基本的には気にしない。

でも、ひとりの大人として「自分の眼に見えているものはかなり限定的である。誰もが他者には分かり得ない固有の事情を抱えている」ということへの想像力はできるだけ持っていたいなと思う。

 

療育では、末っ子の特性を当然「あるもの」という前提で思いを共有してくれる。

困難さや悩みを、大げさとか気にしすぎとか言われる心配がない。

その前提をベースに、何が末っ子のためによりよいことだろうかと一緒に考えてくれる人たちがいるということは、私にとっては本当に心強いことだ。

私は自分の感じ方や認識にあまり自信や確信が持てないから。

いろんなことをしつこく考えて、こうして書いたりしながら、ひとつずつ落とし込むようにしないとなかなか次に行けないのも、そもそも自分が何を感じ、何を考えているのかを見つけることに時間がかかるからだし、なぜ自分がそのように感じ考えるのかが、なかなか分からないからだ。

そんな脆弱な自分だから、自分が「ある」と思った物事を誰かに「ない」と言われると、世界がぐらりと揺らいでしまう。

末っ子はどこにあっても意に介さず末っ子のまんまで、療育は遊びに行く場所が一つ増えた、くらいの感覚だと思うけど、私自身が療育につながった時に心に湧き上がった思いとは、「はー助かったー」というものであった。

あんまりほっとして、面談の中で少し涙が出てしまったくらいだった。

 

4月からは、保育所訪問支援に加え、子供単独の通いの療育が週2日新たに増え、親子クラスもあと半年続けることになった。

本当に手厚くてありがたい。

我が家は恵まれているなと思う、他にも支援を必要としていて、支援に繋がることができない子はいると思うから。

 

小学校まであと1年。

保育園と療育で色々学ばせてもらいながら、何が末っ子にとってよりよいことかを試行錯誤し、考えながら過ごしたいと思う。

そして、このかわいい5才の時期を、すぐにおっきくなっちゃうこの短いひとときを、めいっぱい楽しみ、味わって過ごしたい。

後ろ姿の写真があまりない

不安について心に留めておきたいこと

人は、弱い生き物だから、漠然とした不安を抱えたまま立っていることは、なかなかできない。

どうにかして手っ取り早く不安でなくなろうとして、じたばたともがく。

それは生き物として、仕方のないことなんだろうと思う。

 

多くの人たちは今、本人の自覚よりもずっと、余裕がなくぎりぎりで、不安でやるせない悲しみの中にあるのかもしれない。

いろんな辛いことや無慈悲なことに耐えて、誰にも迷惑をかけずに頑張っている「自分たち」には、「それくらいのこと」を主張する権利はあるはずだ、これは正当な要求だ、という心の動きがある。

「自分たち」を大事にするあまり、この社会で共に生きている誰かの人権を踏みにじっていることに想像力が及んでいないかもしれない。

でもそれは、果たして簡単に踏みにじっても構わないものなのだろうか?

「踏みにじられてもいい者」の矢印が、なんらかの形で自分に向けられる番が、いずれきっと来るが?

 

個人的には、「省みる」という心のクッションを置く習慣を癖づけすることで、人の不完全さや生き延びるためのいやらしさを人間だものと肯定しつつ、なんとか致命的な加害や暴力の野放図な発露だけは回避できないものか、と常々思ってはいる。

私はできてます、なんてとても言えないレベルだけれど。

 

「不安」についての、そんな答えの出ない気持ちを訥々と話していたら、夫氏が「ナラティブ(物語)バイアス」について教えてくれた。

面白い話だったのでシェアします。

 

人類学者、ルクミニ・バヤ・ナイールは、ベンガルの伝統的な物語を使ってナラティブバイアスを説明する。

虎が一頭。

狩人が一人。

虎が一頭。

この3つの句を聞いた瞬間に、私たちはこの場面と、物語の展開と、劇的な緊張感を思い描く。

何を思い浮かべるかは厳密には人それぞれでも、大筋ではかなり似通ったものだ。

 

かつてヘミングウェイは、小説1冊に値する物語を6単語で表現できると言った。

For sale:baby shoes,never worn.(売ります:赤ちゃんの靴、未使用)

 

人間は、あらゆることを物語の形に落とし込もうとする。

人間の脳は不完全な情報の切れ端を与えられると、脳のパターン処理ネットワークが隙間を埋め、物語にまとめ上げる。

情報の切れ端がたとえ無関連であったとしても、人間の脳は、嫌でもそれらを結びつけずにはおれない。

そしてその本能ゆえに、文学、化学、医学といったあらゆる分野で研究がなされ、人類は「進歩」してきたとも言える。

 

物語を語る心は、不確実なこと、偶然、分からないことが大の苦手だ。

物語を語る心は、意味を見出すことに病みつきになっている。

(ジョナサン・ゴットシャル)

 

イスラム教徒。モスク。土葬。

この3つの句を聞いた瞬間に、あなたはどんな「物語」を自分の中で作り上げただろうか。

 

 

昨日、たまたま読んでいた本の中でも、こんな言葉が目に留まった。

ストレスとは、嫌なことに対する心の反応ではなく、あらゆる変化が心にかける負担のことを指す。

だから、現実が激変する時、私たちはできるだけ自分を変えないように必死に抵抗する。

心は変化を好まない。

だから、現実が変化してしまった時、私たちは心を閉ざす。

そのためにお決まりの方法に固執する。

(「心はどこへ消えた?」東畑開人著より)

私たちは変化にストレスを感じる生き物なのだということ。

そして興味深いのは、たんに人は「変化に後ろ向きである」のみならず、「変化に対して現実に心を閉ざ」し、「人は自分を変えずに済む人それぞれの方法」によって、必死に変化に抵抗するという指摘である。

これを読んで、私自身も現実に心を閉ざして、自分のやり方に固執した存在に過ぎないことに改めて気付かされた。

 

例えば「ルールはルールだから正しい」という方針でそれなりに平穏に暮らしてこられた人は、当然ルールには従うべきだ、という考えに固執する。

一方で、私はその方針では平穏に生きられなかったので、生きる中で別の方法を編み出すことになった。

私は多分、いろんなことを自分なりに納得できるまでしつこく考えて、他者の存在や色んな表現からヒントを得ながら、こうして文章を書き、自分の考えを確認しながら少しずつ自分が変わっていくことによって、不安に対処し、心の平穏を得ている。

それが、私の「お決まりの方法」なんだと思う。

 

ある変化を前にして、あらゆる人が結局、それぞれの「お決まりの方法」を遂行している。

自分を守るために。

その切実さとかたくなさじたいは、誰しも大差ないのかもしれない。

だから、「自分の方が正しいのだから」と、他者に変わるように一方的に迫るということは、自分は楽をして相手にだけ負荷をかける、ひどく傲慢な振る舞いといえるのかもしれない。

 

いずれにしても、誰にとっても変わることはしんどいことで、心に負荷をかけながら耐えねばならぬ、不快なことだ。

大事なのは、お互いにお互いのしんどさにちょっと思いを馳せながら、なんとか折り合いをつけようと試みる、試み続ける姿勢なのかもしれない。

 

不安や焦燥感と折り合いをつける方法は、それを解決してくれそうなヒーローを見つけることや、それをぶつけるべき敵を見つけることではない。

よく勉強して、情報を調べて、信頼できそうな情報ソースを見極めて、とにかくサボらないで考え続けて、「より鮮明な不安」を得ることしかない。

不安を解消するために、安易な安心を求めてしまうと、簡単に何かに使われてしまう。飲み込まれてしまう。

だから、安心をゴールにしてはいけない。

着実に学ぼう。確実に学ぼう。淡々と学ぼう。

(九月@kugatsu_deadio のツイッターより)

 

不安を安易に解消するために、イスラム教徒の人々が彼らの神に祈りを捧げる場所を持つ権利を、ヒステリックで理不尽なやり方で奪ったとしても、きっと誰も幸せにはならないだろう。

今回のことが、この町に暮らす1万人近い外国籍の人たちと、地域の学校に通う約400人の外国籍の子供たちと、地域住民との間に、どれほど深い溝を生むことになるだろう。

そしてそれは、人々の負の感情につけ込んで、金や権力を得たい者が意図的に煽り立てた状況なのだ。

 

一人ひとりが不安に浮き足立ち、不安に絡めとられるのではなく、今、自らの心の中に巣食う不安の本質とは何かを見つめる必要があると思う。

排除が何かを本当に、本当に解決するのか?

今、冷静に考える余裕がほしい。