みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

ようやく復活

末っ子が1週間ぶりに登園。やっと通常モードに戻ってほっとひと息ついている。

土曜日に再度別の小児科にかかったのだけど、今度はとても良かった。

前日の電話対応も、待合室の雰囲気も、医師の佇まいも、診察の仕方も説明も、和やかで簡潔であった。

末っ子はアデノウイルスに感染していたことが検査で判明。

先日の病院では検査もせず、同じ園に同症状の子がいたことから感染症の疑いを伝えるも否定されたけど、やはり感染症だった。

今回の医師は、見立て、対処、今後の経過について過不足なく説明してくれた。

これが普通のことだと思うけど、先日の小児科に限らず、患者に病気についてほとんど説明をしてくれない医師に当たることは時々ある。

最近では、義父の癌治療の担当医がそれであった。

結局セカンドオピニオンを経て、訪問医から勧められた別の医院に移ることに決めた。

 

医療など生活の基盤に関わる部分については、日頃からしっかり情報収集してできるだけスタンバイをしておかねばと思う。

各種専門家のスタッフィング大事。暮らしのクオリティに直結する。

何につけ、前もって備えることが苦手なたちゆえ、今一度自分に言い聞かせておこう。

洗った米に浸けられたトミカたち

 

とにかくしばらくはもう、病気は勘弁。

確定申告作業もぼちぼち始まるのだし。

「対峙」

2021年アメリカ/原題:Mass/監督:フラン・クランツ/111分/2023年2月10日〜日本公開

 

2021年にアメリカ国内の学校で起こった無差別銃乱射事件、249件。

これは休日を除くほぼ毎日、国内のどこかの学校で銃乱射事件が起こっているということで、あまりに異常な社会状況だといえる。

 

本作は、実際の銃乱射事件の加害者/被害者両親の対話の記録にインスピレーションを受けて作られたフィクション。

事件後6年経っていまだ立ち直れない銃乱射事件で息子を失った夫婦が、セラピストの導きで、息子を殺した加害少年(犯行後自殺)の両親と対話する。

 

ほぼ全編が部屋の中で4人が話しているシーンのみ。

あまりにも折り合いのつかない、苦悩に満ちた状況を、ただ息詰めて見守る。

俳優の真に迫ったやり取りに圧倒される。

見終わった時には、へとへとになった。

 

何がどうだった、とおいそれと言葉にできない気持ち。

ここで語られているものはあまりに重たい。

こんなに辛いことがあっても、人は生きていかねばならないのか、と思う。

そしてアメリカにおいては、このような人々が毎年何百人単位で増え続けているという現実がある。

なんという悲劇だろう。

 

ある種の物事においては、誰が悪かったのか、何が悪かったのかという犯人探しをどんなにやっても、根本解決はなく。

いろいろな偶然や、複合的な要素が絡み合った末に不幸に結びついてしまった、誰もができるだけのことをしようとしたが、避けがたく最悪の事態に至ってしまったということが世の中には存在する。

 

許しあるいは赦しって、なんなのだろうとずっと分からなかった。

相手のために、大人になってこだわりを手放すとか、包摂するとか、そういう事はどこか無理のある、きれいごとのように思えた。

でも本作の「赦す」には深い納得性を感じた。

 

本作のクライマックスは、被害少年の母親ゲイルが「加害少年の両親を赦す」と言うところだと思う。

彼女は言う。

「過去に別の現実を望む気持ちに、私はこれ以上人生を支配されたくない。私は生きていきたい。だからあなたたちを赦します」と。

相手のためとかそんな甘いことではなく、解決もなく、自分の人生のために赦すのだ、とゲイルは言った。

不幸でい続けることを心底もうたくさんだと思うくらいに、疲れ切ってへとへとになるほどに6年間悲しみ尽くし、恨み尽くした末に。

 

だから、誰かの深い悲しみや恨みに対して、他人がもう許せだの忘れろだのしのごの言うのは、本当に大きなお世話なのだと思う。

それは、ゲイルにとって不可欠なプロセスだった。

誰にもその人の人生のプロセスを奪う事はできないし、してはいけない。

自分自身の人生のプロセスを他の何かや誰かに明け渡してしてはいけない。

 

 

対話が始まる前に、対話の場には参加しないカウンセラーと教会のスタッフとの会話で、対話の場のしつらえ、どう場を整えるかに細心の注意が払われるシーンが印象深かった。

自分も当事者会をやっているので、話す人にとって安全な場をつくる重要性をすごく感じている。

些細なことで、対話は暴力的になりうる、全てが無に帰すことになりうる。

鈍感さやノイズが命取りになる。

雑さや傷つきはもちろん、人との関わりでは完全には避けられないことだから、受け流すいい加減さも大事だけれど。

本作のようなケースは、いくら配慮してもしすぎる事はないくらいに、センシティブなケース。

 

人生には苦しくやりきれないこと、すっかり打ちのめされてしまうようなことが起こる。

それでも命が終わるまでは、人はなんとか生きていかなくてはならない。

そのために、安全に自己開示できる対話の場は不可欠なものだと思う。

誰かの一方的な価値観やジャッジで否定されたりマウンティングされたりすることなく、安心して自分の本心を語ることのできる場を、一人ひとりが確保できることは、命綱だと思う。

対話が全てを簡単に解決できるわけではないけれど、心を開いた対話の価値をこの作品は教えてくれていると思う。

 

今月二度め

ここ数日で風が柔らかくなってきている。

近所の神社の河津桜も咲き始めて、春の気持ち。

途端にうずうずと動きたくなっていたところに、保育園から電話。

末っ子がまたも発熱とのこと。

お迎えに来てくださーい、とさくさく告げられる。

 

一昨日の朝はいつも通りだったのが、帰る時には目やにがいっぱい出ていてびっくりだった。

今月初めに園で高熱の風邪が流行った時にもばっちり移ってしまったので、またも保育園で何か移されてしまったか、うへーかんべんーと正直思ったけれど、まあうちの子もたいがいばいきんまんである。

保育園はお互いさまで、なんとかやっていくしかない。

今月2回目の離脱。そうなると私は全てお預け、末っ子最優先モードになる。

年明けからずっと仕事がスローだった夫氏も、ここに来て急に忙しくなり、頼りにならないどころか気を遣い(家が作業場なので)、昨日は倍疲れた。

 


普段病院には滅多に行かない方だが、目やにがすごいので昨日は小児科に行ったが、まあ大変だった。

まず、とにかく混んでて2時間待ちだし、発熱してたら子どもは待合室に入れてはいけない、受付も問診票も薬局も親だけしか入室できない、診察室ではずっと抱っこをしていないといけない、ここに入ってはいけない、これに触ってはいけない、一挙手一投足注意される感じであった。

あーそうだった、病院てこういう感じだった。

たまたま娘氏も一緒だったから対応できたけど、大人が一人だけだったら、これ物理的に無理だよね的な指示が多々あった。

衛生上の観点から、そりゃ正しいのだろうとは思う。でも、何の想像力もなくただ正しいことを事務的に言うだけなんだなと思う。

悪意のあることではない。ただただ皆忙しくて余裕がなくて、心を節約している。

私は日頃からそういう場所との接触は極力減らして行く方向だけれど、今はどこも大体そういうもんだと慣れるべきなのだろうな。

ただ、育児していてこういうことの重なりが地味に心を削っていくと思う。

とりわけ、シングル家庭やワンオペ育児で頭数が少ない育児では、すごく削られるだろうと実感する。

 

診察はお腹に聴診器を当てて、喉にライトを当てて。それだけであった。

目やにでいっぱいの目は、特に見もせず目薬が出され、原因を尋ねるも「鼻水がひどいと目やにが出ることもあります」とのみ。でも、母子手帳を見てワクチンを受けていないことについては上の子の時はどうだったとかまでしつこく色々聞かれた。

その医師とは一度も目が合わなかった。

時間と労力のわりにこれかーと思った。

薬局のお兄さんがわりに親切な方で、幼児への目薬の入れ方などをアドバイスしてくれたのはありがたかった。

 

昨夜は末っ子の機嫌の悪さも最高潮であった。

ぎゃーぎゃーわめいて当たり散らし、蹴りまくられ叩かれまくり、そのうち力尽きて30分足らずの浅い眠りに入り→また不快で起きてぎゃーぎゃー以下同文、というサイクルが4ターン続いて、へろへろになった。

途中、少しけいれんを起こす。肝を冷やしたが、それで逆にスイッチが入った。

幼児は自分の状態を口で説明することができないから、そばについてる大人がしっかりよく観察をして判断しなくちゃならない。それは私。緊張感で眠気も吹き飛ぶ。

それにしてもけいれんは本当に慣れない。

高熱のたびにけいれんする子を育てるのは初めて。

私は毎回恐ろしく、胸がどきどきする。

 


嫌な汗をかきながら、浅い眠りで朝を迎える。

末っ子は、固まった目やにがすごくて目が開かず、朝からぐずりまくりだったけど、熱い蒸しタオルをまぶたに優しく置いて、ゆっくり時間をかけて目を拭いてやると、嘘のように機嫌が直ってにこにこした。

そうなると、昨夜散々な目に遭わされたのに、全部忘れたみたいに、私もあっという間に機嫌が良くなってしまう。

全く、この小さな物体になんて振り回されてることだろうか。

鼻水をこまめに拭いてやりながら、腹を決めて末っ子とだんごになってごろごろ過ごしていると、おおむね機嫌も良く、熱もだいぶ下がった。

明日の祝日しっかり休めば通常モードに戻れそう。

末っ子は野菜雑炊を3杯お代わりしてぱくぱくと食べ、今はすうすうと眠っている。

「フィッシャー・キング」

フィッシャー・キング | ソニー・ピクチャーズ公式

1991年アメリカ/原題:The Fisher King/監督:テリー・ギリアム/138分

 

夫氏のオールタイムベスト。彼は何かっちゅうとこの映画で例えたがる。もちろん、私も大好きな作品。

映画館での視聴は未見で、今回「午前十時の映画祭12」でかかることを知り、娘氏と3人、気合いを入れて早起きして行ってきた。

 

観ること自体も久しぶり。30年前の作品だし、さすがにところどころ古くさく感じるのかも、と思いながら見たけれど、やっぱりすごい作品って、時代の試練に耐えて全く古くならない。

ただし戸田奈津子さんの字幕は、今見ると首をひねりたくなるところ多々であった。

 

一番脂の乗った時期のテリー・ギリアムのパワーにしびれる。

極限まで削っての138分、余計なシーンは一つもない。適当なところが一つもない濃密さ、ぎゅんぎゅんに詰まっている。

独立して粒立ったインパクトを持つひとつひとつのシーンが、次々たたみかけるようにして物語を最後まで運んでいく。

未来世紀ブラジル」とはまた違う、天才的に個性的なその感覚が、愛らしくファンタジックに表現されているところがやっぱり大好き。

優しくて可笑しい、でも背中合わせに人生の残酷さがある。

その怖さも含めて、とても寓話的な味わいのある作品だ。

 

セリフや内容が大方頭に入ってしまっていても、全然だーだーに泣ける。

あーこの次このシーン来るーって思って、そのシーンが始まる前に泣いている(笑)

今回大画面で見たから気がつくことがいっぱいあったけど、美術の素晴らしさにも目を奪われた。

パリーの地下室のねぐらや祭壇のデザインとか、作り込みがすごかったなあ。

セントラルステーションのダンスのシーンも、やっと大画面で堪能できて、とても幸せなひとときだった。

赤い騎士のシーンなどの幻想的なシーンの表現が、今見ても全然遜色ないのすごい。

現実と非現実の境目が切れ目なく溶け合っている。

今ある現実とパラレルで、彼の目には実際そのように世界が見えているということがとても自然に感じられる。

4人のキャストそれぞれの一人ひとりの人間味、素晴らしい脚本。全部の要素が奇跡のように調和している。

中華料理屋での最高に可笑しい食事のシーン、撮影も美しく何度見ても愛らしい。

そしてその後の愛の告白のシーン。一度はこんな風に言われてみたい。泣かずに見られたことがない。

 

 

人生は、取り返しのつかない失敗や事故や暴力などで、理不尽に損なわれてしまうことがある。

時間はどうしたって巻き戻らず、失われたものは返らず、奪った者に一矢報いることさえほとんどできない。人生は容赦なく、残酷だ。

それでも私たちは皆、人を愛する気持ちを持っていて、たまたま隣りにいた誰かとほんのひと時、愛情を交わし合う。

目の前の人が望んでいることを素直にしてあげる、素朴な親切や優しさが人の命を救う、それが「フィッシャー・キングの聖杯」。

そのような愛情を受けた時、人は人生は生きるに値すると感じることができる。

自分みたいな者も生きてていいのかなと。もうちょっと、頑張ってみようかなと。

大したことはできずとも、隣りの人に優しくありたい。

その気持ちに何度でも立ち返らせてくれる大事な映画。

明るくあることを選ぶ

結局、雨の中飲み会は決行されたのであった。

末っ子のお迎えの後、車で指定の広島風お好み焼き居酒屋へ。

予想通り話が尽きず、結局店が閉まるまで喋り続け、私が車で来てるのをいいことに駅前のファミレスに移動してまたもファミレスが閉店するまで喋り続け、やっとこお開きとなった。

 

長く会わない間に、5人中2人が死にそうな目に遭っていたことにもびっくりしたし(うち一人はコロナ感染)、年相応のいろいろなことがそれぞれに降りかかるさまにもしみじみした。

けれど、お互いの子供たちが皆健康でそれぞれの好きなことに向かって楽しそうにやっているのがとても嬉しかったし、何より友達の全然無理してない感じの朗らかさに、話にぎゃははは!と大笑いしながらも、内心じーんと胸を衝かれていた。

 

生きていると避け難くいろいろなことがある。

私たちに選べることは実はそれほど多くはない。

けれど、起こったことにどう向き合うか、その態度だけは自分で決められる。

 

相当なことがあったのに、あったからこそ、推し活などのやりたいことを悔いなくどんどんやり、明るくあることを自分で選んでいる。

そのきっぱりと、あっけらかんとした、地に足のついた姿勢。

ほんとうにみんなよくやってる。えらい、えらいなあ、と感服し、私も去年からぐじぐじ思い悩み、恨みに思っていた気持ちをそろそろ忘れて、いい加減前に進んでいかなくっちゃ、とやっと本当に思うことができた。

気晴らし以上のものをもらって、感謝しきれない気持ち。

 

真夜中に私の運転する車で一人ずつ送り届け、暗闇で手をぶんぶん振って別れる。

それだけ盛り上がってまだ話足りないのに、毎回一期一会で、また次までだいぶ間があく。

日頃から密に繋がろうとか誰も言わないところも好きだ。

また会う日まで、ご安全に。

 

 

昨年から定期的に関わらなくちゃいけない人に、たびたび自分のありようを否定されるということが続いて、自己否定のループに久々にうっかりはまり込んでしまっていた。

年をとって、それなりに太く、強くなったつもりでいたので、一皮向けば昔と同じ心細く自信なさげな自分がぽつねんと半泣きで立っているありさまに、我ながらがっくりもし。

 

これまで書きためてきた前のブログをクローズしたのは、「写真を含む子供の個人情報にはもっと警戒した方がいい」というもっともな指摘を受けたことが一番の理由だけど、自分のすべてがやたら恥ずかしくて耐えられない気分になってしまったから、ということもあり。

 

私は、ご指摘には感謝して素直に反省しつつ、確かに下らないだめ人間ではあるが、それでもそんな自分もできるだけハッピーに生きていたいから、あまりに自己肯定感が下がってしまう関係性からは距離を置き、自分の身を守ってこう、と思う。

ようやくそう明るく受け止められるようになった。

 

だからといって人を雑に、軽んじてもいいということにはならん。

そういうこと。

なんかすごい負け惜しみ感が漂ってる気がするが(苦笑)、私だけはいつも私の味方であるべきと思うし、娘氏も夫氏も、すごく真摯に私の側に立って、色んな大事な考えを伝えてくれた。

私は幸せ。

まじでそろそろさっぱり前向こう。

雪予報

昨日から明日は雪だと散々聞かされていたけれど、今もしとしとと雨が降っている。

しんとした家の中一人きりで、静けさを堪能している。

何度もおかわりできるよう、ポットいっぱいにアールグレイを作った。

 

今日は夕方から久しぶりの友達で集まる予定だった。この感じではどうも延期になるのかなあ。残念。

昨日LINEグループで相談しあい、「天気次第だね」「当日の様子見て決めましょう」って皆が書き込む中、「自分は雪でも会いたいよ!」と言うUちゃんの可愛さに思わず文字を見ながら笑顔になる。

彼女はいつでも強くて素直。コロナの長いブランクがあっても変わらない。きっと会った瞬間いきなり盛り上がり、別れる瞬間まで途切れることがないんだろう。

 

個性の強い面々で、皆見事にばらばらの価値観と人生で、話が何しろ面白いから、私はいつも興味津々で聞いている。

たまにしか会わないから、皆話したいことが溜まっていて、これだけは話したいとばかりにどんどん話す。

だから私はいつもあんまり話さないし、別にそれで構わない。

これだけ長い付き合いになってくると、定点観測みたいなもので、折々に彼女らが何を思い、何を選び、どう行動したかを聞けることが、なんか自分を励ましてくれるし、安心させてもくれる。

全員あまりに違うタイプなので、「私もー」という共感ベースで話が進むこともなく、どんなことも爆笑やびっくりに変換されるところも清々しい。

「もっとこうしたらいいのに」とかの余計なお世話が一切思いつかないところもいい。

 

私は、昨年の終わり頃から基本はずっと気持ちが落ち込み気味で、自分が嫌になる気持ちの中来ているので、久々にあの空気感の中でにやにやできるのかな〜と楽しみに、というかそこに小さな救いを求めるような気持ちでもいたので、拍子抜け。

でも、固い絆で結ばれているような間柄ではないが、今回の皆の熱意から見て、流れることはないであろう。

 

窓を開けると、いつもより一段寒い。

雪が滅多に降らない所に暮らしているから、雪だと言われるとやっぱりちょっと雪を楽しみにしてしまう。

「禁断のテレビ史」とこの30年

禁断のテレビ史①】日本を支配した電通とテレビ局!命がけの超授業【オリラジアカデミー】 - YouTube

オリラジアカデミーの「禁断のテレビ史」、今頃見たがすごく楽しめた。

中でも、1990年代以降の日本の30年史を、その時代時代に一世を風靡した番組に重ね合わせ、どんな必然性があってその番組たちが生まれたかを説明しながら解説するのが目からうろこの面白さだった。

セットが組めなくなったからロケになって、大物タレントは出演料がかかるから素人や新人を利用する、という風にテレビは予算に合わせてどんどん変化していった。

こんなに誰にも分かりやすく面白く、バブルが弾けた後の30年の日本の経済状況を横断的に見せてくれたものって、あんまりないのじゃなかろうか。

特に、後編のスリリングさとドライブ感はすごかったなあ。

お金をみっちりとかけた、凝ったオープニング映像と大量の観覧と、今のテレビ番組よりも豪勢なスタジオセットだった。

中田さんはテレビを干されたと言われながら早々にテレビに見切りをつけて、持てる武器を最大限に活かしながら、自らのメディアを虎視眈々と構築してきた。

もはやテレビ抜きで完全に成立している姿を見せつけるような、テレビにしがみつき続ける人々に引導を渡したかのような、ある種容赦のない景気の良さであったなあ。

 

実際、日本はこの30年ひたすらに貧しくなり続けていた。

しかしそのことが全体的なコンセンサスの元に語られ始めたのはここ数年のこと。

なぜ我々は長いこと気付かなかったのか?

 

アベノミクスが成功した」という政治の喧伝などももちろんあると思う。

しかし、それよりもテレビの影響の方が大きいのかもしれない。

30年間、どんどん予算がが減らされていく一方のテレビ制作の現場で、テレビマンたちは涙ぐましい努力と工夫を重ね、テレビは形を変えながら、常に景気良く、ハッピーな雰囲気を装い続けた。

そこでは常に派手なパーティが繰り広げられていた。

テレビマンたちの知恵と過重労働、お笑いとジャニーズの力で、我々は自分たちがどんどん貧しくなっているということを自覚できないままここまで来てしまった、とある意味で言える。

そう考えると、テレビの罪は重いなあと感じる。生き残るに必死だったとはいえ。

どんだけひどい状況下でも、ちゃぶ台返しせずにひたすら耐えて、なんとか体裁を整え続けてしまうあたりも、いかにも日本らしい。

 

しかしついに、スタジオ収録すら省いてVTRだけで構成された番組や、素人の勝ち抜き選手権や、散歩番組みたいな番組ばかりになってしまって、その貧乏くささはどうにも隠しきれなくなる。

そして2019年、ついにネットの広告費がテレビの広告費を超え、テレビと電通が作り上げた広告モデルが崩壊を始める。

うーーむ。

 

 

最近、首相が「育休中の学び直しを支援する」と言って、批判を浴びていた。

ろくに育児に関わってこなかった無知ゆえの発言で、どうしようもないなともちろん思う。

ただ、今のこのハレーション、地雷味の強さ、「育児がこれほどきついことであり、余裕なんて1ミリもない、いい加減にしろ」という意見の強さは10年前の比ではないなとも感じる。

 

幸か不幸か、10年以上のブランクを経て再び幼児を育てているので、10年前と今の子育てや親のありように色々違いを感じることが日頃から多い。

もっとも顕著なことの一つは、1歳を迎える前にママが仕事復帰するのが当たり前の前提での会話になることが少なくないこと。また、土地柄もあるのだろうが親をあまり頼みにしていない感じも以前より強く感じる。

保育無償化の流れも大きくあると思うし、あくまで主観的な感想ではあるけれど。

働く動機はもちろん人によってさまざまで、働きたい人が仕事復帰しやすい環境で良い、という見方もあると思う。

しかし、夫婦共にめいっぱい働きながら協力して子育てをしないと経済的に成立しないから、相当な無理ゲーなのは分かっている、でもみんなやっていることだから気合いでやるしかない。という状況の人にも出会ってきた。

 

中田さんの授業を見る中で、今の日本は、70代より60代の方が貧しいし、50代はさらに貧しいんだという当たり前のことを改めて思わされた。

今40代の私たちは、もちろん苦しいんだけど、親世代が結構豊かなままなんとか逃げ切れるぎりぎりの団塊の世代

もちろん誰もが親のサポートを受けられるわけではないけれど、今20〜30代の若い世代はより厳しい状況なんだろうなと想像する。

もう先進国とは言えないくらいの低賃金と女性の70%が非正規雇用という現状は一つも変えないままに、「休んでいる間」にもっと努力して企業に評価される人間になれという。そんな2023年・・・。

この状況での発言に、人々が怒るのは至極当然だなと思う。

 

ただ、パラダイムシフトはもう目の前だな、という小さな希望に似たものも感じている。

まー、まだしばらくは粘ると思う。

今は人手不足で人が高くつくなら、お店や窓口は機械やロボットで回せばいいという流れが加速中。

あくまで利益確保を優先して、働く人々の待遇や環境の改善やケアを意地でも拒み続けることで、国を出られる若い人たちは静かに出て行くだろう。

保育、教育、医療、介護をはじめとしたエッセンシャルワークの低賃金環境もなかなか変わらないだろう。

個々の企業や組織がなんとか待遇を上げようと頑張っても、非正規中心の雇用環境である限り、派遣会社が多くを吸い上げてしまうので、構造は良くならない。

こき使えるとあてにしていた外国人労働者も早晩来なくなるだろう。

政府はマイナンバー、インボイスなどでまだまだ人を管理して、ぎりぎりいっぱいまで吸い上げようとしてくるも、あまりの政府の信頼できなさに動きは鈍く、なかなか思うようには進まず。

責任は取りたくない中で、今後、強制罰則をどうブレンドしてくるのか。

いずれにせよ、国が小金を出して必死にやらせようとしていることが、個々人の利益や幸せのためであるはずがないという経験則の元、私はぎりぎりまでじっと動かないでいる作戦。

 

そうこうしているうちに、日常のあちこちが、目に見えて穴ぼこだらけになってきている。

テレビみたいに、やぶれかぶれでもなんとか体裁を整えてきたのが、もうどうにも立ちゆかなくなったとき、何が起こってくるのだろう。

 

私は、このゲームを最小限の参加にとどめつつ、ますますひっそり暮らしを営んでいこうと思う。