みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

不安について心に留めておきたいこと

人は、弱い生き物だから、漠然とした不安を抱えたまま立っていることは、なかなかできない。

どうにかして手っ取り早く不安でなくなろうとして、じたばたともがく。

それは生き物として、仕方のないことなんだろうと思う。

 

多くの人たちは今、本人の自覚よりもずっと、余裕がなくぎりぎりで、不安でやるせない悲しみの中にあるのかもしれない。

いろんな辛いことや無慈悲なことに耐えて、誰にも迷惑をかけずに頑張っている「自分たち」には、「それくらいのこと」を主張する権利はあるはずだ、これは正当な要求だ、という心の動きがある。

「自分たち」を大事にするあまり、この社会で共に生きている誰かの人権を踏みにじっていることに想像力が及んでいないかもしれない。

でもそれは、果たして簡単に踏みにじっても構わないものなのだろうか?

「踏みにじられてもいい者」の矢印が、なんらかの形で自分に向けられる番が、いずれきっと来るが?

 

個人的には、「省みる」という心のクッションを置く習慣を癖づけすることで、人の不完全さや生き延びるためのいやらしさを人間だものと肯定しつつ、なんとか致命的な加害や暴力の野放図な発露だけは回避できないものか、と常々思ってはいる。

私はできてます、なんてとても言えないレベルだけれど。

 

「不安」についての、そんな答えの出ない気持ちを訥々と話していたら、夫氏が「ナラティブ(物語)バイアス」について教えてくれた。

面白い話だったのでシェアします。

 

人類学者、ルクミニ・バヤ・ナイールは、ベンガルの伝統的な物語を使ってナラティブバイアスを説明する。

虎が一頭。

狩人が一人。

虎が一頭。

この3つの句を聞いた瞬間に、私たちはこの場面と、物語の展開と、劇的な緊張感を思い描く。

何を思い浮かべるかは厳密には人それぞれでも、大筋ではかなり似通ったものだ。

 

かつてヘミングウェイは、小説1冊に値する物語を6単語で表現できると言った。

For sale:baby shoes,never worn.(売ります:赤ちゃんの靴、未使用)

 

人間は、あらゆることを物語の形に落とし込もうとする。

人間の脳は不完全な情報の切れ端を与えられると、脳のパターン処理ネットワークが隙間を埋め、物語にまとめ上げる。

情報の切れ端がたとえ無関連であったとしても、人間の脳は、嫌でもそれらを結びつけずにはおれない。

そしてその本能ゆえに、文学、化学、医学といったあらゆる分野で研究がなされ、人類は「進歩」してきたとも言える。

 

物語を語る心は、不確実なこと、偶然、分からないことが大の苦手だ。

物語を語る心は、意味を見出すことに病みつきになっている。

(ジョナサン・ゴットシャル)

 

イスラム教徒。モスク。土葬。

この3つの句を聞いた瞬間に、あなたはどんな「物語」を自分の中で作り上げただろうか。

 

 

昨日、たまたま読んでいた本の中でも、こんな言葉が目に留まった。

ストレスとは、嫌なことに対する心の反応ではなく、あらゆる変化が心にかける負担のことを指す。

だから、現実が激変する時、私たちはできるだけ自分を変えないように必死に抵抗する。

心は変化を好まない。

だから、現実が変化してしまった時、私たちは心を閉ざす。

そのためにお決まりの方法に固執する。

(「心はどこへ消えた?」東畑開人著より)

私たちは変化にストレスを感じる生き物なのだということ。

そして興味深いのは、たんに人は「変化に後ろ向きである」のみならず、「変化に対して現実に心を閉ざ」し、「人は自分を変えずに済む人それぞれの方法」によって、必死に変化に抵抗するという指摘である。

これを読んで、私自身も現実に心を閉ざして、自分のやり方に固執した存在に過ぎないことに改めて気付かされた。

 

例えば「ルールはルールだから正しい」という方針でそれなりに平穏に暮らしてこられた人は、当然ルールには従うべきだ、という考えに固執する。

一方で、私はその方針では平穏に生きられなかったので、生きる中で別の方法を編み出すことになった。

私は多分、いろんなことを自分なりに納得できるまでしつこく考えて、他者の存在や色んな表現からヒントを得ながら、こうして文章を書き、自分の考えを確認しながら少しずつ自分が変わっていくことによって、不安に対処し、心の平穏を得ている。

それが、私の「お決まりの方法」なんだと思う。

 

ある変化を前にして、あらゆる人が結局、それぞれの「お決まりの方法」を遂行している。

自分を守るために。

その切実さとかたくなさじたいは、誰しも大差ないのかもしれない。

だから、「自分の方が正しいのだから」と、他者に変わるように一方的に迫るということは、自分は楽をして相手にだけ負荷をかける、ひどく傲慢な振る舞いといえるのかもしれない。

 

いずれにしても、誰にとっても変わることはしんどいことで、心に負荷をかけながら耐えねばならぬ、不快なことだ。

大事なのは、お互いにお互いのしんどさにちょっと思いを馳せながら、なんとか折り合いをつけようと試みる、試み続ける姿勢なのかもしれない。

 

不安や焦燥感と折り合いをつける方法は、それを解決してくれそうなヒーローを見つけることや、それをぶつけるべき敵を見つけることではない。

よく勉強して、情報を調べて、信頼できそうな情報ソースを見極めて、とにかくサボらないで考え続けて、「より鮮明な不安」を得ることしかない。

不安を解消するために、安易な安心を求めてしまうと、簡単に何かに使われてしまう。飲み込まれてしまう。

だから、安心をゴールにしてはいけない。

着実に学ぼう。確実に学ぼう。淡々と学ぼう。

(九月@kugatsu_deadio のツイッターより)

 

不安を安易に解消するために、イスラム教徒の人々が彼らの神に祈りを捧げる場所を持つ権利を、ヒステリックで理不尽なやり方で奪ったとしても、きっと誰も幸せにはならないだろう。

今回のことが、この町に暮らす1万人近い外国籍の人たちと、地域の学校に通う約400人の外国籍の子供たちと、地域住民との間に、どれほど深い溝を生むことになるだろう。

そしてそれは、人々の負の感情につけ込んで、金や権力を得たい者が意図的に煽り立てた状況なのだ。

 

一人ひとりが不安に浮き足立ち、不安に絡めとられるのではなく、今、自らの心の中に巣食う不安の本質とは何かを見つめる必要があると思う。

排除が何かを本当に、本当に解決するのか?

今、冷静に考える余裕がほしい。

短絡的な轍

今朝、LINEをチェックすると、普段は日々の農作業に関するやりとりが流れているだけの職場のグループLINEに、オーナーからいつもと違う色合いの長文が送られてきていた。

それは、ある署名への協力を要請する文章だった。

 

働いている農園の近くにモスクの建設計画があがっていることを、昨年からふとした折に聞いてはいた。

初めてそのことを聞いたのは夏の終わりで、昼休憩に農園の近隣に住むスタッフが、少し言いづらそうな感じをにじませながら、簡単に経緯を話してくれた。

これまで耕作放棄地の真ん中にあった仮のプレハブ的なムスリムの礼拝所がモスクにリニューアルされようとしていること。

現状、礼拝の日の短時間に少し道が混む以外は、特段問題が起きているわけではないこと。

モスク建設は正当な行政の手続きを踏んで、長い時間をかけて計画されてきたものであること。

いずれにしても、その時はあくまでローカルの出来事という感じの雑談話だった。

 

それが、知らない間にみるみる大きなニュースになっていたことを知ったのが、昨年末のこと。

地元の友達との忘年会の中で、友達のひとりが、市内にモスクが建築されつつあることを強い危機感を持って語り出して、驚いた。

彼女の家からは遠く離れた場所で起こっていることに彼女はひときわ関心を寄せており、ムスリムが土葬をごり押ししようとしている、などと熱く話し出して、ああ、またネットを真に受けたこの感じか・・・と悲しくなった。

この話題が通り過ぎれば、いつもの通り楽しく過ごせる、と思って、その場は黙ってやり過ごした。

 

同時期に、市役所前でのヘイトスピーチも目にした。

ヘイトスピーチを間近に見たのは初めてのことで、こんな身近で、とすごくびっくりした。

事情があってその場を離れられないシチュエーションだったので、大変に苦痛だった。

大きな拡声機で、30代くらいの女性がキンキン声で「イスラム教徒が悪を企んでいる」みたいなことを何十分も叫んでおり、それを男性が動画に記録していた。

市役所の職員さんは手をこまねいていて、何度か話しかけに行っては拒絶されて、遠巻きに腕を組んで見ているという状況だった。

心を閉じて懸命に耳に入らないようにしていたけれど、だんだん過呼吸みたいになってきて息が苦しかった。

その場にいる人に身体的なダメージを与えるほどには、禍々しい何かをまとった人たちであった。

駅前では、盛んにモスク反対のビラ配りやヘイトスピーチが行われるようになっていた。

先週の仕事帰りには、駅前に警察の移送車両が止まっていた。

ネットで新聞記事になっているのも見かけた。

 

そういう状況の中で、農園オーナーから「参拝の人々の車が交通渋滞を引き起こして業務に支障をきたす恐れがあり、近隣の農地がイスラム教の関連施設に転用される懸念から、自治会のモスク建設反対の署名に協力してほしい」との発信があった。

もっともらしく書いているけれど、ありていに言って、理由のための理由であり、単なる排外主義だなしょうもな、という以外の感想はない。

いや本当は、カッとなるくらい腹が立ったし、情けない気持ちになった。

 

改めて現状について調べると、やはりこの状況は意図的に煽られて作られたものだということが分かった。

モスク建設反対運動の中核にいるのは、排外主義の思想を発信することでアクセス(=金)を稼ぐ東京のユーチューバーや、票を得て議員になろうとする極右政党の党員だった。

彼らは「ヘイトの種」に目をつけて、わざわざよそからやってきて、勝手に反対運動の団体を立ち上げ、デマや誇張でイスラムフォビアを薪をくべるようにして煽り立てていた。

それを少なくない数の地域住民が真に受け、不安や憎しみを過剰に煽られて、ここ数ヶ月で急速にヘイトの空気が醸成されてきた。

 

人々の負の感情を煽って誰かを差別したり排除したりすることで金や権力を得るために、わざわざ遠くからやってくるような人たちがいるということ。

そのような胡散臭い者から一方的に与えられる偏った情報を鵜呑みにして、まんまと不安になり、当事者の話や考えを聞こうともせず、その人たちの思いや置かれた状況を想像することもできない人たちがいるということ。

そして、自らの漠然とした不安が耐えられないから、この社会にともに生きている人たちの正当な権利や人権を平気で反故にし、安易に排除することで解決をはかろうとする人たちがいるということ。

そういうことへの憤りと情けなさで、心が苦しくなる。

 

2025年の下半期、つまり参議院選挙以降、この国には排外主義が吹き荒れて続けているという感じだ。

昨年の7月の参議院選挙では、唐突に外国人問題が争点とされた。

本当は、大企業からの得た裏金で太り、統一教会という悪質なカルト宗教と癒着していた与党が、追及されなくてはならなかったのに、それらを脇に置いて、あらゆるうまくいかないことの原因があたかも外国人のせいみたいに語られていた。

日本人ファーストを掲げて、排外主義を大っぴらに主張する新興政党が大躍進をした。

分かりやすすぎる悪質な本質ずらしに、選挙のたびに毎回何度でも簡単に騙されて、政治家が恣意的に誘導したスケープゴート、つまり少数派で脆弱な立場にある者に罪や責任を負わせて、社会で迫害する。

ストレスのはけ口みたいにして、憎しみをぶっつける。

 

人々の暮らしを無視し、福祉を削って全方位的に増税を重ね、政治権力者だけは特権を享受するという悪政によって、人々は働きづめでも安心して暮らせないような、老人になっても働き続けないと生きていけないような生活を強いられている。

けれど、本来政治に向けられるべきやりきれない思いや、不安や、収奪感や報われなさといった怒りや憎しみの感情は、誰よりもずるいことをして受益していることが具体的事実として指摘されている政治家たちではなく、なぜか少数の弱い立場にある者への架空の「ずるい」にばかり向けられる。

そういうトリッキーな感情のロジックをどうしても必要とする人がいるからこそ、差別はいけない、と正論をどれだけ吐いてみたところで、差別はなくならない。

歴史を振り返れば、人間はこの凡庸なパターンを飽くことなく繰り返しているから、もはやそれは人間の性質の一側面なのだろう。とても残念なことだけど。

 

それでも、この短絡的な轍からなんとか抜ける方法ってないものだろうか。

あまりに馬鹿馬鹿しいが、それは人を殺すほどの凶暴さをはらむ。

自分の暮らす町で、こんなことが起こってとても情けなく、悲しい。

翻って、ベネズエラへの攻撃とICEの住民殺害に揺れている、トランプの暴政下にあるアメリカ市民の嘆きはどれほどのものだろう、と思う。

 

「藤沢モスク」建設巡りデマ広がる 影響は中学生のLINEにも(毎日新聞

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF-%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E5%B7%A1%E3%82%8A%E4%BD%8F%E6%B0%91%E3%81%9F%E3%81%A1%E8%A1%9D%E7%AA%81-%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%81%AF%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%81%AEline%E3%81%AB%E3%82%82/ar-AA1TqExl

作ることと幸せに生きることについての話

上映会の翌日、色々思いを語りたいだろうな、と思い、腰を据えて娘氏の話を聞く時間があった。

色んな話があった中のほんの一部だけど、彼女が今感じている素直な思いを、ほぼそのままに置いておく。

 

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これほど自分なりに頑張って、なんとかやり遂げ、それなりによくやったと認められても、結局わたしはひとりぼっちなんだなって、そのことをずっと思っていた。

 

私の中のひとつの真理っていうのは、一番大切にしないといけないものは、生活であるっていうこと。

自分が突然幸福を感じたりする瞬間ていうのは、必ず生活の中にあって。

何か心から響くような感銘を受けることも、やっぱり生活の中にある。

例えばすっごいいい映画を見た時の、すっげー!という興奮や感銘っていうのももちろんあるんだけれど、自分の中でずっと響き続ける幸福っていうのは、生活の中にしかない。

 

春にソファに座ってる時とか、窓を開けた時とか、外を歩いていて陽がくっと射す時とか、そういうふっという瞬間。

突然ふわって来る。それが今一番幸福だなって思う。

美味しいものを食べても幸せだし、好きな人に会っても幸せだし、いい映画見ても幸せなんだけど、それともなんか違う。

咲いている花や流れている雲を見た時の、ぽけっとした時に入ってくるもの。

 

むしろぽけってなるために、慌ただしく生きているというか。

慌ただしくなることとか興奮することとかに本質はなくて、その後にあまりにも疲れ切ってほけってなった時に、幸せを感じる。

 

だから、「すごくなる」ということと、幸福であるということをごっちゃにしてしまうことは、勘違いなんだろうね。

誰かに好きだよ、とか、良かったよ、とか、いいよ、とか言われる。

その賞味期限の短さ。

ていうかね、自分が重大に受け止めるほどには、他人は重大な気持ちで言っていないということがほとんどなので。当たり前だけど。

その逆もあって、自分が思うよりも他者が深く受け止め、時には誰かの人生が変わるようなことも起こるとは思うけれど、それは副産物でしかなくて。

そのために作ったわけでも、私がすごかったからそういうことが起こったのでもなく、ただタイミングが合いましたねっていう。

そこらへんが、ものを作っていると本当に色んなものがごっちゃになりやすい。

こういうものが「良いもの」なんじゃないかとか、色んな人の喜んでくれる顔が、とかさ。

色んなものが、絶え間なく自分の中にごっちゃになる要素として入ってきて、ものすごいぶれるんだと思うんよね。

だからむしろぶれさせるものに対して、何度も来る波に対して、ひたすらそこで立ち続けるということの方が、しんどい。

(星野)源さんとかは立ち続けた人の貫禄がすごい。

色んな作り手が源さんにリスペクトを感じるのだとしたら、そこなんじゃないかなと。

みんながみんな、すごいぶれる要素が、今はSNSとかから入ってくる。

誰かから突然褒められたり、突然けなされたり、そういうことが絶え間なく入ってくる。

承認と軽蔑と、そういうものに対してずーーっと揺らされながら立ち続けてきた人の貫禄を感じる。

源さんはある種、沖の方にいる人なんだと思う。

そんな深いところで、そんな強い揺れに耐えて立ち続けてっていう。

でも、浅瀬で生きることの、何がだめかっていう気持ちもある。

 

ある種の人は、どっちにしても沖に行くのかもしれないね。

大衆に承認されるような形にならなかったとしても、沖に行くんだと思う。

やっぱりいるじゃん、大衆的なものを作っていなかったとしても、沖で作業している人って。

それはもう、なんかその人の業というか。

沖の民は痛みが深い人が多い。こじらせている。

まあ、いかにぼーっとして生きているということが尊いかということなのかな。

 

私はもし、自分が小学生の頃のいかれた精神(なんでも丁寧に完璧に計画通りにこなす)のままで、もし回っていってしまったとして、そしたら何がしかの沖の民になっていたかもしれない。

なんかこだわりたい。なんか完璧に遂行したい。そういう。

一回沖に歩いていこうとする中で頓挫して、いやちょっと待って、沖の民の人たちってやばい人たちなんじゃないの?ってちょっと我に返って、笑。

だから、なんて言うんだろうな、完璧な作品を作りたい、自分の中で完璧に満足するものを作りたい、とか、「どこまでいっても満足することはないですね」とか言うアーティストの人とかっているけれど、あんなこと言いたくないって思う、ほんとに。

私は毎回「あーこれはこれで良かったな」って思ってやりたいから。

 

だから、(今回のことを経て)自分の中で考えていくんだろうなって気がした。

どういうところで、何を、どうやって作りたいか。

もし自分の作りたいものが見つかって、一人で作っても、それを今回みたいに誰かに見てもらう場をしつらえるというのが難しいなとは思う。

ただ作ってそれがどこにもいかないのもしんどいなって思うのよ。

誰が見てくれたということがひと段落というか。

 

いずれにしても「良い経験になる」だけでは続けられない。

なんでもいい経験にはなるしね、正直何やっても。

機会を与えてもらうということがどれだけ貴重かということも同時に存在するんだけれど、機会を与えてもらえるからなんでもやんのかというところもあって。

自分のバランスかなあ。

だからある種コスプレ撮影は、色々迷うところもあったけど、うん、ここらへん確かになんか居やすい!というか。

すごい撮影をする他のカメラマンを、なんでこんなめっちゃ上手い人がずっとコスプレ撮ってるんやろう、と思ってたけど、ちょっと分かる。

自分のやりたいことを、自分のやりたい人とだけ、好きなように探求できる。

 

近所の市民プールの25mプールの脇にある、丸いちっちゃな温水ジャグシーあるじゃん。

あそこみたいな感じなんだよね、コスプレのカメラマンたちがいる場所っていうのは。

休憩所っていうか、そういう感じがする。

だからみんなここに来るんやろうなって思った。

もちろん違うスタンスでいる人もいる、色んな人がいるけれど。

 

映像作るのって楽しいからなあ。

でも写真もそうだけど、撮るっていうことと編集っていうことは全然違うことなんだよね。

その両方やれば、確かに自分の意思は一番スムースに届くんだけど、両方やるのがしんどくなる時は結構ある。

編集の方が好きっていう人とかもいるけどさ、私はやっぱり編集が終わらないってずーっと言ってる。

編集を楽しいと思う時もあるんだけど、おおむね忍耐ってところがあって。

撮るっていうことの方が、自分の中ではよほど生命力が湧くようなことなんだよ。

 

映像は、写真よりもより文脈を変えられるところがめっちゃ大きくて。

写真は撮ったものに対して色付けや、ちょっとフィルムライクにしたりとか、確かに味わいを変えることはできるんだけど、まあ限度がある。

でも映像は本当に全く組み替えられてしまうから、撮った時とはかなり全然違ったものが違った形にして立ち上がらせるということもできる。

それはすごい面白いところなんだと思うけど、なんだろう、脚色する、嘘が上手くなる、みたいなことへの興味よりは、あるものを自分の中であるままに撮るっていうことの方が、興味が強い。

両方面白いとは思うけど。嘘が上手くなる方が面白いっていう人も結構いる気がする。

そのことに関してもリスペクトを感じる。

ただ、私はそれよりは、撮るっていうことの方に重きを置きたいな、って感じがある。

 

そんなことを思いながら明日も夏油傑を撮ってきますよ〜笑

本番終えて

本番当日はぎりぎりまで粘って、予定から30分遅れの10時半頃に会場入りした。

当然、MAなぞ全然やっていないので、会場のスピーカーで音出ししながら整音作業をやり、最終の書出しを始めたのが上映会の開始30分前というぎりぎりぶりであった。

親の私たちは、娘氏を落っことしたらさっさと会場を後にするつもりだったのだけれど、夫氏が会場の音響をやることを先方に暗に期待されていたこともあり、結局付ききりになった。

 

娘氏の編集に、最後の最後で口を出したくなかったんだけど、その場にいると色々気付いてつい言ってしまう。

夫氏はラストのシーン切り替えのタイミングや、ラストカットについてかなり具体的な指摘もしていて、ありがたいと思うと同時にもやもやもした。

どれほど時間がなく、それでどれほど上手くいったとしても、子どもの経験を奪うのはやっぱり良くないことだ。

結局、親は基本その場にいないのが一番なんだろう。

 

しかし直前の2時間の夫氏のテコ入れによって、カットごとのちぐはぐさがかなりスムースなものになり、ラストカットの追加によって余韻を残す終わりになり、作品がよりまとまったことは事実。

そういうちょっとしたことで、映像作品の印象は大きく変わってしまう。

つまり、見ている人がはたと我に返るというか、何かに気がついてしまうということが映像における「失敗」なので。

究極のナチュラルメイクみたいに、細心の注意を払ってあらゆる要素を調和させて、見る人が内容だけにフォーカスできるようにして、結果的にほとんど難しいことはなんにもしていないというか、ただいい素材を抜き出して繋いだだけみたいに思われることが、ドキュメンタリーの場合、成功というか成立しているということになると思う。

映像に限らずなんでも、人でも、えてして完成されたものほど、なんか簡単そうにささっとやっているように見えるものだ。

 

結局、1時間以上の作品を一度も通しで確認せず本番上映、という暴挙のわりには、作品は全く問題なく成立していた。

まあまあ奇跡的なことなんじゃなかろうかと思う。

映画館で良い作品を見た時に時々体験する、空気がぎゅっと収縮しているような、人々が作品にぐっと集中して息を止めて見ている気配、高まるシーンではあちこちから鼻をすする音が聞こえ、映像が終わって黒い画面の沈黙が降りる最後まで気持ちが逸れることなく、やがて少しの間があって、あ、終わったと、おのおの現実に戻ってくるあの感じ、が、まさにその場に起こっていた。

そんなことを初めて作った作品でできるものなのか。

他人事のように、ただ感心して眺めていた。

 

作品は、夕方まで人を入れ替えながら複数回上映され、娘氏は半日のあいだ、スクリーンの脇の機材席にぽつんと座って、会場の反応をつぶさに見続けることになった。

そういう状況もなかなか珍しいことだ。

多くのテレビ番組の放送やwebやサブスクにアップされる映像作品においては、作り手はどこで誰がどのように見ているか分からない形で作品を提供することの方が多い。

一般的な映像の作り手は、リアクションという形の手応えって得られないことの方が多いのだということを、長年夫氏の仕事を隣で見ていて思う。

 

初作品にしてこういう形になったということは、他人事としては恵まれたことだと思うけれど、本人的には、最初に依頼された時の話(内輪の打ち上げでわいわい飲み食いしながら見る5分くらいの気軽な映像)という話から、本人の意思確認をほぼすっ飛ばして、どんどん盛り上がって話が大きくなって1時間の作品になり、預かり知らぬところでポスターやチラシが作られ、気付いたら大変なことになってしまった、と、プレッシャーの重たさから大いに戸惑い、憤慨し、悲嘆に暮れていた。

動画の撮影もほぼ初めてなら、本格的にプレミアを使うことも初めてという状況で、短い締め切りに間に合わせることが本当に本当に大変そうだった。

 

一方で、主催側が良かれと思って機会を与えてくださったということも分かる。

でも今は、YouTubeなどで誰でも映像を作っている時代だから、それこそ切って貼って繋げれば形になる、みたいに、それなりに簡単なことと思われているんだろうなとも思う。

大人同士のやり取りなら、さすがにそんな一方的に話が大きくなるようなことにはなかなかならず、どこかでブレーキはかかるものだとは思う。

結局のところ、娘氏はまだまだ子供で、きちんと自らの状況を説明しできるような段階にはなかった、それゆえの大人たちのあなどりもあった、ということなんだろうなと推測する。

いずれにしても、全てが初めてのことなので、娘氏には見通しの立てようもなかっただろう。

 

夫氏は「でもなんだか『千と千尋』そのまんまみたいだ。娘氏は千、依頼者はさしづめゆばーば、ぜにーばっていうか」と言っていた。

宮崎駿は、「千と千尋の神隠し」を企画するにあたって、こんな言葉を書き残している。

かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供たちはひ弱な自我を肥大化させるしかない。

けれども、抜き差しならない関係の中で危機に直面した時、本人も気付かなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分が抱えていることに気づくはずだ。

 

まーなあ、ものごとには全て、良い面と悪い面が存在するよなあ。

ものごとは、見え方捉え方次第ではある。

私個人は、自分の殻をぶち破って成長する機会を与えた、というロジックで、未熟な者に対してのあらゆる無茶振りは果たして正当化されるものだろうか、とは思っている。

 

それでも、行動して、いろんな人と関わることでしか、人生は動いていかないとも思う。

だんだんと社会に出られるようにはなってきたけれど、社会との関わりがまだまだ少ない娘氏には、しんどくとも表に出て、あらゆることを学びとしてだんだんと「自分のやり方」を確立していってくれるといいなと思っている。

本番当日

気もそぞろで、夜半に目が覚めて寝付けなくなってしまった。

今日の午後、娘氏が撮影、編集したドキュメンタリー作品の上映会がある。

でも、朝5時の時点でまだ完成はしていない。

オーノー。

とりあえず温かいはちみつ紅茶と、ミルクキャンディーを差し入れて、がんばれと言って扉を閉めた。

 

この2ヶ月以上、娘氏はバイト以外はほとんど誰にも会わず、正月の集まりにも行かず、私たち家族ともすれ違いの生活。

いつ起きていつ寝てるのか分からないような状況の中で、ずーーっと自室にこもってひたすら映像編集をしていた。

時折、顔色悪くぼさぼさの髪で台所へ降りて来て、後悔や反省めいたことを口にしたり、そもそもの疑問みたいな、今そんなこと言ってる段階じゃないでしょ的なことをとうとうと語り出したりして、心許ないことこの上ない。

映像制作を生業とする夫氏の助けを借りるように勧めても、ここ数年、表向き和やかに接してはいるが、父親に対して内心強い怒りと反発を抱えている娘氏は、「全部が分からなすぎて何を訊けばいいかもわかんないし、だいたい、夫氏の存在は自分の助けにはならない」と言って頑なに拒否をする。

本番の日はどんどん迫ってきて、さすがに心配で、今何がどうなってんの、大丈夫なのと尋ねると、途端に仏頂面になってもぐもぐ何かつぶやきながら去ってしまう。

まじで厳しいなら、主宰の方に正直に状況を話した方がいい、たくさんの人が関わっていることなんだから、と言うも、聞こえているのかいないのかという感じ。

私が代わりに連絡しようか、と言うと、自分からするからやめてと言われ。

でも、結局スマホの電源は落としたまんまだったことが後で分かった。

 

結局、一昨日の夜になって、初めて夫氏が編集途中の映像を見ることになった。

粗繋ぎの未完成状態だったことを聞かされ、やっぱりか・・・と震え上がる。

もう手遅れのタイミングだと天を仰いだけれど、夫氏がとりあえず主宰者に状況を報告した方がいいと思うと言うので、昨朝一番で私からメッセージをした。

すぐさま返信があり、でも少しも慌てふためくことなくさすがの対応であった。

これから仕事に入るので、何かあれば連絡取り合いましょう、と言い合って1日が過ぎた。

 

夕方、前日の蟹鍋の出汁を使っておでんをこしらえていると、ドアのチャイムが鳴り、宅急便かなと扉を開けると、主宰の方が立っていた。

突然のことにびっくりしつつも、そりゃまそうだと申し訳ない思いで中に入っていただく。

ちょうどかたわらに休憩中の娘氏がいて、一瞬恐縮しつつも、もう精神状態が相当変になっているので、なんか超然とした状態で、自室からノートPCをしずしずと持ってきて、編集中の映像を私も含めて3人並んで見た。

 

そしたら、確かに作り込みは足りないのだけど、昨夕時点で9割がた繋ぎ終わっており、少し胸を撫で下ろした。

何より撮影がとても美しかったこと、アイデアの豊富さや切り取り方、編集の感覚に驚き、そして被写体に対する眼差しがひしひしと伝わってくることに、心動かされずにはおれなかった。

彼女はこの2年あまり、SNSで繋がったコスプレイヤーの友人たちの撮影をしまくってきた。

あたかも千本ノックみたいな過剰さで、その都度、膨大なレタッチもこなしながら。

それらは仕事ではなかったけれど、相手がある撮り直しのきかない、千差万別の現場であり、毎回多くの学びがあったことは間違いがなかった。

彼女はその日々の中で相当鍛えられてきたのだと改めて感じた。

親のひいき目もきっとあると思うけれど、私もたくさん映像を見てきたので、彼女が初作品にしてすでにオリジナルな自分のカラーをもっていて、一定のクオリティーに達していることくらいは分かった。

 

夫氏は一昨日、中途半端な状態だと、とても心配な状態だと言った。

彼は映像を生業にしているから、プロはクライアントに求められたものを、期日につつがなく納品するということが基本のきだから、当然そういう言い方になると思う。

(それでも映像の美しさに関しては褒めていたが。)

娘氏は、ほぼ小学校しか行っていない。

中高の学校生活というのは、常に期日というものがあり、それに向かって見通しを立てて準備をして、何かしらの提出物を出したり、テストなどに臨む、の繰り返しの日々だ。

つまり、彼女は間に合うように何かをしていくという経験が、中学高校に通っている人に比べて圧倒的に少ないままでここまできている。

そのことがすごく可視化された今回のことだった。

 

それは確かに本当に課題なんだけれど、今も2階の部屋でこの期に及んでまだ編集しているなんて、まじでありえないことなんだけれども、それでも私はふつふつと嬉しかったし、誇らしかった。

昨夕、映像を見ていた主宰の方の目の輝きが全てだと思った。

だんだん被写体たちの顔が変わっていく過程、化粧っ気のない彼女らの凛とした美しさのあらわれた画の強さ、インタビューでの胸を打つ吐露。

それが詩的でありながら思いが伝わってくる美しい映像であったことが、何より大切なことなのではないかと思った。

 

ついさっき、なんとか最後まで繋ぎ終わった・・・!これからひとっ風呂浴びて出られる準備をしてからぎりぎりまで編集したいから、会場まで車で送ってくれましぇんか・・・とよれよれのていで娘氏が言いにきた。

よしきた、風呂は30分で済ませな、と請け負った。

はなからそのつもりでルート検索も済ませている。

 

泣いても笑っても、9時10分にゲームオーバーだ。

通しで見直すこともできないままで上映するなんて、まあ中途半端極まりないことだ。

見直すたびに直しや間違いがどこまでも湧いて出てくるのが映像作品というものだから。

しかし、彼女の作品が、テクニック的には稚拙でも、見る人の心を動かすものになっていることは現時点で確信しているので、どこか安心している。

あとはあの素晴らしいインタビュー映像たちをできるだけ差し挟む時間があって欲しい。見られないのはあまりにもったいない話たちだったから。

残り3時間のタイムアタック

娘氏よ、最善を尽くせ、成長せよ。

そして今日の午後には一人の観客として大いに作品を楽しみたい。

謹賀新年

慌ただしい12月を、なるべく近しい人たちに思いを馳せつつ、なんとかかんとか目の前のやれることをして過ごして、なだれこむようにして2026年の世界に入った。

あけましておめでとうございます。

 

みな、生きてるだけで十分よく頑張っているのだから、できるだけつらいことや悲しいこと少なく、幸せで、優しい気持ちで毎日を過ごせますようにと思う。

そう思えるのは、私が私なりに充実した日々を過ごせているからなんだと思う。

誰かに惜しみなく渡せるくらいには、いつも心に余裕を持っていたいなと思う。

今年もまずは自分に優しく、親切に、自分を自分の一番の親友としてやっていく。

 

昨年の年の瀬は、とりわけ味わい深い日々で、いろいろな思いが去来したが、落ち着いて考えを書く時間が持てなかったので、また振り返りながらぼちぼち書いていきたいなと思っている。

書くことについての今年の目標は、とにかく!短く!書くよう努める。

最長でも2000字以内に収めるようにがんばろう。

うちには小さい子がいるから、いつも文章がこま切れでしか書けなくて、時を置いて見直すと、全部書き直したくなってしまうということが多かったけれど、なんか、もっと素直に、心が動いたということを大事に、さらさらっと書きたいものだ。

いろいろ欠けていても偏っていても、いいじゃないか。

それが名もなきブログの味わいなんだから。

 

晦日は、遅くに年越し蕎麦を作るからと、紅白など観ながら、肉まんを蒸し、チップスやちょっとしたつまみを広げてだらだらと過ごした。

結局それでお腹いっぱいになって、蕎麦は食べられなかった。

ハイライトは、昨年ライブにも参戦した星野源のステージ。

私の2025年の1曲は、源さんの「eurika」だったなあ。

昨年騒動があって、脳面のような顔で演奏した源さんは、もう今後は紅白に出演しないと思ったが、京都から収録という形で参加するとぎりぎりで知って驚いた。

「創造」の祝福のような彼の言葉は、よい魔法使いの言葉だ。

昨年秋のツアーファイナルで「この6年。もう、うんざりでした。」と言っていたのに、それでも踏ん張って持ち直して、善きものを見せてくれた。

嘘やまやかしに気圧され、何が本当か分からない世界にあって、孤独に誠実にものを作り、与えることで生き延びていく人の存在は、希望としか言いようがないなと思いながら見た。

 

末っ子の寝静まった深夜に、近所の神社に夫婦で参拝することもできた。

切れるような寒さの中、焚き火に照らされながら手袋をした手を繋いで行列した。

参拝の順番が来て、自分と皆の健康をぐっと祈っていたら、顔を上げたら夫氏はもう隣にはおらず、後ろの人が待っており、10円で長く祈り過ぎたことに照れた。

昨年は、夫という人の、男の人の、弱さやしんどさをいろんな局面で感じ、いとおしく思うことがたびたびあった。

ずっと何もかも頼って、見上げるようにして一緒にいたのが、気付けば私の方が強くなっていて、心底びっくりした。

本当は、私たちは最初からずっとそうだったのかもしれない。

疎んじられていると思っていたのに、ずっと変わらず彼なりに好きでいてくれたことに気付いたことにも、相当驚いた。

私は何にも分かっていなかったなあ、と思った。

私は安心してここにいていい、私がこの家族の妻で母であることで家族に迷惑をかけてないし、かけていたとしても堂々といていい。

そのことが腑に落ちた昨年だった。

今年も、夫氏といたわり合って一緒に生きていきたいと思う。

毎日お花に水をやるように。

 

元旦の日中は、それほど寒くなく、空気は澄んでからりと晴れた。

いつものように朝からお雑煮の準備をして、年末に仕込んだいくつかのお節料理を重箱に詰めて、義実家に行った。

認知症のお父さんは、随分口数が少なくなった。

元気な時のお父さんは、誰よりおしゃべり好きでいつも場の空気を支配していたのに、昨日は一緒にいるのに蚊帳の外みたいに、ポカンとそこにいた。

中学2年の甥っ子と5歳の末っ子だけが暴れ犬みたいに異様に元気で、エネルギーの異和がすごかった。

大人はみんなやれやれって、でも子どもらの元気さに助けられながら、どうということもない世間話をして過ごした。

恒例になっている、車で5分ほど行った場所にある小さな神社に皆で初詣に行き、その後ついでにお墓参りも。

皆はわいわい先を行き、私は杖をつくお父さんの横をゆっくり歩いた。

急な勾配の参道を慎重に登りながら、「ここは、こんなふうになっていたのか。はじめて来た。」と静かに、感嘆するように言っていた。

彼の生きている世界は、どんななんだろう。

親たちは、生きている姿を見せることでいろんなことを教えてくれている。

風ひとつない湖面のような、しんと静かで心穏やかな、今年の始まり。

 

何か創り出そうぜ 非常識の提案

誰もいない場所から直接に独(いち)を創り出そうぜ

そうさYellow Magic

色あせぬ遊びを繰り返して

 

ぼくは生まれ変わった

幾度めのはじまりは澱むこの世界で遊ぶためにある

配られた花 手札を握り変える 運命を

あぶれてははみ出した 世をずらせば真ん中

 

やめられない遊びを繰り返した進化を 

君に 外れものに 授ける

 

目下捻りだそうぜ 閃きの妙案

枯れ枝咲いた場所から手を振る

普通とばたつく未来を水平に見た考案

途方もない学びを繰り返して

 

時の大海で 喧騒の波間で 驚いた笑顔見せて 

(「創造」by星野源

全ては遊び。

淡々と、学び、つくって、笑っていこうっと。

「エディントンへようこそ」

 

2025年アメリカ/原題:Eddington/監督:アリ・アスター/148分/2025年12月12日〜日本公開

2025年を締めくくるのは、アリ・アスターの新作。

万人受けする作家ではないのだろうけれど、やっぱりアリ・アスターは私には感覚的にすごくしっくりくる。

彼の描く人間に納得性を感じる。

基本怖がりなので、ホラーでないのも助かった。

「ミッドサマー」や「へレディタリー」は怖すぎてそうそう見返す気持ちにはなれんもんなあ。

 

アリ・アスターの作品って、見る人を不安な気持ちにさせるとか、嫌がらせみたいとかよく言われる。

確かに「ボーは恐れている」に続いて今回も、ホアキン・フェニックスはサンドバックであった。

でも、私にとってはアリ・アスターの作品はリアリズムでしかないし、彼は上にばかがつくほど素直に、公平に世界を見ている人だと思う。

彼の作品がシニカルでグロテスクなのだとしたら、それは現実のある側面が実際にシニカルでグロテスクであるからに他ならない。

そもそも、「本当のこと」を言う者を、人は嫌うものだ。

人間世界は「そういうことにしておく」という暗黙の了解で埋め尽くされている場所だから、人々に深く内面化された人間世界のルールを揺るがして人々に気まずい思いをさせたり、不安にさせたりする者は、憎まれ排除されることになる。

アリ・アスターは、あえて「言わない約束にしていること」を、独特のユーモアの感覚にのせて映像にして見せてくれる。

 

また、本作はコロナ禍という舞台設定も相まって、よりストレートに今の世界の空気感をぎゅっと凝縮するようにして見せてくれてもいた。

インターネットによって、人がそれぞれかけ離れたまるで別次元の現実を生きるようになっていて、孤独で、互いを排除しあっている世界。

荒唐無稽な嘘が人々の暮らしに浸食し、あちこちで対立が煽られ、ヘイトや集団ヒステリーが頻繁に勃発し、だんだんもう訳が分からなくなって、カオスになって、人々が思考停止に追い込まれている世界。

しかし、どれほど悩みあがこうが、食物連鎖のように、あらゆるものがより強く大きい存在によって貪欲に消費されていく。

結局、立ち向かいようもないくらいに巨大で顔のない圧倒的な権力の前に、私たちの生の何もかもが吸い上げられ、利活用されていく。

我々は逃がれ難くそういう世界に生きているという、無力感と虚しみと閉塞感を伴った感覚が、なんとも「今」であった。

 

人間世界のありのままを直視し、それを寓話の形にして差し出したい。

そんな彼の作品に、私はいつだって救われているし、彼の表現に自虐を含んだ痛快さを感じている。

 

すごくて尊い人間と、すごくなくてつまらない人間がいるみたいなことは、錯覚でしかなくて。

人は、一見すごく違うように見えて実は大差なく、誰もが弱く、ずるくて、ファニーで、偏ってて、粗暴で、かわいいし、とても哀れなものだ。

人は誰でも、基本的にはその人なりに正しく、善くあろうとしているものだと思う。

けれど、そうあれないような個人的状況や、社会状況がある。

あるいは、なにかしらのアクシデントや出来事があって、自分にリスクが及ぶような状況が生じることがある。

そうした場合に、人ってわりと簡単に裏切ったり、嘘をついたり、保身のために人を陥れたりしてしまう、その程度のものだ。

いい人とは、「その人がいい人でいられるような条件下にある人」ということである。

 

すごく高尚で正しいことを考えているように見えても、実は別に深い考えなどなく集団の中で流されているだけだったり、正義という名のもとに行使される暴力を楽しんでいるだけの場合さえある。しかも無自覚に。

大きな主語で語られることは、しばしば個人のことである。

大きな主語で語る人は、しばしば退屈している人である。

大義に夢中になり、目の前にある当たり前の暮らしや近しい人間関係をないがしろにしてしまう。

自分の思う大義が、相手にとっても幸せなことだと思って、相手の意思を尊重せず、自分の欲望のままに突き進む。

あるいは、偏っていようがなんだろうが、自分が信じたいものを盲信することで幸せになろうとする人がいる。

それって、全然スクリーンの中の特別な人の話じゃなく、自分を含めて目の前にごろごろいる、普通の人間たちの姿である。

 

特別な大事件などなくとも、一人の人間は日常の中で、いかようにも変容する。

親切にも不親切にも、善良にも残酷にも、慎重にも衝動的にもなる。

しかも、ほんの些細なきっかけや、感情を揺さぶる何らかの入力によって。

人はそれぞれ何かを大真面目に信じ、その世界線に巻き込まれ、人生をまるごと捧げてしまうこともある。

しかも他人から見ると、それは笑っちゃうほどうさんくさくて荒唐無稽なものだったりする。

人それぞれの宗教性。

 

アリ・アスターの映画には、超人的なヒーローやヴィランは登場しない。

それでも十分どびっくりだし、怖いし、笑ける。

一番訳が分からなくて、怖くて、可笑しいのは人間だから。

人は誰しも、普段その人なりに頑張って均衡を保っているが、一旦何かがあってそれが崩れれば、ひどく不確かで、意味不明な暴走をしたりもする。

人も、この世界も、一皮剥けば狂気じみている。

とりわけ今の時代は、ほんとうにそうだと感じる。

人間世界に内包された狂気を、誇張し拡大する映画。

その眼差しは哀れみを含み、同時に彼は人間をどこかかわいらしく描く。

そんなアリ・アスターの映画が好きだ。